第22話:本当の価値
黒田との劇的な商談から、週が明けた月曜日。
営業第三課のオフィス、その一番奥にある課長席の前で、佐々木澪と健介は並んで立っていた。
「……信じられないわね」
課長の霧島玲奈は、手元にある分厚い契約書のドラフトファイルと、法務部から上がってきた「帝王フーズ・本契約に向けた進行状況レポート」を交互に見つめ、深々とため息をついた。
つい数日前まで、5億円の損害賠償請求への対応を巡り、法務部まで巻き込んで緊迫していた案件である。
それが金曜日の再商談を境に、損害賠償請求は白紙撤回。
全国500店舗のドリンクバー等への導入、物流相乗りによるコスト削減、さらにはシステムオペレーション費として5%の利益を上乗せするという、第三課の歴史上でも類を見ないほどの超特大の黒字契約案へと姿を変えて戻ってきたのだ。
「佐々木さん。……このドラフトにある、北辰ドラッグの物流網を使った相乗りとコスト相殺のスキーム。こんな複雑なビジネスモデルを、あなたが一人で一晩で組み上げたというの?」
玲奈の鋭い視線が澪を射抜く。
澪は一瞬、隣に立つ健介を盗み見た。
健介は「ほら、君の出番だよ」と言うように、優しく微笑んで小さく頷いた。
帝王フーズとの商談帰りのタクシーの中で、健介から『すべての手柄は君のものにしなさい』と固く口止めされているのだ。
「いえ、私一人の力ではありません。……隣にいる沢村さんが、以前の部署で北辰ドラッグの物流担当者と面識があるとのことで。沢村さんの口利きで、相乗りの実務検討について仮内諾を取り付けていただいたんです」
「なるほど、人脈ね。……で?」
「そのアイデアをベースに、私が相殺ロジックと利益計算の数式を組み上げました。最後のオペレーション費5%についても、商談の流れの中で追加条件として提示しました」
澪が淀みなく、堂々と答える。
もちろん、最後の5%という発想そのものは健介がその場で出したものだ。
澪はそこまで自分の手柄だとは言わなかったが、健介からは、交渉の主導権を表に出さないよう釘を刺されている。
「……沢村さん、彼女の言う通りなの?」
玲奈が疑念の目を向けると、健介は「ええ」と、いつものようにのんきに笑って頭を掻いた。
「いやぁ、私はただ、昔の知り合いに電話でちょっと相談してみただけでして。本当に、ただの橋渡しですよ。その後の複雑な計算とか、相手の懐に飛び込んで5%の利益をふんだくってくる度胸なんて、おじさんには到底無理です。佐々木さんの、若手エースとしての見事な意地と頭脳の賜物ですよ。大したものだ」
健介はそう言って、澪の肩をポンと軽く叩いた。
あまりにも自然な、後輩を褒める『冴えないおじさん』の演技。
玲奈は怪訝そうに眉をひそめた。
どう考えてもおかしい。
焦って致命的なミスを犯し、絶望して泣いていた若手が、たった一日でこんな完璧なリカバリーと逆転劇を思いつくはずがない。
どう見ても、この裏にはもっと緻密で恐ろしい頭脳が働いているはずだ。
だが――数字は嘘をつかない。
すでに帝王フーズ側では、黒田が持ち帰った基本合意条件を社長が了承している。
青葉飲料の法務部も、かつての「違約金交渉」から一転し、「本契約締結のリーガルチェック」に向けて社内各部を巻き込んで大わらわになっているのだ。
先日、新人の星野佳奈が取ってきた東都リテールグループの10億円という数字も社内を震撼させたが、今回の帝王フーズ案件は、本契約まで進めば、その倍以上にのぼる莫大な売上と利益をもたらす。
課を率いる玲奈としても、これほどの巨大案件を自部署の部下がここまで立て直した以上、その成果は正当に評価しなければならない。
「――課長。一つだけ、先にお詫びさせてください」
不意に、健介がのんびりとした調子で口を開いた。
「昨日、佐々木さんを先方へ連れ出したのは私です。荷物持ちだと申し上げておいて、結局、商談の席に立たせてしまいました。……課長のご指示に背いたのは、私の判断です」
玲奈の眉が、わずかに動いた。
数秒の沈黙のあと、彼女は短く息を吐いた。
「……そう」
それ以上、玲奈は何も言わなかった。
「……最初に上司へ相談せず、独断で話を進めたことと、今回ここまで立て直したことは別問題よ。始末書は出してもらうわ」
玲奈は一度言葉を切り、澪を真っ直ぐに見た。
「でも――この案件をここまで立て直したことは、正当に評価する。よくやったわね、佐々木さん」
玲奈はパタン、とファイルを閉じ、小さく労いの言葉をかけた。
「……ありがとうございます。今後は、必ず事前にご相談いたします」
澪が深く頭を下げ、健介と共に課長席を後にした。
「佐々木さん! 本当に凄いわ! まさかあのブラック企業との話を、こんな特大契約案にまでひっくり返すなんて!」
「さすが第三課のエースね! あの3億円の赤字から、どうやってここまでひっくり返したのよ!」
澪が自席に戻るなり、『特攻隊長』の橘咲や、中堅の中川留美たちが嬉々として話しかけてきた。
ほんの数日前まで、会社に巨額損失を出しかねないミスをした澪を「自業自得だ」と冷たく見下し、腫れ物のように扱っていた彼女たちだ。
それが今や、佳奈の東都案件を上回る規模の契約案をまとめ上げた澪を、まるで手のひらを返したようにもてはやしているのだ。
(……本当に、薄っぺらいな)
澪は、先輩たちに愛想笑いを返しつつも、胸の奥で冷めた感情を抱いていた。
もし以前の澪であれば、この状況に優越感を抱き、エースとしてのプライドを満たして鼻高々になっていただろう。
後輩の佳奈を再び見下し、「やっぱり私の方が優秀なんだ」とマウントを取っていたはずだ。
しかし、今の澪の心に、そんな驕りや「エースという肩書き」への執着は一切なくなっていた。
極限の絶望を味わい、そして目の前にいる健介という男の「本当の実力」を見せつけられたからだ。
他人の評価など、いくらでも風向きで変わる。
自分を取り繕い、見栄を張ってエースを演じたところで、中身が伴っていなければ、またいつかあの絶望に突き落とされるだけだ。
澪が今、心から欲しているのは、虚飾の肩書きではない。
『本物の実力』だった。
(沢村さん……)
澪はノートパソコンの画面越しに、真正面に座る健介を見つめた。
相変わらず、安っぽいボールペンをカチカチと鳴らしながら、猫背で退屈そうに宙を眺めている。
だが、澪には分かっていた。
あの気の抜けた着ぐるみの中に、どんな修羅場でも完璧なロジックで相手をねじ伏せる、底知れない化物が隠れていることを。
澪は決意していた。
プライドも、つまらない見栄もすべて捨てて。
この目の前にいるおじさんから、営業としてのノウハウ、思考法、そしてビジネスのすべてを一から勉強させてもらうのだと。
健介からは、すでにこう釘を刺されていた。
『オフィスであまり僕に話しかけないでほしい。ただでさえ君は目立つんだ。若手エースが窓際のおじさんにベタベタしていたら、変な目で見られるし、君のブランドに傷がつく。……何か聞きたいことや相談があるなら、全部メールかチャットにしてくれ』
カタカタカタ……。
澪はキーボードを叩き、社内チャットツールを開いて健介宛てにメッセージを打ち込んだ。
『送信者:佐々木澪』
『沢村さん。次回の帝王フーズとの実務すり合わせなんですが、あの5%のオペレーション費の件、相手の経理を納得させるための補足資料の作り方を教えていただけませんか?』
送信ボタンを押した、まさにその数秒後だった。
「……いやぁ、最近どうも目が霞んじゃってねぇ。おじさんに細かい字のチャットは、色々とつらいよ」
真正面の席から、独り言のような、気の抜けた健介の呟きが聞こえてきた。
周囲の先輩たちは「また沢村さんがサボってる」と冷ややかな視線を送っている。
そして、澪のノートパソコンの画面に、健介からの返信がポンッとポップアップした。
『送信者:沢村健介』
『共有フォルダのZドライブに、過去の代理店契約フォーマットがある。それの7ページ目の原価計算表をベースにすればいいよ。……あとで僕もこっそりチェックするから、まずは自分で作ってみて』
口では「つらい」と文句を言いながら、チャットの返信は誰よりも早く、そして的確だ。
その健介のやり取りに、澪は思わず、フッと口元を緩ませた。
以前のように、彼の呟きに対して苛立って「舌打ち」をすることはもうない。
すぐ向かいにいる『使えないおじさん』こそが、今の澪にとって誰よりも学びたい営業マンになっていた。
この男から、一つでも多く本物の技術を盗みたい。
澪はそんな高揚を胸に、「はい、やってみます!」と弾むような指先でキーボードを叩き始めた。
◇
――しかし、澪は知る由もなかった。
同じ頃、健介のノートパソコンの画面下部。
そこには、澪からのチャット通知と同時に、もう一つのチャットウィンドウがポップアップし、激しく点滅していたことを。
『送信者:星野佳奈』
『沢村さん。……帝王フーズのあの凄い相乗り契約。表向きは佐々木先輩の手柄ってことになってますけど』
『……あれって本当は、沢村さんが佐々木先輩に教えてあげたんですか?』




