第21話:恐ろしい人
朝一番の光が差し込む、帝王フーズ本社の一室。
購買部長の黒田は、本革のソファーに深く腰掛け、マグカップのコーヒーを啜りながら、手元のスケジュール表に目を落としていた。
「……ふん。朝一番で、佐々木の上司という男からアポの電話か」
受話器の向こうから聞こえてきた男の声は、どこか頼りなく、ひどく低姿勢だった。
黒田は鼻で笑い、スケジュール帳にペンで印をつけた。
いよいよ音を上げて、泣きつきにやってきたというわけだ。
あの電話からまだ二日。
5億円の損害賠償請求に怯え、会社を代表して謝罪と減額の交渉をしに来る。
若い女一人では手に負えず、ついに上の人間を引きずり出してきたのだろう。
そもそも、黒田は最初から5億円の賠償金など、本気で請求するつもりはなかった。
完全なブラフだ。
相手の致命的なミスにつけ込み、自社の法務部の名前を出して徹底的に威圧し、絶望のどん底に叩き落とす。
そして、相手が「どうにか賠償金を減らしてほしい」「せめて違約金だけでも免除してほしい」と妥協点を探ってきたところで、少しだけ譲歩を見せる。
「仕方ない、うちも鬼じゃない。損害賠償は取り下げてやるから、その代わりこの条件を飲め」と、最初から狙っていたさらに都合の良い条件を突きつけるのだ。
「妥協してやった」と相手に錯覚させれば、相手は「訴えられるよりはマシだ」と安堵し、通常ではあり得ないほど自社に不利な条件を、自ら喜んで差し出してくる。
それが黒田であり、帝王フーズのやり方だった。
優越的な立場を利用し、法的な責任を問われにくいギリギリのラインを見極め、相手の足元をすくい続けてきたからこそ、今の帝王フーズの急成長する業績がある。
「やれやれ、これだから大企業の人間は扱いやすい。今日もせいぜい、青い顔して平身低頭に謝ってもらうとしますか。……たっぷりと、血の滴るような条件をいただこうじゃないか」
黒田はもう、自らの勝利を確信し、口角を深く釣り上げていた。
◇
一方その頃、営業第三課のオフィス。
佐々木澪は、健介の指示通りに、あえて絶望に染まった暗い顔を作って自分のデスクに座っていた。
昨夜のあの狂気じみた歓喜から一転、今日の澪は「これから処刑台に向かう罪人」を完璧に演じなければならない。
(……大丈夫。沢村さんを信じるんだ)
課長の霧島玲奈は、相変わらず冷ややかな視線を澪に向けている。
すでに法務部が動いている以上、いまさら澪が「もう一度、帝王フーズへ再商談に行かせてください」などと言っても、玲奈が許すはずがない。
だからこそ、健介がすべての段取りをつけてくれたのだ。
昼を過ぎた頃、健介は自分のデスクからゆっくりと立ち上がると、玲奈のところへと歩いて行った。
「課長、ちょっといいですか。……これから私の担当している取引先へ商談に行くのですが、持っていく資料やサンプルが膨大でしてね。……荷物持ちの作業員としてでいいから、佐々木さんを貸してくれないか」
健介のいかにも頼りなげで、波風を立てないように気遣うような物言い。
玲奈は面倒臭そうにため息をつき、澪を鋭く睨みつけた。
「はあ……。まったく、今の佐々木さんは社内にいても使い物にならないから、ちょうどいいわ。しっかり荷物持ちでも何でもさせてきなさい。作業員として連れて行くなら構わないけれど、あなたの商談の邪魔はさせないで頂戴」
「助かるよ。じゃあ、行ってくるよ、佐々木さん」
「……はい」
澪はうつむき加減に返事をし、健介の後を追うようにしてオフィスを後にした。
もちろん、健介は「自分の担当の取引先」と言っただけで、「帝王フーズへ再交渉に行く」とは一言も言っていない。
課の誰一人として、これから彼らが帝王フーズをひっくり返す反撃に向かっていることなど、想像すらしていなかった。
健介自身も、会社を拘束する契約を勝手に結ぶつもりはない。
今日の目的は、帝王フーズとの交渉条件を作り直し、正式な社内稟議へ持ち帰れるところまで状況を戻すことだった。
◇
14時。
帝王フーズ本社・応接室。
「よくお越しいただきましたね、佐々木さん。それから、そちらが上司の方で?」
ドアが開き、重々しい足取りで入ってきた澪と健介を見るなり、黒田は腕を組んだまま、ソファーに深く腰掛けて言い放った。
「初めまして。沢村と申します」
健介は名刺を差し出した。
黒田はそれを受け取り、チラリと一瞥した。
名刺には「営業第三課」という部署名と名前があるだけで、役職は一切書かれていなかった。
しかし、目の前に立つ男の年齢からして、どう見ても部長か、それ以上の肩書きを持つベテランだろうと黒田は勝手に思い込み、あえて役職の確認もしなかった。
「……先日は、弊社の佐々木が大変なご迷惑とご心配をおかけしまして、本当に、申し訳ありませんでした」
健介は深く、頭を下げた。
その姿勢はあくまで低く、弱々しい「謝罪に来た上司」そのものだった。
隣に立つ澪は、過去に黒田から怒鳴られたトラウマが蘇り、緊張と恐怖で声が出なかった。
やはり自分が話すのは無理だと判断し、作戦通り、すべての主導権を健介に委ねることにした。
「ふん、今さら頭を下げられても困るんですよねえ。あなた方の杜撰な仕事のせいで、こっちは全店舗の改装スケジュールが狂ってしまった。社長も大変ご立腹です。で、どう責任を取るおつもりですか? 5億円の損害賠償、まさか払えないなんて言いませんよね?」
黒田は言葉の端々に脅しを込め、慇懃無礼な態度でまくし立てた。
だが――。
そこから始まったのは、黒田の予想を徐々に、そして根こそぎ粉砕していく「静かなる逆転劇」だった。
最初は丁重に頭を下げ、黒田の嫌味を「ですね」「おっしゃる通りです」と受け流していた健介。
しかし、会話が5分、10分と進むにつれ、その空気が少しずつ変わり始めた。
「……もちろん、今回の件で御社にご迷惑と影響を与えたことは重々承知しております。ですが黒田部長、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「……なんでしょうか」
「御社としては、今回の件でスケジュールに穴を開けられたことを何よりも懸念されている。もし本当に訴訟になれば、少なくとも今回予定していた弊社商品の導入は止まる。法務対応にも時間を取られ、御社が急いでいる全国展開のスケジュールにも影響が出ますよね?」
「……っ」
黒田の眉が、ピクリと動いた。
「それは御社にとっても、本来得られるはずだった利益を失う、最大の機会損失になるのではありませんか? 御社ほど合理的で、スピード感のある企業が、そんな足踏みを選ぶとは思えないのですが」
健介の言葉は、恐ろしいほどに的確だった。
低姿勢な態度は崩さないまま、黒田が吐き捨てる言葉の端々から、相手の本当の意図を読み取っていく。
この交渉における訴訟がブラフであるという構造を、健介は巧みに見抜き始めていたのだ。
(……この男、なんだ? ただの謝罪に来たカモじゃないのか?)
黒田の中に、焦りが生まれ始めた。
自分のペースで進んでいたはずの交渉が、いつの間にか健介の引いたレールの上に乗せられ、立場が少しずつ、逆転し始めている。
「それに、我々が支払う違約金など、御社がこれから全国展開で稼ぎ出す莫大な利益に比べれば、微々たるものでしょう。……黒田部長は、そんな小銭のために、本当に御社の成長を止めるおつもりですか?」
「……いい加減にしたまえ!」
ついに、黒田が苛立ちを隠しきれずにテーブルを叩いた。
「さっきから聞いていれば、随分と勝手な理屈を並べてくれますね。結局そうやって言葉巧みに言いくるめて、前回の提案の破棄と、賠償金の取り下げを引き出そうという魂胆でしょう。そうはいきませんよ、弊社は絶対に損害賠償の請求を取り下げる気はありませんからね!」
黒田は焦りを隠すように声を荒らげた。
これ以上ペースを握られる前に、威圧感でねじ伏せようとしたのだ。
しかし。
「……何か、勘違いをしていませんか?」
それまで小さく丸まっていた健介の背筋が、スッと伸びた。
声のトーンが、1オクターブ低く、重厚な響きへと変わる。
そして、その瞳には、これまでの弱々しい上司の姿は微塵もなく、冷徹なコンサルタントとしての鋭い光が宿っていた。
「か、勘違いだと……?」
「私と佐々木がここに来たのは、御社を言いくるめて違約金の減額を乞うためではありません。そんな小さな話をするために、わざわざ足を運んだわけではない」
健介はスーツの内ポケットから、提案資料一式を取り出し、静かにテーブルの上に置いた。
「私たちは、御社に対して、さらに莫大な利益をもたらす提案を持ってきた。その話を始める前に、まずはこれまでの弊社の不手際について、ただお詫びを申し上げただけです」
「……は?」
黒田は嘲笑しようとしたが、テーブルの上に滑らせられた資料の1枚目を見た瞬間、その言葉を喉の奥で詰まらせた。
そこに書かれていたのは、黒田が突きつけた「原価30%カット」の条件をはるかに上回る数字だった。
さらに帝王フーズ側の物流コストまで大幅に圧縮する、あまりにも緻密で圧倒的な利益試算データ。
「な、なんだこれ……! ば、馬鹿な……! 今度もまた、計算ミスでこっちを騙そうってのか! そんな都合のいい数字が――」
「ミスではありません」
震える声だったが、はっきりと、その場に響いたのは澪の声だった。
澪は恐る恐る一歩前に出ると、自らの手で徹夜で組み上げたそのデータを、黒田の目の前へと突き出した。
その瞳には、かつての恐怖ではなく、『最強のパートナー』と共に作り上げたロジックへの、確信に満ちた強い光が宿っていた。
「……このデータは、本物です。提携先の物流網を活用した混載スキームと、御社の店舗間移動を組み合わせています。これを導入すれば、御社の今期の利益率は……前回の提案どころか、過去最高を叩き出します」
「て、店舗間の移動コストだと……!?」
震える黒田の手が、ペラリと2枚目、3枚目の資料をめくる。
そこには、帝王フーズ自身が長年抱え込み、誰にも解決できなかった「店舗間の横の移動コスト」という最大の痛点を、寸分違わず解決する具体策が書かれていた。
これを含めれば、今回の提携によるシナジー効果は、前回の比ではない。
会社の方針そのものを根底から変えてしまうほどの、途方もない衝撃と利益がそこにあった。
「ば、バカな……。こんな提案、一体誰が……誰が考えたっていうんだ……っ!」
黒田の額から、タラタラと冷汗が流れ落ちる。
先ほどまでの余裕や威圧感は完全に消え去り、そこに並ぶ「怪物のような数字」の前に、ただ恐怖で震える小物へと成り下がっていた。
「こんなこと……本当に、可能なのか……? 他社の物流インフラに、うちの荷物まで大幅に安く相乗りさせるなんて、そんな虫のいい話に相手が乗るわけが……」
「物流担当役員から、実務検討へ進むことについて仮内諾をいただいております。我々の提携先である大手ドラッグストアチェーンからね」
健介がスマートフォンの画面をちらりと見せると、黒田は絶句した。
そこには、北辰ドラッグという業界最大手の名前と、前向きな返信の履歴が確かに残っていた。
「……っ」
黒田は頭を抱え、手元の資料と、目の前に立つ健介を交互に見つめた。
もはや、彼を「佐々木の上司」などという軽んじた目で見ている者は、この部屋には誰もいなかった。
数秒の深い沈黙の後。
パッ、と黒田の顔が驚異的なスピードで変わり、今まで見たこともないような、張り付いた卑屈な笑顔が浮かんだ。
「い、いやぁ……! 素晴らしい! 実に素晴らしいご提案だ! 佐々木さん、そして……沢村さん、でしたね!」
黒田は慌ててソファーから立ち上がり、擦り手をするように両手を差し出してきた。
「我々としても、こんなに実のあるパートナーシップが組めるならそれに越したことはない! さあ、今すぐこの場で握手を――!」
しかし。
健介は、差し出された黒田の手を、冷ややかに見据えたまま、一歩も動かなかった。
「……黒田部長。まだ、話は終わっていませんよ」
「――は?」
「我々は、御社に大きな利益をもたらすプランを持ってきた。ですが……今度は、こっちの条件を飲んでいただきます」
健介の低く冷徹な声が、応接室の空気を凍りつかせた。
「じょ、条件……? 一体、何を……」
隣にいる澪も、ハッとして健介を見た。
そんな追加条件の話など、昨夜の作戦会議でも一切聞いていなかったからだ。
「今回の相乗り便によって、御社が削減できる莫大な物流コスト。その削減されたコストの5%を、弊社へのシステムオペレーション維持費として、毎月支払っていただきます」
「もちろん、今日ここで契約書にサインをする話ではありません。この条件で基本合意いただけるなら、双方とも社内へ持ち帰り、正式な稟議と法務確認に進む。それがこちらの提案です」
「なっ……!? まさか、そんなことまで!?」
黒田が悲鳴のような声を上げた。
物流コストの5%といえば、それだけで年間数千万円にのぼる金額だ。
自分たちが得をするはずの提案から、さらに上前を撥ねようというのか。
「冗談じゃない! こっちは莫大な物流委託費も払うことになるんだぞ! さらにそこから金を取るっていうのか!」
黒田が激昂したが、健介はピクリとも動かない。
「怒る前に、そちらの試算表の最終行を見てください」
健介の冷たい声に促され、黒田は慌てて手元の資料を電卓で叩き直した。
そして、顔を真っ青にした。
健介の言う通りだった。
5%のオペレーション費を支払ったとしても、自分たちの取り分はこれまでのどんな契約よりも大きいのだ。
さらに、健介が要求した「5%」という数字。
正式契約が成立すれば、それは第三課の利益として上乗せされることになる。
関係する3社――青葉飲料、北辰ドラッグ、そして帝王フーズ――のすべてが、誰も損をせず、十分すぎる利益を出す仕組み。
それは、誰も文句の言いようのない、完全無欠のビジネスモデルだった。
「……っ」
黒田は唇を噛み締め、もはや拒絶する権利など自分に残されていないことを悟った。
訴訟のブラフも、妥協の駆け引きも、すべてがこの圧倒的な利益の前に粉砕されたのだ。
彼は震える手で自らのマグカップを置き、改めて、目の前に立つ男に両手を差し出した。
その握手には、従前の5億円の損害賠償請求を取り下げ、新しい条件で正式契約の検討へ進むという基本合意が込められていた。
それは本契約の成立ではない。
だが、5億円の賠償請求を突きつけられていた交渉を、正式な再契約へ進めるための基本合意にまでひっくり返した瞬間だった。
「……恐ろしい人だ、あなたは」
黒田のその掠れた呟き。
その言葉に、誰よりも深く、激しく共感していたのは――健介の隣に立ち、このすべての奇跡の目撃者となった澪だった。
(この人……最初から、ここまで見据えて……っ。なんなの、この人なんなの……っ)
澪は胸の奥を激しく貫かれるような衝撃を受けながら、ただただ、目の前の男の背中を見つめていた。
会社に計り知れない利益をもたらし、自分を5億円の借金地獄から救い出してくれた。
しかし今の澪の胸を満たしていたのは、自分が助かったという安堵や嬉しさではなかった。
こんなとんでもない能力を持った人を、ただの『冴えないおじさん』だと見くびり、見下してしまっていたことに対する、心の底からの深い後悔と畏怖だった。




