第23話:彼氏になってほしい人
『送信者:星野佳奈』
『……あれって本当は、沢村さんが佐々木先輩に教えてあげたんですか?』
ノートパソコンの画面右下にポップアップしたそのチャットに、健介は小さくため息をついてからキーボードを叩いた。
『送信者:沢村健介』
『そうだよ。彼女が致命的なミスをして、本気で困っていたからね』
『送信者:星野佳奈』
『やっぱり。いいなー。私もまた、わざと大きなミスしようかな(笑)』
ヤキモチを焼いているのがありありと伝わってくる文面に、健介は苦笑した。
あの気弱で泣いてばかりだったあの子が、こんな冗談を言えるくらいにメンタルが図太くなっていることには、少し成長を感じる。
『送信者:沢村健介』
『冗談はよしてくれ。寿命が縮むよ。……でも、本当に困った時はいつでも頼りなさい』
『送信者:星野佳奈』
『ふふっ。はい、そうしますね』
「んんっ、コホン」
チャットの返信とほぼ同時に、隣の席から、わざとらしい咳払いが聞こえた。
健介が視線を向けると、星野佳奈が、健介にだけ分かるように小さくウインクをしてきた。
(……やれやれ)
健介は肩をすくめ、手元の缶コーヒーを啜った。
かくして、営業第三課には再び、慌ただしくも平穏な日常が戻ってきた。
佳奈の東都リテールグループ、そして本契約へ向けて動き出した帝王フーズ。
この二つの超大型案件によって、第三課は今期の売上目標達成が一気に現実味を帯び、課全体の空気が少しだけ柔らかくなっていた。
◇
数日後。
昼休みの時間となり、皆がランチに向かうため席を立とうとした瞬間だった。
佐々木澪のデスクの上に置かれたスマートフォンの画面が明るくなり、バイブレーションが鳴った。
その表示を見た澪は、思わず「……翔太」と小さく呟いた。
「佐々木さん、お昼行かないの?」
中堅の中川留美が声をかけてきたが、澪は「あ、ごめんなさい、ちょっと電話があって。先に行っててください」と断り、スマートフォンを掴んで誰もいないミーティングルームへと駆け込んだ。
ドアを閉め、深呼吸をしてから通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「ああ、澪か。仕事中ごめんな。……ちょっと、声が聞きたくてさ」
電話の向こうの翔太の声は、数日前に『俺を巻き込むな』と激怒して電話を切った時とは打って変わり、ひどく甘く、優しげなトーンだった。
「なんの用?」
澪の冷え切った声に、翔太は少し慌てたように咳払いをした。
「いや、この前は俺も言い過ぎたと思って。冷静になって考えたら、やっぱりお前のことが心配でさ。……なあ、もう一度、ちゃんと話し合わないか?」
都合のいい言葉だった。
澪の心は、氷のように冷え切っていた。
一番困っている時、一番助けてほしかった時に、彼は自分を見捨てた。
あの時、交差点で健介に腕を引かれなければ、今の自分はこの世にいなかったかもしれないのだ。
それに比べれば、目の前の保身しか考えられないこの男がいかに小さく、見苦しい存在か、今の澪には痛いほどよく分かっていた。
「心配してくれてありがとう。でも、もうその必要はないわ」
「え?」
「5億円の損害賠償を請求されてた件なら、ある人に助けてもらってね。賠償の話はなくなって、むしろ入社以来最大級の大口案件として本契約へ進むことになったの」
「ほ、本当か!? すげえじゃん! なんだよ、やっぱりお前は優秀なんだな!」
翔太の声が、露骨にパッと明るくなった。
「借金の話がなくなったんなら、よりを戻すのに何の障害もないじゃないか! よし、今週末の箱根の旅館、やっぱり二人で行こうぜ!」
あまりの身勝手さと薄っぺらさに、澪は心の底から呆れ果ててしまった。
彼に対する未練など、塵一つ残っていなかった。
「……今度は、私から別れるって言ってるの」
「――は?」
「あなたみたいな底の浅い人、もう私の人生には必要ない。さようなら」
澪が冷たく言い放つと、電話口の翔太の息遣いが荒くなった。
「て、てめえ……! ふざけんなよ! 俺がせっかく許してやろうって言ってやってんのに!」
「許す? 笑わせないでよ」
「もういい! じゃあ、今週末の箱根の旅館、予約はお前の名前だ。てめえでキャンセルしとけよな! キャンセル料もてめえが払え!」
激昂した翔太の暴言。
しかし、澪は鼻で笑い、売り言葉に買い言葉で言い返した。
「ええ、いいわよ。そんなちっぽけなお金で、あなたみたいな男と縁が切れると思ったら安いものだわ」
ピッ、と通話を切り、そのまま流れるような指さばきで翔太の連絡先を「着信拒否」に設定した。
ミーティングルームの静寂の中、澪は大きく伸びをした。
胸の奥につかえていたドロドロとしたものがすべて消え去り、驚くほど心が晴れやかだった。
(さあ、仕事仕事)
澪は軽やかな足取りで、ミーティングルームを後にした。
◇
その日の夜。
自宅のマンション。
シャワーを浴びてスッキリとした澪は、ベッドに腰掛けながら、翔太が押さえてくれた箱根湯宿『月映ノ杜』の予約確認メールを開いた。
「キャンセル料、今日から発生するんだ……。えっと、宿泊費が二人で8万円だから、その50%で、4万円か……」
結構な出費だ。
痛くないと言えば嘘になる。
澪は「もったいないなぁ」と呟きながら、ふと考えた。
(いっそ、一人で行っちゃおうかな。温泉入って、美味しいもの食べて、リフレッシュするのも悪くないし)
そう思った瞬間。
澪の脳裏に、ふと、ある人物の顔が浮かんだ。
のんきな笑顔。
少し猫背な背中。
絶体絶命のピンチから自分を救い出し、誰も見たことのないような完璧な知略で、黒田部長をねじ伏せた、あの恐ろしくも頼もしい男の姿。
『出来るさ。……だから、腹ごしらえが済んだら、これから社に戻ってその作戦を一緒に考えるんだ』
彼がいなければ、今の自分はない。
圧倒的な感謝。
だが、命を救われたからだけではない。
あの夜から数日、健介の思考を追い、仕事を教わるたびに、尊敬だけでは片づけられない感情が膨らみ続けていた。
そして、それ以上の――自分でもコントロールできないほどに膨らみ始めている、熱い感情。
(……沢村さん)
澪は無意識のうちに、自分の頬が熱くなっているのを感じた。
「……よし」
澪はスマートフォンを操作し、旅館のフロントに電話をかけた。
「あ、予約している佐々木ですが。はい、実は同行者が変わることになりまして。……ええ、キャンセルはしません。やはり、二人で行きます」
◇
翌日のオフィス。
カタカタカタ、と澪のキーボードを打つ音が響く。
しばらくして、健介のノートパソコンの画面にチャットの通知がポップアップした。
『送信者:佐々木澪』
『沢村さん。今週末の土日って、空いてますか?』
『送信者:沢村健介』
『ん? 空いてるけど。どうかした?』
『送信者:佐々木澪』
『帝王フーズの件の、お礼がしたいんです。箱根の温泉旅館、予約がそのまま残っているので一緒に行きませんか?』
その直球すぎる誘いに、健介は思わず手元のコーヒーを吹き出しそうになった。
『送信者:沢村健介』
『いくらお礼とはいえ、会社の男女が週末に一泊の旅行なんてまずいよ。おじさんには荷が重すぎる』
健介が慌てて断りのメッセージを送ると、澪からは長い返信が返ってきた。
『送信者:佐々木澪』
『実は、元々彼氏と行くはずだったんです。でも、私が5億円の借金を背負うかもしれないって言った途端、見捨てられて。昨日、完全に別れました。……キャンセル料ももったいないですし、どうか、命の恩人である沢村さんにご馳走させてください』
健介は頭を抱えた。
そんな重い経緯を聞かされては、無下に断ることも心苦しい。
だが、やはり25歳の若い女性と、妻帯者である自分が二人きりで温泉旅行に行くのは、どう考えても倫理的にアウトだ。
佳奈との過ちを繰り返すわけにはいかない。
『送信者:沢村健介』
『それは災難だったね……。でも、やっぱり二人きりっていうのは、君の傷にも良くない。気持ちだけありがたく受け取っておくよ』
健介が固辞すると、数分後、澪から再びチャットが飛んできた。
『送信者:佐々木澪』
『分かりました。……じゃあ、もう一人、私の友達も連れて行きます。3人なら、何も問題ないですよね?』
健介はその文面を見て、ふむ、と顎を撫でた。
(3人か。それなら、ただの「お礼の食事会・延長戦」みたいなものだ。変な間違いも起きないだろう)
断り続けるのも大人気ないし、どうせ週末は一人で暇を持て余しているだけだ。
美味しい料理と温泉をご馳走になる、ただの接待だと思えばいい。
『送信者:沢村健介』
『そこまで言うなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな。友達にもよろしく伝えておいて』
送信ボタンを押し、健介はホッと息をついた。
向かいの席で、澪が小さくガッツポーズをしていることには、全く気づいていなかった。
◇
そして、週末の土曜日。
午前9時。
新宿駅、小田急ロマンスカーのホーム。
健介が指定された待ち合わせ場所に向かうと、そこには私服姿の澪が一人で立っていた。
オフィスのカチッとしたスーツ姿とは違い、ふんわりとした秋物のワンピースに身を包んだ彼女は、街ゆく男性が思わず振り返るほどに美しかった。
「おはようございます、沢村さん!」
「おはよう、佐々木さん。私服だと随分と印象が違うね。……あれ、お友達は?」
健介が周囲を見渡しながら尋ねると、澪は困ったように眉を下げた。
「それが……さっき電話があって。急にお腹を壊しちゃったらしくて、今日はどうしても行けないって……」
「……」
健介は、スッと目を細めた。
(やられた……。完全に、この子の策に嵌められたな)
最初から誰かと口裏を合わせて、二人きりになる状況を作ったのかもしれない。
いずれにせよ、澪が自分と二人きりの状況を作り出すために仕組んだ罠であることは明白だった。
「……そうか。それは残念だね」
「はい。だから、結局二人になっちゃいましたけど……行きましょうか!」
澪は悪びれる様子もなく、嬉しそうに健介の腕に自分の腕を絡めてきた。
健介は内心で大きなため息をついた。
罠に嵌められたことには呆れた。
だが、ほんの数日前まで生きることさえ諦めかけていた澪が、こうして旅行を楽しみに笑っている。
その顔を見て、ここで一人置いて帰る気にもなれなかった。
(まあいい。ただ温泉に入って、料理を食べるだけだ。適当に距離を保って、父親のように振る舞えばいい)
健介はそう割り切り、澪と共にロマンスカーへと乗り込んだ。
ロマンスカーの快適な座席に並んで座り、車窓から流れる景色を眺める。
澪は健介の隣に座れたことがよほど嬉しいのか、終始ご機嫌で、仕事の話や最近読んだ本の話などを楽しそうに語っていた。
「そういえば」
健介は、ふと気になっていたことを尋ねた。
「そのドタキャンしたお友達って、学生時代からの付き合いとか?」
「ああ、違いますよ」
澪は持っていたペットボトルのお茶を一口飲み、あっけらかんと言った。
「星野ですよ。星野佳奈」
「……え?」
健介の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
全身から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
「ほ、星野さん……? うちの課の?」
「はい。昨日、ちょっと協力してもらったんです。『当日の朝に体調を崩して、来られなくなったことにして』って」
健介の胃の奥が、ギリギリと激しく痛み始めた。
「……やっぱり、最初から仕組んでたのか」
「ふふっ。だって、そうでもしないと沢村さん、絶対に来てくれないじゃないですか」
(佳奈を……誘っただと……?)
よりによって、自分がすでに一線を越えてしまった相手を。
もし佳奈が今日来ていて、この場で鉢合わせしていたらと思うと、背筋が凍りつくようだった。
いや、待てよ。
佳奈は、相手が誰なのか知った上で協力したのか?
いや、澪が自分の名前を出していれば、佳奈は絶対に何があっても来ていたはずだ。
「さ、佐々木さん……」
健介は、声の震えを必死に抑えながら尋ねた。
「星野さんには……今日、誰と行くとか、話したのかい?」
健介の問いに、澪は少しだけ不思議そうな顔をしたが、やがて、ぽっと頬を赤く染めて、小さく首を横に振った。
「ううん。誰と行くかは、内緒にしてました。『新しい友達』とだけ伝えて」
「……新しい、友達?」
「はい」
澪はそこで言葉を区切り、上目遣いで、熱を帯びた瞳で健介を真っ直ぐに見つめた。
「……『これから、彼氏になってほしい人』と行くって。星野には、そう言っておきました」
「――ッ!!」
澪が恥じらうように目を伏せた瞬間。
健介の脳内で、けたたましい非常ベルが鳴り響いた。
(終わった……!!)
月曜日の朝。
「彼氏になってほしい人と箱根に行ってきた」と嬉しそうに語る澪と。
その相手が自分であると知った時の、佳奈の反応。
ただ温泉に入って美味しい料理を食べるだけの接待旅行が、一瞬にして修羅場の時限爆弾へと変貌した瞬間だった。




