第20話:深夜の絶叫
時刻は23時を回っていた。
誰もいない、静まり返った営業第三課のオフィス。
フロアの照明は一部しか点灯しておらず、薄暗い空間にサーバーの稼働音だけが微かに響いている。
佐々木澪は自分のデスクに座るなり、焦った手つきでノートパソコンの電源を入れた。
「えっと、まずは私が作った帝王フーズへの提案資料と、先方から提示された条件のデータを共有しますね。それから――」
「佐々木さん、慌てなくていいよ」
向かいの席に座った健介は、自動販売機で買ってきた甘い缶コーヒーのプルタブを開けながら、のんきな声で澪を制した。
「えっ……でも、一から状況を説明しないと、作戦の立てようが……」
「もう、すべて読んで知っているよ。先方へ送った最終提案書も、黒田部長から仮承諾をもらった経緯もね」
「えっ!?」
澪は目を丸くして健介を見た。
昨日、あの最悪のミスが発覚してから、澪自身は誰にも資料を見せていないつもりだった。
玲奈に提出した関連データのプリントアウトが数部あるだけだ。
「どうして……いつの間に見たんですか?」
「これだけフロア中で大騒ぎになっていれば、僕だって少しは気になってね。昨日の午後、共有フォルダに上がっていた帝王フーズの試算データに目を通させてもらったんだ」
健介は缶コーヒーを一口飲み、少しだけ真面目な顔つきになった。
「……藤本さんの再計算も見たよ。見事なまでに、うちが3億円の赤字を被る最悪の条件だ。彼女の計算は間違っていない」
その事実をあっさりと突きつけられ、澪はガクンと肩を落とした。
「……だったら、やっぱり無理じゃないですか。藤本先輩はうちの課で一番の『データ職人』です。彼女が計算して3億円の赤字になるなら、あの条件で利益を出す魔法なんて、絶対に――」
「そう。佐々木さんの提案通りのビジネスモデルなら、絶対に無理だ」
健介は事も無げに言い切った。
「……『佐々木さんの』提案通りなら、って……?」
「そうだ。……さあ、佐々木さん。泣き言を言う前に、まずは君の優秀な頭で考えてごらん。あの絶望的な数字の中で、一番うちの利益を食い潰しているネックはどこだ?」
健介はそう言うと、自分はノートパソコンを開こうともせず、ただ静かに澪の瞳を見つめた。
それは、定食屋で見せたのと同じ、彼女自身の営業としての実力を信じ、引き上げようとする『大人の流儀』だった。
澪はハッとして、自身のモニターに映し出されたExcelのシートを睨みつけた。
原価の30%カット。
初回導入協賛金5000万円。
この法外な条件を呑んだ上で利益を出さなければならない。
しかし、自社商品の原価そのものをすぐに変えることなど不可能だ。
工場との調整には何ヶ月もかかる。
となれば、自社の利益を削るか、それ以外のコストを極限まで削るしかない。
「……物流コスト、です」
澪はモニターを見つめたまま、ポツリと呟いた。
「帝王フーズの全国500店舗に、うちの飲料を優先的に配送するための『特別配送便』のコスト。……私はこれを限界まで削ったつもりでシミュレーションを組んでいました。でも、それが参照エラーで抜け落ちていた。結果として、この莫大な特別配送のコストが、最終利益を3億円もマイナスに引き下げています」
「正解だ。よく見えているじゃないか」
健介は満足そうに頷いた。
「つまり、その特別配送の物流コストさえゼロに近づけることができれば、協賛金の5000万円を払っても、ギリギリ黒字に転換できるということだね?」
「理屈の上では、そうです。でも、そんなの不可能です! トラックを走らせる以上、人件費もガソリン代も絶対にかかるんです。タダで運んでくれる運送業者なんて、この世にいるわけが……」
「帝王フーズだけを考えた配送だったら、確かにマイナスだ」
健介はニヤリと、今日一番の鋭い笑みを浮かべた。
「だが、他の企業への配送と絡めたらどうだい?」
「え……絡める?」
「いわゆる『混載便』――相乗り便だよ。うちが帝王フーズのためにトラックを仕立てるんじゃない。すでに全国を走っている他社の大規模な物流インフラの空きスペースに、運賃を払ってうちの商品を相乗りさせてもらうんだ。もちろん相乗り分のコストはかかるが、それを差し引いたとしても、専用便をチャーターするのに比べれば、物流コストは現在の何分の一にも劇的に下がるだろう?」
健介の提案に、澪は息を呑んだ。
確かにその通りだ。
専用便ではなく混載便を使えば、コストは一気に下がる。
それができれば、3億円の赤字を埋め、黒字化するロジックは成立する。
しかし、澪はすぐに首を横に振った。
「机上の空論です! 今回の契約は、全国500店舗という帝王フーズの巨大なパイを前提としています。そんな規模のルートと完全に一致するような、都合のいい超大手企業なんて、そう簡単に見つかるわけがありません。それに、見つかったとしても、他社のルートに急に相乗りさせてくれだなんて、そんな虫のいい交渉……」
「もう探してあるよ」
「……え?」
健介のあまりにもあっさりとした言葉に、澪はポカンと口を開けた。
「僕が以前いた部署で、メイン担当をしていたクライアントだ。北辰ドラッグ――全国規模のドラッグストアチェーンでね。帝王フーズの出店エリアと、配送センターの稼働ルートが見事に合致しているんだ」
健介は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を澪に見せた。
そこには、先ほど定食屋にいた時に送ったと思われるメールの送信履歴が表示されていた。
「そこの物流担当の役員とは、個人的な繋がりがあってね。さっき『相乗りの相談がある』と根回しのメールを入れておいたら、条件次第で協力できるという仮内諾まではもらえたよ。彼らとしても、空きスペースをうちの会社に貸すことで運送コストの一部を回収できるからね」
「な……っ」
澪は言葉を失い、目の前の男を凝視した。
あの、『花形部署』の中で「お荷物」として誰からも相手にされず、一日中ぼんやりと空を眺めていた『冴えないおじさん』。
彼が、自分が徹夜で泣きながら組み上げ、そして絶望した複雑なパズルを。
たった一本のメールと、これまでの圧倒的な人脈だけで、いとも簡単にひっくり返してしまったのだ。
「これなら……いけます」
澪の声が、震えていた。
「これなら、特別配送のコストを大幅に圧縮できます。協賛金を払っても、うちの会社にしっかり利益が残る……。赤字にならない、完璧なロジックが組めます……!」
希望の光が見えた。
これなら、違約金からも、損害賠償の恐怖からも解放されるかもしれない。
澪が歓喜の涙を浮かべかけた、その時だった。
「……佐々木さん。君は、一つ忘れていないかい?」
健介の低く冷徹な声が、澪の高揚に冷水を浴びせた。
「え……?」
「僕たちは、謝罪だけをしに行くわけでも、赤字をチャラにするためだけに行くわけでもないと言ったはずだ」
健介は立ち上がり、澪のデスクの横まで歩み寄ると、モニターに映し出された帝王フーズの店舗データを指さした。
「彼らは貪欲だ。うちの会社が『赤字を回避できました』というだけの提案では、絶対に首を縦に振らない。すでに役員決裁まで通してしまった条件を白紙に戻し、さらに彼らに『YES』と言わせるためには……彼ら自身にとっても、今の条件を上回る莫大な利益を提示しなければならない」
「それは……そうですけど。でも、混載便を使ってうちのコストを下げたところで、帝王フーズの利益が増えるわけじゃ……」
「増えるんだよ。……帝王フーズ自身が抱えている問題を解決してあげればね」
健介の瞳の奥で、恐ろしいほどの知性が光を放っていた。
「帝王フーズは現在、各店舗間で、独自の食材や備品の移動を行っている。そして、その『店舗間の横の移動』のために、彼ら自身が莫大な自社コストを割いてトラックを走らせているんだ」
「あっ……!」
澪の脳内に、雷のような衝撃が走った。
健介が何を言わんとしているのか、一瞬で理解してしまったからだ。
「……もし、僕たちが使う相乗り便の空いたスペースに、帝王フーズの荷物も追加負担を大幅に抑えて同乗させるとしたら、どうなる?」
それは、澪がこれまで生きてきた中で、聞いたこともないような悪魔的で、そして完璧なビジネスの閃きだった。
自社のコストを下げるために活用する物流網を使い、あえて相手のコストまで削り落としてしまう。
そんな発想、普通の営業マンなら絶対に思いつかない。
いや、思いついたとしても、他社を巻き込んだ複雑なロジックを短時間で構築し、根回しを済ませることなど不可能だ。
(この人……なんなの……っ!?)
澪は、目の前に立つ健介という男の、底知れない実力とスケールの大きさに、ただただ圧倒されていた。
『窓際のおじさん』という着ぐるみの中に隠されていたのは、あの冷酷な黒田部長とさえ対等に渡り合えるほどの、圧倒的な知能と交渉術を持った『本物の怪物』の姿だったのだ。
「さあ、ピースはすべて揃ったよ、佐々木さん」
健介は澪の肩をポン、と軽く叩いた。
「ここから先、この複雑な混載便の相殺ロジックを、明日の朝までに一つの隙のない企画書として組み上げるのは、君の領分だ。……営業第三課のエースとしての意地、僕に見せてくれるかい?」
「――ッ!!」
先ほどまで澪の心を支配していた絶望や自己嫌悪は、今だけは奥へと押しやられていた。
あるのは、この恐ろしいほど完璧なロジックを、自分の手で早く証明したいという、営業としての強烈な熱と興奮だけだった。
「やります……! 絶対に、朝までに完璧な数字を出してみせます!」
澪は憑かれたようにキーボードに向かい、猛烈な速度でタイピングを始めた。
隣に、『最強のパートナー』がいる。
もう、何も怖くなかった。
静まり返ったオフィスに、エンターキーを叩く音が響き続ける。
時計の針が、深夜の3時を回った頃。
「……できた」
澪の口から、掠れた声が漏れた。
モニターの右下。
すべての複雑な数式と相殺ロジックを組み込んだ最終結果のセル。
そこに弾き出された数字を見た瞬間。
「あぁぁぁっ……!! あぁぁああああああっっ!!」
澪は椅子から跳ね起き、深夜の静かなオフィスに響き渡るほどの、狂気ともいえるような歓喜の絶叫を上げた。
これまでの絶望とプレッシャーから完全に解放され、精神のタガが外れたように両手で顔を覆い、せき止めていた涙をボロボロとこぼしながら、感極まってブルブルと震えている。
涙と笑顔でぐしゃぐしゃになった顔で、言葉にならないほどの興奮を込めて振り返った澪に対し。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
健介は、いつものようにのんきで優しい笑みを浮かべながら、温かい缶コーヒーをそっと彼女のデスクに置いたのだった。




