第17話:逃げ場のない絶望
翌日の午後。
どんよりとした灰色の雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうな一日だった。
佐々木澪は、まるで死刑台に向かう罪人のような重い足取りで、本社ビルへと続く道を歩いていた。
一睡もできないまま朝を迎え、どうしても足が動かず、気づけば昼を回っていた。
目の下には濃い隈が張り付いている。
メイクで隠そうとしたが、土気色の肌はどうにもならなかった。
エントランスを抜け、エレベーターホールに足を踏み入れた瞬間。
澪は、周囲の空気が一変したのを感じた。
「……ねえ、あの子じゃない? 営業第三課の」
「うわ、本当だ。聞いたよ。帝王フーズ相手に独断でめちゃくちゃな話を進めて、会社に5億円の損害賠償を請求されてるって」
「しかも課長に怒鳴られて、その場で崩れ落ちたらしいよ……」
「マジで? プライド高そうな顔してんのに、ヤバすぎでしょ……」
他部署の社員たちが、遠巻きに澪を見ながらヒソヒソと囁き合っている。
針のむしろだった。
昨日の今日で、澪が犯した致命的なミスと、その後に見せた無様な失態の噂は、すでに本社ビル中に知れ渡っていたのだ。
(やめて……見ないで……っ)
澪は顔を伏せ、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
心臓が早鐘のように鳴り、胃の奥がギリギリと締め付けられる。
昨日の恐怖がフラッシュバックし、足元から血の気が引いていくのが分かった。
営業第三課のフロアに到着し、重い扉を開ける。
その瞬間、オフィスにいた全員の視線が澪に突き刺さった。
一昨日まで澪に向けていた「若手エースへの羨望」など微塵もない。
そこにあるのは、会社に甚大な損害を招きかねない問題を起こした人間に対する「軽蔑」と「嫌悪」、そして「腫れ物」を見るような冷ややかな視線だけだった。
澪は震える足で、まっすぐにオフィスの一番奥――課長の霧島玲奈のデスクへと向かった。
そして、カバンの中から白い封筒を取り出し、震える両手で玲奈の前に差し出した。
「……退職届です。この度は、私の身勝手な行動で、会社に多大なるご迷惑をおかけしてしまい……本当に、申し訳ありませんでした」
深く、深く頭を下げる。
もう、この会社に自分の居場所はない。
エースとしての誇りも、人間としての尊厳も全て失った。
潔く辞めて、逃げるしかない。
そう思っていた。
しかし、玲奈は目の前に出された白い封筒を一瞥もせず、冷たい声で言い放った。
「……受け取れないわね」
「え……?」
澪が顔を上げると、玲奈は氷のように冷たい瞳で澪を見据えていた。
「か、課長……私はもう、この会社にいる資格は……」
「資格がないから辞める? 逃げるつもりなの?」
玲奈の静かな怒気に、澪はビクッと肩を震わせた。
「あなたの軽率で愚かな独断専行のせいで、会社がどれだけの不利益を被ったか分かっているの? 現在、法務部と役員が総出で、帝王フーズとの違約金交渉に当たっているわ。……でも、先方は完全に怒り狂っていて、5億円の損害賠償請求を一切取り下げる気はないそうよ」
「ごおく、えん……っ」
「ええ。そして会社は、あなた個人の責任範囲も含めて法務で精査を始めているわ」
その言葉に、澪の頭の中が真っ白になった。
「こ、個人に……!? そ、そんな……!」
「当たり前でしょう。会社の看板を背負ったまま、上司の決裁を無視して独断で話を進めたんだから。……いいこと、佐々木さん。退職届を出したからといって、それですべて終わるわけじゃないの」
玲奈は厳しい声で告げた。
会社が自分個人の責任まで問おうとしている。
その事実だけで、十分すぎるほどの恐怖だった。
澪には、それが「逃げても終わらない」という宣告にしか聞こえなかった。
「事態が収束するまで、この退職届は受理できない。あなたはもう帝王フーズの件には一切関わらないで。通常業務だけしていなさい」
玲奈はそう言うと、澪から視線を外し、自分のノートパソコンの画面へと向き直った。
「あ……ああ……っ」
澪は後退りし、よろけるように自席へと戻った。
退職という逃げ道すら塞がれた。
自分はこれから毎日、この冷ややかな視線と嘲笑に晒されながら、どこまで個人責任を問われるのかも分からない恐怖に怯え続けなければならないのだ。
息が、できない。
周囲のタイピング音や電話の話し声が、すべて自分を責め立てる怒声のように聞こえる。
澪は耐えきれず、カバンだけを掴むと、フラフラとした足取りでオフィスを飛び出した。
◇
「……お願い。出て……っ」
非常階段を駆け下り、本社ビルの裏手にある人気のない路地裏に身を隠すようにして、澪は震える指でスマートフォンを操作した。
発信先は、先日『しばらく距離を置こう』と告げられた恋人、翔太。
数回のコールの後、ガチャリと電話が繋がった。
「……もしもし。澪?」
「翔太……っ! お願い、助けて……っ。私、もうどうしていいか……っ!」
「おい、どうしたんだよ。泣いてるのか? 今、仕事中だろ?」
翔太の声は、驚きと、そしてかつて澪に向けられていた「優しさ」を孕んでいた。
その温かい声を聞いた瞬間、澪の心の堰が切れた。
澪は壁に背中を預け、嗚咽を漏らしながら全てを打ち明けた。
後輩に負けたくないという焦りから、無謀な契約を独断で進めてしまったこと。
計算ミスで会社に5億円の損害賠償請求を招いてしまったこと。
退職届も受け取ってもらえず、会社から個人の責任まで問われようとしていること。
「私、もうどうしていいか分からない……。何億なんて借金、一生かかったって返せない……っ。翔太、お願い……見捨てないで……。私にはもう、翔太しかいないの……っ」
電話越しに、すがるように懇願する澪。
どんなにひどい態度をとっても、彼はいつも最後には許してくれた。
今回だって、きっとこの絶望から私を救って、精神的な支えになってくれるはずだ。
しかし――。
澪の告白を聞き終えた後、電話の向こうの翔太からは、長くて重い沈黙が返ってきた。
「……5億の、損害賠償……?」
「しょ、翔太……?」
「……ふざけんなよ」
翔太の口から漏れたのは、低く、震えるような声だった。
「え……」
「俺は、ただの中堅メーカーのしがない営業だぞ!? 5億なんて借金、一生かかったって返せるわけないだろ!」
「ち、違うの、翔太! お金を払ってほしいわけじゃなくて、ただ傍にいてほしくて……っ」
「同じことだろ!!」
電話越しでもはっきりと分かるほど、翔太は激昂していた。
その声にあるのは、哀れみでも愛情でもない。
自分の平穏な人生を脅かす「疫病神」に対する、強烈な恐怖と嫌悪感だった。
「もしお前と結婚でもしたら、俺までその借金地獄に巻き込まれるってことじゃないか! 冗談じゃない!」
「翔太……っ、お願い、そんなこと言わないで……っ」
「お前が勝手に焦って、勝手に自爆しただけだろ! 俺を巻き込むな! ……この前、距離を置こうって言ったよな。悪いけど、もう終わりだ。二度と連絡してこないでくれ!」
「翔太! 待って、お願いだから……っ!」
通話の切れた電子音が、澪の耳元で冷たく鳴り続けた。
取り残された澪は、スマートフォンを握りしめたまま、その場に力なくへたり込んだ。
(……ああ。私、本当に、一人ぼっちになっちゃったんだ)
誰も悪くない。
翔太の反応は、一般のサラリーマンとして極めて真っ当で、当然の防衛本能だ。
億単位の負債を抱えるかもしれない女と、共に人生を歩もうなどと思う男がいるはずがない。
全ては、自分の愚かなプライドと焦りが招いた結果なのだ。
誰もいない路地裏で、澪はただ虚空を見つめ、声も出さずに涙を流し続けていた。
どれくらい、そうしていただろう。
澪はフラフラとした足取りで路地裏を抜け、大通りへと歩き出した。
周囲の景色が、まるでピントの合わないカメラのようにぼやけて見える。
行き交う人々の話し声や、車のエンジン音。
そのすべてが、透明なガラスの壁の向こう側で鳴っているかのように遠かった。
若手エースとしてのプライド。
やりがいのある仕事。
社内での居場所。
そして、自分を支えてくれていた恋人。
全てを失った。
今、澪の手に残っているのは、一生かかっても背負いきれないかもしれない「莫大な借金」という恐怖だけだ。
(これから先、何十年も……毎日会社でゴミみたいに扱われながら、借金を返すためだけに生きていくの……?)
そんな人生に、一体何の意味があるのだろう。
両親にも迷惑をかける。
誰とも結婚できない。
ただ、借金を返すためだけに生き続ける存在。
(……嫌だ。そんなの、絶対に耐えられない)
◇
澪は気づけば、都内の大きな交差点に立っていた。
目の前には、絶え間なく行き交う車の波。
大型のトラックが、地響きを立てながら猛スピードで横切っていく。
信号は、赤だった。
(あの車の波の中に、踏み出せば……)
一瞬の痛みの後には、全ての恐怖と絶望から解放される。
借金の取り立ても、先輩たちの冷笑も、もう二度と味わわなくて済む。
澪は虚ろな瞳のまま、無意識のうちに、スッと右足を前に出した。
「……お母さん、お父さん。ごめんなさい……っ」
ポロリと一粒の涙をこぼし、赤信号の横断歩道へと、重心を前へ傾けようとした。
その、瞬間だった。
「――おっと。危ないよ、佐々木さん」
不意に、強い力で左腕をグッと引かれた。
「え……っ」
バランスを崩し、後ろに引き戻される。
直後、澪の鼻先わずか数十センチのところを、大型トラックがけたたましいクラクションを鳴らしながら通り過ぎていった。
もしあのまま足を踏み出していれば、間違いなく撥ねられていた。
ビクッと肩を震わせ、澪は慌てて自分を引き戻した人物を見上げた。
そこには、困ったように眉を下げている健介が立っていた。
いつもオフィスで「いやぁ、目が疲れるねぇ」と呟いている、あの『冴えないおじさん』。
「さわ、むら……さん……? どうして、ここに……」
「たまたま通りかかっただけだよ。ちょっと外の空気を吸いに出ててね」
健介は澪の腕からそっと手を離すと、いつものようにのんきで、優しい笑みを浮かべた。
「ずいぶん疲れた顔をしてるね。……よかったら少し、僕と温かいコーヒーでも飲まない? この近くに、静かな公園があるから」
普段の澪であれば、「あなたには関係ないでしょ」と舌打ちして無視するはずの相手だ。
会社のお荷物。
冴えない中年男。
だが、極限の孤独と絶望の淵に立たされていた今の澪には。
そのどこまでも穏やかで、全てを包み込むような健介の声が、暗闇の底に、ただ一本だけ下ろされた縄梯子のように感じられたのだ。
「……っ」
澪の目から、せき止めていた涙が再びボロボロと溢れ出した。
声にならない嗚咽を漏らしながら、澪はその場に膝から崩れ落ち、健介はただ静かに、彼女の悲しみが落ち着くまでその場に立ち尽くしていたのだった。




