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46歳のおじさん、左遷後に人生最大のモテ期到来  作者: とん汁ごはん
第2章:佐々木澪

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第18話:闇の出口

喧噪から少し離れた、緑の多い静かな公園。


すっかり陽が落ち、街灯のオレンジ色の光がポツンと照らすベンチに、佐々木澪と健介は並んで腰を下ろしていた。


「ほら。温かいうちにどうぞ」


健介は近くの自動販売機で買ってきたホットの缶コーヒーを、澪の手にそっと握らせた。


「……」


澪は何も言わず、手の中の缶コーヒーを見つめたまま身動き一つしなかった。


交差点の赤信号に引き込まれそうになった時の、あのガラスの向こう側にいるような虚無感がまだ続いている。


頭の中には、翔太から突きつけられた『俺を巻き込むな』という拒絶の言葉と、5億円の損害賠償という絶望の数字だけが、ひたすらにリフレインしていた。


健介も無理に言葉をかけようとはしなかった。


ただ、澪の隣で自分の缶コーヒーのプルタブを開け、フウと息を吐きながら少し距離を置いて座っている。


冷たい夜風が二人の間を吹き抜けていく。


どれほどの時間が経っただろうか。


きゅるるるぅぅ……。


静寂の公園に、ひどく間の抜けた音が響き渡った。


澪のお腹が鳴った音だった。


「あっ……」


澪はハッとして、慌てて両手でお腹を押さえた。


昨日の夜から、一睡もしていないし、水すらも喉を通っていなかった。


極限の精神状態の中で麻痺していた身体が、トラックに撥ねられそうになったショックで命の危機を感じ、空腹という、生きるための防衛本能を急激に主張し始めたのだ。


絶望の淵にいるというのに、こんな時に限ってお腹が鳴るなんて。


あまりの惨めさと羞恥心で、澪はギュッと唇を噛み締め、俯いた。


(笑えばいいわよ……。こんなにボロボロになってるのに、お腹だけは鳴るなんて……滑稽でしょ)


しかし、隣に座る健介は、決して笑わなかった。


彼は「ふむ」と小さく頷くと、おもむろに内ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへと発信した。


数回のコールの後、電話が繋がる。


「あ、お疲れ様です。沢村です。……はい。実は今、佐々木さんと一緒にいるんですが。ええ」


健介の口から自分の名前が出て、澪は驚いて顔を上げた。


彼が電話をかけている相手は、なんと課長の霧島玲奈だった。


「……ええ、実は先ほど休憩室で彼女がひどい貧血を起こしてしまいまして。はい、歩くのもやっとの状態でして。……ええ、なので今日はこのまま、私が彼女を病院へ連れて行き、帰宅させます。事後報告になり申し訳ありません」


電話の向こうから、玲奈の「またあの子は……。もういいわ、今日は休ませなさい。ただし、明日は必ず出社するように伝えて」という、冷たく苛立った声が微かに漏れ聞こえてきた。


「はい、承知いたしました。失礼します」


健介は通話を切ると、スマートフォンをポケットにしまい、ベンチからゆっくりと立ち上がった。


「さ、行こうか。佐々木さん」


「え……どこに、ですか。病院なんて……」


「病院には行かないよ。今の電話は、今日は君を会社から休ませるための口実だ。……でも、君には今、まず必要なものがある。ほら、立てるかい?」


健介が差し出した大きな手のひら。


澪は戸惑いながらも、その温かく力強い手に引かれるまま、フラフラとした足取りで立ち上がった。



◇



健介に連れられてやってきたのは、オフィス街の裏路地にひっそりと佇む、古びた定食屋だった。


「大衆食堂・よしだ」と書かれた赤提灯が、夜の闇に温かい光を落としている。


ガラガラ、と引き戸を開けて中に入ると、醤油と出汁の甘い匂いがふわりと鼻をくすぐった。


時刻は20時を過ぎていたが、オフィス街の裏手という立地のせいか、店内に客は一人もいなかった。


カウンターの奥で、頭にタオルを巻いた恰幅の良い大将が「いらっしゃい」と人の良さそうな声をかけてきた。


「大将、こんばんは。奥のテーブル、いいかな」


「おお、沢村さん。いらっしゃい。どうぞどうぞ」


健介は慣れた様子で、澪を店の一番奥のテーブル席へと促した。


座布団の敷かれたパイプ椅子。


年季の入った木のテーブル。


普段、お洒落なカフェやイタリアンにしか行かない澪にとっては、完全に別世界の空間だった。


「ここはアジフライが絶品なんだ。大将、アジフライ定食を二つ。あと、味噌汁は豚汁に変更でお願い」


健介が勝手に注文を済ませると、大将は「あいよ!」と威勢よく答え、厨房の奥で油を温める心地よい音を響かせ始めた。


澪はテーブルに視線を落としたまま、ギュッと自分の膝を握りしめていた。


大将が置いていった湯呑みにも、手を伸ばそうとはしない。


(どうして、こんなところに……)


頭の中はまだ、5億円の損害賠償のことでいっぱいだった。


会社から訴えられる。


両親の老後の資金まで奪ってしまうかもしれない。


翔太にも見捨てられた。


こんな状況で、ご飯なんて喉を通るはずがない。


やがて、「お待たせしました」という声と共に、湯気を立てるお盆が二つ、テーブルに運ばれてきた。


こんがりときつね色に揚がった大きなアジフライ、山盛りのキャベツ、どんぶり飯、そして具沢山の豚汁。


「ほら、冷めないうちに。いただこう」


健介は割り箸を割り、早速アジフライにソースをかけ始めた。


しかし、澪は箸に触れようともせず、ただじっとその定食を見つめていた。


「……食べられません」


「少しは食べた方がいい」


「食べられないって言ってるでしょ!!」


不意に、澪の口からヒステリックな怒声が弾けた。


静かな店内に、その悲痛な叫び声が響き渡る。


「あなたに、私の何が分かるんですか……っ。私はもう、人生が終わったんです。会社に5億円もの損害を出しかねないミスをして、個人の責任まで問われそうになって……っ。彼氏にも捨てられて、全部失ったんです! それなのに……どうして、そんなのんきにご飯なんて……っ! 沢村さんにとっては他人事だから、そんな余裕ぶっていられるんですよ!」


怒りと惨めさで泣きじゃくる澪に対し、健介は怒るでもなく、ただ静かに箸を置いた。


「……他人事だよ」


「え……」


「君が背負おうとしている5億円の借金も、彼氏との別れも。僕にとっては、完全に他人事だ」


あまりにも冷酷で、真っ直ぐな言葉。


澪が言葉を失い、絶望的な孤独感に再び突き落とされそうになった、その直後だった。


「でもね。……他人事だからこそ、君に見えないことも、僕には冷静に見えるんだよ」


健介の瞳には、いつもの気の抜けたような光はなかった。


そこにあったのは、ビジネスの最前線で数多の修羅場をくぐり抜けてきた、大人の男としての揺るぎない強さと自信だった。


「佐々木さん。君は今、絶望という真っ暗な闇の中に閉じこもって、出口がないと思い込んでいる。でも、外から見ている僕には、その闇の出口がちゃんと見えているんだ」


「やみの……でぐち……?」


「ああ。だから、絶対に大丈夫だ。……君の人生は、ここで終わるような安いものじゃない」


健介の低く落ち着いた声が、澪の心の奥底にある一番柔らかい部分に、スッと染み込んでいく。


根拠なんて何もない。


ただの慰めかもしれない。


でも、誰も助けてくれなかった。


誰もが澪から逃げていったこの底なしの孤独の中で、この目の前の男だけは、逃げずに、真っ直ぐに澪を受け止め、「大丈夫だ」と言い切ってくれたのだ。


「……でも、大将が困ってるよ。せっかく揚げてくれたのに、若い女の子に泣かれちゃって」


健介がふと視線を逸らし、いつもの調子でそう言うと。


厨房の奥から、大将が心配そうな、けれど優しい笑顔でこちらを見ているのが分かった。


「……っ」


澪は気まずさに顔を真っ赤にして、慌てて涙をゴシゴシと拭った。


そして、震える手で割り箸をパチンと割り、両手を合わせた。


「い、いただきます……っ」


湯気を立てる豚汁のお椀を両手で包み込み、一口啜る。


大根、ニンジン、豚肉の甘みが溶け出した、濃くて温かい味噌の味。


「……あ」


それは、高級なレストランの味でも、洒落たカフェの味でもない。


ただひたすらに温かくて、優しくて、空っぽだった胃袋と心に直接染み渡っていくような、本能に訴えかける「生きるための味」だった。


(美味しい……。すごく、あったかい……っ)


一口飲んだ瞬間、澪の目から、先ほどとは全く違う種類の涙がボロボロと溢れ出した。


限界だった。


後輩に負けたくなくて、見栄を張って、無理をして。


誰にも弱音を吐けずに、一人でギリギリの綱渡りを続けてきた。


その張り詰めていた糸が、この温かい豚汁と、健介の「大丈夫だ」という言葉によって、完全にプツンと切れてしまったのだ。


「ひぐっ……おいひい……っ」


澪はもう、自分がどんな顔をしているかなど気にしなかった。


ポロポロと涙を流し、しゃくり上げながら、アジフライを口に運び、どんぶり飯を少しずつ、けれど確実に胃に収めていった。


「ゆっくりでいい。温かいお茶もあるからね」


健介は微笑みながら、澪の前の湯呑みをそっと押しやった。


澪は子どものように泣きじゃくりながら、ただひたすらに、目の前の温かい食事を胃袋に詰め込み続けていた。


「……ごちそうさまでした。汚い食べ方して、すみません……」


お盆の上の食事を綺麗に平らげた澪は、目を真っ赤に腫らしながら、小さく頭を下げた。


「いいや。大将も、あそこまで綺麗に食べてもらえて喜んでるよ」


健介は空になった二つの湯呑みに、新しいお茶を注ぎ足した。


胃袋が満たされ、身体が温まると、不思議なほど心の中のざわめきが落ち着いているのが分かった。


絶望が消えたわけではない。


しかし、少なくとも、さっきまでの「死ぬしかない」という極端な思考からは、少しだけ距離を置けるようになっていた。


「……聞いて、もらえますか」


澪は湯呑みを両手で包み込み、ぽつりぽつりと語り始めた。


健介は何も言わず、ただ静かに頷き、澪の言葉を待った。


「私……ずっと、エースでいなきゃいけないって、自分を追い込んでたんです。星野さんが大きな契約を取って、私の居場所がなくなるのが怖くて……。後輩に負けたくないっていう無駄なプライドと嫉妬で、周りが全然見えなくなってました」


澪の目から、再びスッと涙が線を引いた。


「だから、誰にも相談せずに、帝王フーズっていう危険な相手に手を出して……焦って、致命的な計算ミスをしたまま、先方に契約の仮承諾をもらってしまったんです。今日、退職届も受け取ってもらえなくて……会社から、私個人の責任まで法務で精査するって言われて。どこまで責任を問われるのか分からなくて、怖くて……」


澪は両手で顔を覆い、深い自己嫌悪に沈んだ。


「さっき、外に飛び出して……彼氏に電話したんです。助けてほしくて。……でも、彼は『5億円の借金なんて巻き込まないでくれ』って言って、電話を切りました」


「当然ですよね。彼だって普通のサラリーマンなんだから、私の借金地獄に巻き込まれたくないに決まってる。……全部、私が悪いんです。私がバカで、愚かで、一人で空回りして……全部壊した」


すべてを吐き出した。


醜い嫉妬も、愚かな失敗も、どうしようもない弱さも。


エースとして誰にも見せなかった澪の『本当の姿』を、この『冴えないおじさん』の前で、すべて曝け出したのだ。


「もう、私には何もないんです。プライドも、仕事も、恋人も。……あるのは、一生かかっても返せない借金の恐怖だけ。だから……あの交差点で、死のうとしました」


「……っ、ごめんなさい。こんな重い話、沢村さんには関係ないのに……」


澪が嗚咽を漏らしながら謝罪すると。


コトン、と。


健介が湯呑みをテーブルに置く、静かな音が響いた。


「……佐々木さん」


健介の声は、どこまでも優しく、そして深かった。


澪が顔を上げると、健介は真っ直ぐに澪の瞳を見つめ返していた。


「君は、一つだけ間違えていることがある」


「……え?」


「君は『全部失った』と言ったね。でも、それは違う」


健介はゆっくりと身を乗り出し、静かに、けれど力強く告げた。


「まだ、終わってないよ」

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