第19話:机上の空論
「……大将、悪いけど長くなりそうだから、ウーロン茶を二つ。あと、冷奴か枝豆でも適当に見繕って出してくれるかな」
健介が厨房に向かって声をかけると、奥から「あいよ!」という威勢の良い返事が返ってきた。
時刻は21時を回ろうとしていた。
古びた定食屋の奥のテーブル席。
佐々木澪はすっかり泣き腫らした目で、空になった豚汁のお椀を見つめていた。
先ほどの号泣と感情の爆発が嘘のように、今は心の中がスッと静まり返っている。
腹の底から温かいもので満たされたことで、極限まで張り詰めていた神経がようやく正常な働きを取り戻し始めていた。
やがて、冷たい水滴のついたウーロン茶のジョッキと、ネギと生姜がたっぷりと乗った冷奴が運ばれてきた。
「さて。少しは落ち着いたかい?」
健介はウーロン茶のジョッキを傾けながら、いつもの、のんきで優しい調子で問いかけた。
「……はい。あの、さっきは取り乱してしまって、すみませんでした。それに、ご飯まで……」
「いいんだよ。若い子はたくさん食べて、たくさん泣けばいい。……でも」
不意に、健介の声のトーンが、1オクターブ低く、落ち着いたものへと変化した。
「涙が乾いたなら、次は頭を使う番だ。ビジネスマンとしてね。……佐々木さん、どうしてこんなことになったのか。感情論は抜きにして、最初から冷静に状況を整理してみようか」
その声には、普段の『冴えないおじさん』の気配など微塵もなかった。
まるで、大企業の経営会議で冷徹に状況を分析する、百戦錬磨のコンサルタントのような凄みがあった。
澪はハッとして姿勢を正した。
健介は、澪をただ甘やかして「僕がなんとかしてあげるよ」と言うような男ではなかったのだ。
少なくとも、今の健介はそうだった。
最初から答えを押しつけるのではなく、まず澪自身に考えさせ、その上で必要な時だけ手を差し伸べる。
それが健介という男の、不器用で、けれど相手を立ち上がらせようとする『大人の流儀』なのだと、澪は少しずつ感じ始めていた。
「状況の、整理……」
「そうだ。君はどこで間違えた? 何が一番の原因だった? 順番に言葉にしてみなさい」
澪はウーロン茶のジョッキを両手で包み込み、ギュッと唇を噛み締めながら、記憶を一つずつ手繰り寄せた。
「まず……一番の落ち度は、霧島課長の決裁を仰がずに、私個人の独断で帝王フーズとの交渉を進めてしまったことです」
「理由は?」
「後輩の星野さんが、東都リテールという大口の契約を取りました。エースとしてのプライドが許さなくて……彼女以上の成績を早く出さなければと、焦っていました。だから、本来なら絶対に手を出さないような『ハイリスク・ハイリターン』の帝王フーズに、自分の手柄を急ぐあまりアプローチをかけてしまいました」
「なるほど。焦りによる、判断力の低下と独断専行。……それから?」
「先方の購買部長である黒田さんから、原価の30%カットと、初回導入協賛金5000万円という法外な条件を突きつけられました。……私はそれを持ち帰って、どうにかして利益を出すためのシミュレーションを徹夜で組み上げました。でも、過去のフォーマットを流用したせいで……その、マクロの参照セルがズレていて」
澪の言葉が、後悔で震えそうになる。
「協賛金と、物流コストの数字が……最終利益の計算からスッポリと抜け落ちていたんです。私はそれに気づかず、『1億円の黒字になる』という間違った数字を信じ込み、先方から仮承諾をもらってしまいました。……でも、実際は、契約すればするほどうちが3億円の赤字を垂れ流すという、最悪の条件でした」
すべてを話し終え、澪は深く頭を下げた。
「完全に、私の初歩的なミスです。確認不足と、独断専行……。会社が私個人の責任まで検討するのも、当然のことです」
澪が自嘲気味に呟くと。
健介は「ふむ」と短く頷き、割り箸で冷奴を一口、口に運んだ。
「なるほど。状況はよく分かった。君の言う通り、独断専行と、最終的なデータの確認不足。これは営業として完全に君の落ち度であり、猛省すべき点だ」
容赦のない、正論。
けれど、澪の胸に反発心は生まれなかった。
感情に流されず、ただ事実だけを冷静に抽出し、真っ当な評価を下してくれる健介の言葉が、痛いほど深く心に染み込んでいくのを感じていた。
「でもね、佐々木さん」
健介はウーロン茶のジョッキをテーブルに置き、澪の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「君の落ち度はそこまでだ。……そして、課長たちも、もっと根本的な部分で『大きな勘違い』をしている」
「勘違い……?」
澪が不思議そうに首を傾げると、健介はフッと口角を上げた。
「帝王フーズという企業に対する、認識のズレだよ」
健介はスマートフォンをポケットから取り出し、画面を数回タップして澪の前に置いた。
そこには、企業情報データベースに記載された、帝王フーズの過去10年分の財務諸表と、コンプライアンスに関するレポートが表示されていた。
「法務を入れた判断そのものは間違っていない。問題は、帝王フーズを『怒らせたら金を払って逃げるしかない相手』だと思い込んでいることだ」
「……違うんですか? 実際に、過去にうちの課の先輩も、無茶な要求と怒声で精神を病んで休職に追い込まれて……」
「確かに、彼らの交渉スタイルは恫喝まがいで、血も涙もないように見えるだろう。……だが、よく見てごらん。この10年間、帝王フーズが公正取引委員会から、優越的地位の濫用――いわゆる『下請けいじめ』で指導や勧告を受けた記録が、ただの一度でもあるかい?」
澪は画面を食い入るように見つめた。
ない。
違反履歴も、行政指導の記録も、一切白紙だ。
「え……でも、どうして……。あんな無茶苦茶な条件を強要しているのに……」
「強要じゃないからだよ」
健介は静かに、しかし断言するように言った。
「彼らはただ、どこよりも業績に対して『貪欲で、合理的』なんだ。相手が焦っていたり、自社の利益しか考えていない隙を見せれば、そこを容赦なく突く。だが、少なくとも表に残る形では法律のラインを越えない。常に相手に『YES』と言わせる形を作り、責任を追及されにくい交渉を徹底している。……だから、外からは違反として掴みにくい」
健介の分析に、澪は目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。
ただの、力任せに押し切るだけのブラック企業だと思っていた。
だから、一度ミスをして怒らせてしまえば、もう法務部を入れて違約金を払って逃げるしかないと、澪自身も思い込んでいたのだ。
「裏を返せば、どういうことか分かるかい? 佐々木さん」
健介の瞳の奥で、鋭いビジネスマンとしての光がギラリと瞬いた。
「彼らは合理的な企業だ。……つまり、『相手にとっても、自分たちにとっても明確な利益』さえ論理的に提示できれば、交渉のテーブルには乗る相手だということだよ」
「……っ!」
澪の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
誰も気づかなかった、あるいは恐れて見ようとしなかった帝王フーズの本質。
それを、この目の前にいる冴えないはずの中年男は、完全に丸裸にし、見透かしていたのだ。
健介はウーロン茶を飲み干し、静かに宣言した。
「だから、明日。最初に今回の不手際についてはきちんと詫びる。でも、違約金の減額をお願いしに行くわけじゃない」
「え……じゃあ、何を……?」
「決まってるだろう。先方が仮承諾した、あの『うちが3億円の赤字になる条件』。それ以上に、彼らにとって莫大な利益が出る……『もっと美味しい話』をぶつけるんだ」
あまりにもスケールの大きい、そして常識外れな健介の言葉に、澪はポカンと口を開けて固まってしまった。
そんなことが、可能なのか。
3億円の赤字になるような絶望的な状況から、それをひっくり返すどころか、さらに利益を生み出す魔法のようなプラン。
「……そんなこと。出来るわけないじゃないですか!」
澪は我に返り、悲痛な声で叫んだ。
「相手はあの黒田部長ですよ!? すでにうちの3億円の赤字条件で役員決裁まで通して、改装スケジュールまで動かしてるんです! それを今さら白紙に戻して、さらに都合のいい条件を呑ませるなんて……もしそんな魔法みたいな数字が作れるなら、私だって最初からあんな計算ミスで苦労なんて……っ!」
澪の言う通りだ。
もしそんな夢のような利益ロジックが組めるのであれば、最初から徹夜でExcelと睨み合い、焦ってミスを犯す必要などなかったのだ。
そんなものは、机上の空論だ。
しかし――。
健介は、必死に訴える澪に対し、ただ優しく、どこまでも余裕のある笑みを浮かべていた。
「出来るさ。……だから、腹ごしらえが済んだら、これから社に戻ってその作戦を一緒に考えるんだ」
「明日の朝イチで、僕が黒田部長にアポを取る。時間は今夜しかない」
「え……これから、会社に……?」
健介はのんきに冷奴をつまみ、それ以上は語らなかった。
澪の頭の中は混乱していた。
本当に……そんなロジックが、組めるのだろうか。
絶望が完全に消え去ったわけではない。
むしろ、目の前の『冴えないおじさん』が提案する途方もない作戦に対して、疑心暗鬼の方が大きかった。
「本当に……そんな作戦、作れるんですか……?」
「さあね。でも、泣いてるだけよりは建設的だろう?」
健介は、いつもの気の抜けたような笑みを浮かべた。
そして、伝票に手を伸ばしながら、もう片方の手でスマートフォンを短く操作した。
(……こんな時に、誰にメールなんて)
澪はちらりとそう思っただけで、それ以上は気に留めなかった。
澪はまだ信じられなかった。
しかし、彼女にはもう他にすがる道は残されていない。
絶望と疑念が入り混じる中、それでも澪は、自らを引っ張り上げてくれるこの不思議な男の背中を、半信半疑のまま追うしかなかったのだった。




