第18話:闇の出口
喧噪から少し離れた、緑の多い静かな公園。
すっかり陽が落ち、街灯のオレンジ色の光がポツンと照らすベンチに、佐々木澪と健介は並んで腰を下ろしていた。
「ほら。温かいうちにどうぞ」
健介は近くの自動販売機で買ってきたホットの缶コーヒーを、澪の手にそっと握らせた。
「……」
澪は何も言わず、手の中の缶コーヒーを見つめたまま身動き一つしなかった。
交差点の赤信号に引き込まれそうになった時の、あのガラスの向こう側にいるような虚無感がまだ続いている。
頭の中には、翔太から突きつけられた『俺を巻き込むな』という拒絶の言葉と、5億円の損害賠償という絶望の数字だけが、ひたすらにリフレインしていた。
健介も無理に言葉をかけようとはしなかった。
ただ、澪の隣で自分の缶コーヒーのプルタブを開け、フウと息を吐きながら少し距離を置いて座っている。
冷たい夜風が二人の間を吹き抜けていく。
どれほどの時間が経っただろうか。
きゅるるるぅぅ……。
静寂の公園に、ひどく間の抜けた音が響き渡った。
澪のお腹が鳴った音だった。
「あっ……」
澪はハッとして、慌てて両手でお腹を押さえた。
昨日の夜から、一睡もしていないし、水すらも喉を通っていなかった。
極限の精神状態の中で麻痺していた身体が、トラックに撥ねられそうになったショックで命の危機を感じ、空腹という、生きるための防衛本能を急激に主張し始めたのだ。
絶望の淵にいるというのに、こんな時に限ってお腹が鳴るなんて。
あまりの惨めさと羞恥心で、澪はギュッと唇を噛み締め、俯いた。
(笑えばいいわよ……。こんなにボロボロになってるのに、お腹だけは鳴るなんて……滑稽でしょ)
しかし、隣に座る健介は、決して笑わなかった。
彼は「ふむ」と小さく頷くと、おもむろに内ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへと発信した。
数回のコールの後、電話が繋がる。
「あ、お疲れ様です。沢村です。……はい。実は今、佐々木さんと一緒にいるんですが。ええ」
健介の口から自分の名前が出て、澪は驚いて顔を上げた。
彼が電話をかけている相手は、なんと課長の霧島玲奈だった。
「……ええ、実は先ほど休憩室で彼女がひどい貧血を起こしてしまいまして。はい、歩くのもやっとの状態でして。……ええ、なので今日はこのまま、私が彼女を病院へ連れて行き、帰宅させます。事後報告になり申し訳ありません」
電話の向こうから、玲奈の「またあの子は……。もういいわ、今日は休ませなさい。ただし、明日は必ず出社するように伝えて」という、冷たく苛立った声が微かに漏れ聞こえてきた。
「はい、承知いたしました。失礼します」
健介は通話を切ると、スマートフォンをポケットにしまい、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「さ、行こうか。佐々木さん」
「え……どこに、ですか。病院なんて……」
「病院には行かないよ。今の電話は、今日は君を会社から休ませるための口実だ。……でも、君には今、まず必要なものがある。ほら、立てるかい?」
健介が差し出した大きな手のひら。
澪は戸惑いながらも、その温かく力強い手に引かれるまま、フラフラとした足取りで立ち上がった。
◇
健介に連れられてやってきたのは、オフィス街の裏路地にひっそりと佇む、古びた定食屋だった。
「大衆食堂・よしだ」と書かれた赤提灯が、夜の闇に温かい光を落としている。
ガラガラ、と引き戸を開けて中に入ると、醤油と出汁の甘い匂いがふわりと鼻をくすぐった。
時刻は20時を過ぎていたが、オフィス街の裏手という立地のせいか、店内に客は一人もいなかった。
カウンターの奥で、頭にタオルを巻いた恰幅の良い大将が「いらっしゃい」と人の良さそうな声をかけてきた。
「大将、こんばんは。奥のテーブル、いいかな」
「おお、沢村さん。いらっしゃい。どうぞどうぞ」
健介は慣れた様子で、澪を店の一番奥のテーブル席へと促した。
座布団の敷かれたパイプ椅子。
年季の入った木のテーブル。
普段、お洒落なカフェやイタリアンにしか行かない澪にとっては、完全に別世界の空間だった。
「ここはアジフライが絶品なんだ。大将、アジフライ定食を二つ。あと、味噌汁は豚汁に変更でお願い」
健介が勝手に注文を済ませると、大将は「あいよ!」と威勢よく答え、厨房の奥で油を温める心地よい音を響かせ始めた。
澪はテーブルに視線を落としたまま、ギュッと自分の膝を握りしめていた。
大将が置いていった湯呑みにも、手を伸ばそうとはしない。
(どうして、こんなところに……)
頭の中はまだ、5億円の損害賠償のことでいっぱいだった。
会社から訴えられる。
両親の老後の資金まで奪ってしまうかもしれない。
翔太にも見捨てられた。
こんな状況で、ご飯なんて喉を通るはずがない。
やがて、「お待たせしました」という声と共に、湯気を立てるお盆が二つ、テーブルに運ばれてきた。
こんがりときつね色に揚がった大きなアジフライ、山盛りのキャベツ、どんぶり飯、そして具沢山の豚汁。
「ほら、冷めないうちに。いただこう」
健介は割り箸を割り、早速アジフライにソースをかけ始めた。
しかし、澪は箸に触れようともせず、ただじっとその定食を見つめていた。
「……食べられません」
「少しは食べた方がいい」
「食べられないって言ってるでしょ!!」
不意に、澪の口からヒステリックな怒声が弾けた。
静かな店内に、その悲痛な叫び声が響き渡る。
「あなたに、私の何が分かるんですか……っ。私はもう、人生が終わったんです。会社に5億円もの損害を出しかねないミスをして、個人の責任まで問われそうになって……っ。彼氏にも捨てられて、全部失ったんです! それなのに……どうして、そんなのんきにご飯なんて……っ! 沢村さんにとっては他人事だから、そんな余裕ぶっていられるんですよ!」
怒りと惨めさで泣きじゃくる澪に対し、健介は怒るでもなく、ただ静かに箸を置いた。
「……他人事だよ」
「え……」
「君が背負おうとしている5億円の借金も、彼氏との別れも。僕にとっては、完全に他人事だ」
あまりにも冷酷で、真っ直ぐな言葉。
澪が言葉を失い、絶望的な孤独感に再び突き落とされそうになった、その直後だった。
「でもね。……他人事だからこそ、君に見えないことも、僕には冷静に見えるんだよ」
健介の瞳には、いつもの気の抜けたような光はなかった。
そこにあったのは、ビジネスの最前線で数多の修羅場をくぐり抜けてきた、大人の男としての揺るぎない強さと自信だった。
「佐々木さん。君は今、絶望という真っ暗な闇の中に閉じこもって、出口がないと思い込んでいる。でも、外から見ている僕には、その闇の出口がちゃんと見えているんだ」
「やみの……でぐち……?」
「ああ。だから、絶対に大丈夫だ。……君の人生は、ここで終わるような安いものじゃない」
健介の低く落ち着いた声が、澪の心の奥底にある一番柔らかい部分に、スッと染み込んでいく。
根拠なんて何もない。
ただの慰めかもしれない。
でも、誰も助けてくれなかった。
誰もが澪から逃げていったこの底なしの孤独の中で、この目の前の男だけは、逃げずに、真っ直ぐに澪を受け止め、「大丈夫だ」と言い切ってくれたのだ。
「……でも、大将が困ってるよ。せっかく揚げてくれたのに、若い女の子に泣かれちゃって」
健介がふと視線を逸らし、いつもの調子でそう言うと。
厨房の奥から、大将が心配そうな、けれど優しい笑顔でこちらを見ているのが分かった。
「……っ」
澪は気まずさに顔を真っ赤にして、慌てて涙をゴシゴシと拭った。
そして、震える手で割り箸をパチンと割り、両手を合わせた。
「い、いただきます……っ」
湯気を立てる豚汁のお椀を両手で包み込み、一口啜る。
大根、ニンジン、豚肉の甘みが溶け出した、濃くて温かい味噌の味。
「……あ」
それは、高級なレストランの味でも、洒落たカフェの味でもない。
ただひたすらに温かくて、優しくて、空っぽだった胃袋と心に直接染み渡っていくような、本能に訴えかける「生きるための味」だった。
(美味しい……。すごく、あったかい……っ)
一口飲んだ瞬間、澪の目から、先ほどとは全く違う種類の涙がボロボロと溢れ出した。
限界だった。
後輩に負けたくなくて、見栄を張って、無理をして。
誰にも弱音を吐けずに、一人でギリギリの綱渡りを続けてきた。
その張り詰めていた糸が、この温かい豚汁と、健介の「大丈夫だ」という言葉によって、完全にプツンと切れてしまったのだ。
「ひぐっ……おいひい……っ」
澪はもう、自分がどんな顔をしているかなど気にしなかった。
ポロポロと涙を流し、しゃくり上げながら、アジフライを口に運び、どんぶり飯を少しずつ、けれど確実に胃に収めていった。
「ゆっくりでいい。温かいお茶もあるからね」
健介は微笑みながら、澪の前の湯呑みをそっと押しやった。
澪は子どものように泣きじゃくりながら、ただひたすらに、目の前の温かい食事を胃袋に詰め込み続けていた。
「……ごちそうさまでした。汚い食べ方して、すみません……」
お盆の上の食事を綺麗に平らげた澪は、目を真っ赤に腫らしながら、小さく頭を下げた。
「いいや。大将も、あそこまで綺麗に食べてもらえて喜んでるよ」
健介は空になった二つの湯呑みに、新しいお茶を注ぎ足した。
胃袋が満たされ、身体が温まると、不思議なほど心の中のざわめきが落ち着いているのが分かった。
絶望が消えたわけではない。
しかし、少なくとも、さっきまでの「死ぬしかない」という極端な思考からは、少しだけ距離を置けるようになっていた。
「……聞いて、もらえますか」
澪は湯呑みを両手で包み込み、ぽつりぽつりと語り始めた。
健介は何も言わず、ただ静かに頷き、澪の言葉を待った。
「私……ずっと、エースでいなきゃいけないって、自分を追い込んでたんです。星野さんが大きな契約を取って、私の居場所がなくなるのが怖くて……。後輩に負けたくないっていう無駄なプライドと嫉妬で、周りが全然見えなくなってました」
澪の目から、再びスッと涙が線を引いた。
「だから、誰にも相談せずに、帝王フーズっていう危険な相手に手を出して……焦って、致命的な計算ミスをしたまま、先方に契約の仮承諾をもらってしまったんです。今日、退職届も受け取ってもらえなくて……会社から、私個人の責任まで法務で精査するって言われて。どこまで責任を問われるのか分からなくて、怖くて……」
澪は両手で顔を覆い、深い自己嫌悪に沈んだ。
「さっき、外に飛び出して……彼氏に電話したんです。助けてほしくて。……でも、彼は『5億円の借金なんて巻き込まないでくれ』って言って、電話を切りました」
「当然ですよね。彼だって普通のサラリーマンなんだから、私の借金地獄に巻き込まれたくないに決まってる。……全部、私が悪いんです。私がバカで、愚かで、一人で空回りして……全部壊した」
すべてを吐き出した。
醜い嫉妬も、愚かな失敗も、どうしようもない弱さも。
エースとして誰にも見せなかった澪の『本当の姿』を、この『冴えないおじさん』の前で、すべて曝け出したのだ。
「もう、私には何もないんです。プライドも、仕事も、恋人も。……あるのは、一生かかっても返せない借金の恐怖だけ。だから……あの交差点で、死のうとしました」
「……っ、ごめんなさい。こんな重い話、沢村さんには関係ないのに……」
澪が嗚咽を漏らしながら謝罪すると。
コトン、と。
健介が湯呑みをテーブルに置く、静かな音が響いた。
「……佐々木さん」
健介の声は、どこまでも優しく、そして深かった。
澪が顔を上げると、健介は真っ直ぐに澪の瞳を見つめ返していた。
「君は、一つだけ間違えていることがある」
「……え?」
「君は『全部失った』と言ったね。でも、それは違う」
健介はゆっくりと身を乗り出し、静かに、けれど力強く告げた。
「まだ、終わってないよ」




