第24話:二人の箱根路
秋晴れの空の下、小田急ロマンスカーは箱根湯本に向けて快調に走り続けていた。
「沢村さん、見てください! あっちの山、すごく綺麗に紅葉してますよ!」
隣の座席で、佐々木澪は窓の外を指さしながら、子どものように目を輝かせていた。
温かいお茶を飲みながら、終始ご機嫌な様子で景色を楽しんでいる。
その横顔には、ほんの数日前まで会社で5億円の損害賠償に怯え、生気を失っていた面影など微塵もなかった。
そして、長年付き合っていた恋人に捨てられた傷心すらも、今は全く感じさせない。
(立ち直りが早いというか、切り替えが上手いというか……。さすがは第三課のエースだな)
健介は手元の缶ビールを一口飲みながら、そんな澪の無邪気な笑顔を見て、内心でホッと胸を撫で下ろしていた。
交差点で絶望の淵に立っていた彼女を引き戻し、無事に笑顔を取り戻すことができたのだ。
それだけで、今回彼女と帝王フーズへの再交渉に乗り込んだ価値は十分にあった。
(まあ、この箱根旅行は完全に彼女の罠に嵌められた形だが……。一線さえ越えなければ、ただの慰安旅行だ。今日は先輩として、あるいは年上の人間として、彼女の気晴らしに付き合ってやろう)
健介はそう割り切り、のんきな笑みを浮かべて澪の弾むような会話に相槌を打ち続けた。
やがて、列車は目的地の箱根湯本駅に到着した。
週末ということもあり、駅前は多くの観光客でごった返している。
改札を抜け、土産物屋が立ち並ぶ賑やかな商店街へと足を踏み入れた瞬間だった。
「わっ、すごい人ですね。はぐれちゃいそうです」
澪がそう言ったかと思うと、スッと自然な動作で、健介の左腕に自分の両腕を絡めてきたのだ。
柔らかな胸の感触が、薄手のワンピース越しに健介の腕に伝わってくる。
「お、おい、佐々木さん……」
健介は少し慌てて、周囲を見回しながら声を潜めた。
「知り合いがいないからって、いくらなんでも腕を組むのはまずいだろう。会社の人間に見られでもしたら大変だぞ。それに、僕は既婚者で、君とは20歳以上も歳が離れているんだ。端から見たら、誤解されるよ」
健介が真っ当な大人の忠告をすると、澪は腕を離すどころか、さらにギュッと力を込めて密着してきた。
「どうしてですか? 別に、誤解されたっていいじゃないですか」
「いや、よくないだろう……」
「大丈夫ですよ。周りの人には、『年の差夫婦』に見えるようにちゃんと用意してきましたから」
「用意?」
澪は悪戯っぽく微笑むと、健介の腕に絡めていない方の左手を、スッと目の前にかざした。
その薬指には、シルバーのシンプルなリングがキラリと光っていた。
「……指輪?」
「はい。これなら、沢村さんの左手にある結婚指輪と、遠目にはお揃いのデザインに見えませんか?」
確かに、健介が嵌めている結婚指輪も装飾のないシンプルなプラチナリングだ。
よく見ればブランドも質感も違うことは分かるが、すれ違う観光客がパッと見ただけなら、同じペアリングだと勘違いしてもおかしくない。
「君、どこでそんなものを……まさか、わざわざ買ったのか?」
「ふふっ、違いますよ。これ、以前に大きな商談が成功した時に、元カレにお祝いに買ってもらったものなんです」
「……え?」
「高価なものは買えないからって、一番安くてシンプルなやつだったんですけど。まさか、こんなところで役に立つなんて思いませんでした。持ってきてよかったです」
澪はあっけらかんと笑い、指輪を太陽の光に透かして見せた。
健介は呆気にとられた。
普通、ひどい別れ方をした元恋人からのプレゼントなど、見たくもないか、すぐに捨ててしまうものだろう。
それをあえて引っ張り出し、自分の『妻役』を演じるための小道具として悪びれもなく再利用するとは。
若い子のドライな感覚にはついていけないと、健介は内心で大きなため息をついた。
しかし、腕に伝わる柔らかい感触と、嬉しそうに見上げてくる彼女の美しさに、強引に腕を振り解くこともできなかった。
「……やれやれ。今日だけだからな」
「はいっ!」
結局、健介は完全に澪のペースに乗せられる形となり、二人は『年の差夫婦』として、箱根の観光名所を巡ることになった。
大涌谷で硫黄の匂いに顔をしかめながら名物の黒たまごを食べ、芦ノ湖では海賊船の甲板に立って秋風を浴びた。
箱根神社の平和の鳥居の前では、「沢村さん、一緒に写真撮りましょう!」と澪に強引に腕を引かれ、観光客にお願いしてツーショット写真を撮らされたりもした。
最初は「適当に父親のように振る舞おう」と割り切っていた健介だったが、仕事の時の刺々しさが嘘のように無邪気に笑う澪を見ているうちに、不思議と心が軽くなっていく。
気づけば健介自身も、この非日常の観光を心から楽しんでいた。
◇
夕方。
16時。
二人は予約していた箱根湯宿『月映ノ杜』へと到着した。
純和風の格式高い門構えと、手入れの行き届いた日本庭園が迎えてくれる。
早割を利用しても一人4万円というだけあり、ロビーの調度品からスタッフの洗練された接客まで、すべてが極上だった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
和装のフロントスタッフが、丁寧に頭を下げた。
「予約している、沢村ですが」
澪が自然な笑顔で名前を告げると、スタッフは手元の宿帳を確認し、にっこりと微笑んだ。
「はい、沢村様ですね。本日は当旅館をお選びいただき、誠にありがとうございます。……どうぞ、奥様もこちらへ」
「――」
その「奥様」という言葉を聞いた瞬間、健介はピタリと動きを止めた。
隣を見ると、澪は全く驚いた様子もなく、「お世話になります」と上品に会釈を返している。
(……なるほど、そういうことか)
健介はすべてを悟った。
昨夜、澪は「同行者が変わったので二人で行く」と旅館に電話を入れたと言っていた。
その際、予約名義を自分の「佐々木」から「沢村」に変更し、さらに「自分は妻である」と宿側に吹き込んでいたのだ。
だからこそ、彼女は先ほど堂々と「沢村」と名乗ったのである。
つまり。
朝の駅で星野佳奈との口裏合わせまで白状された時点で、健介も薄々覚悟はしていた。
それでも、旅館側にまで「夫婦」として話を通していたとは思わなかった。
すべては健介と二人きりで、しかも夫婦としてこの高級旅館に泊まるために、澪が周到に仕組んだ罠だったのだ。
(完全に、この子の手のひらの上だな……)
健介は小さくため息をつきながらも、今さら「彼女は妻ではありません」と訂正する気力も湧かず、ただ苦笑いをしてスタッフの案内に従うしかなかった。
通された部屋は、窓から箱根の山々を一望できる、広々とした和洋室だった。
縁側には立派な檜の露天風呂までついている。
「わあ……! すごく綺麗なお部屋ですね!」
澪は部屋に入るなり、嬉しそうに畳の上を歩き回った。
「本当に豪華だな。……とりあえず、夕食の前に大浴場にでも行ってこようか。長旅で少し疲れただろう」
「はい! じゃあ、1時間後にまたこの部屋で」
それぞれ浴衣とタオルを手に取り、健介は男湯へ、澪は女湯へと向かった。
湯船に浸かりながら、健介は深く息を吐き出した。
熱めの温泉が、凝り固まった筋肉をじんわりと解きほぐしていく。
(……それにしても、まさか佐々木さんとこんな風に旅行に来ることになるなんてな)
ほんの数日前まで、彼女は健介を『使えないおじさん』として忌み嫌い、目も合わせようとしなかったのだ。
それが今や、左手に指輪まで嵌めて「奥様」として隣を歩いている。
女性の心変わりというものは、恐ろしいほどに極端で、そして劇的だ。
健介は温泉でたっぷりと汗を流し、火照った身体に浴衣を羽織って部屋へと戻った。
「ただいま」
襖を開けて中に入ると、すでに先に戻っていた澪が、鏡台の前で髪を梳かしていた。
「あ、おかえりなさい、沢村さん」
澪が振り返った瞬間、健介は思わず息を呑んだ。
濃紺の生地に淡いピンクの百合があしらわれた、女性用の色浴衣。
オフィスでのタイトスーツ姿も美しかったが、湯上がりの上気した白い肌と、うなじを無造作にまとめた髪が、今の彼女に信じられないほどの艶を与えていた。
薄化粧でありながらも、湯気を含んだようなしっとりとした色気が、部屋の空気を甘く染め上げている。
「……あ、あの。変、ですか?」
健介がじっと見つめていることに気づき、澪が少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「いや……すごく似合ってるよ。綺麗だ」
健介が素直に褒めると、澪の顔がパァッと明るくなり、頬がほんのりと桜色に染まった。
(いかんいかん、冷静になれ。相手は20歳以上も年下の後輩だぞ)
健介は自分に言い聞かせるように軽く頭を振り、テーブルの向かい側に腰を下ろした。
やがて、仲居が夕食の膳を運んできた。
相模湾で獲れた新鮮な伊勢海老のお造りに、箱根山麓豚のしゃぶしゃぶ、そして彩り豊かな秋の懐石料理がテーブルを埋め尽くす。
「うわあ、美味しそう……! 沢村さん、今日はいっぱい飲みましょうね!」
「ほどほどにな。君は明日も仕事があるわけじゃないんだから、ゆっくり休めばいいけど」
二人は冷えたビールで乾杯し、豪華な食事に舌鼓を打った。
料理の美味しさと、温泉宿という非日常の解放感も手伝って、お酒のペースは自然と早くなっていった。
ビールから地元の日本酒へと切り替わり、二人の顔は次第に赤く染まっていく。
「いやぁ、それにしても……あの黒田部長が、最後は沢村さんにペコペコ頭下げてるのを見た時は、本当にスカッとしました!」
すっかり酔いの回った澪が、日本酒の猪口を片手に楽しそうに笑う。
「私、あの人が怖くてずっと怯えてたのに。沢村さんが『こっちの条件を飲んでいただきます』って言った瞬間、黒田部長の顔が真っ青になって……ふふっ、本当に最高でした!」
「佐々木さんが徹夜でデータを作ってくれたからだよ。僕一人じゃ、あんな短時間で説得材料は揃えられなかった。……君は本当に優秀な営業だ」
健介がお酒を注ぎ返しながら褒めると、澪は嬉しそうに目を細め、やがて少しだけ真面目な顔になった。
「……沢村さんって、謎ですよね」
「謎?」
「はい。あんなに凄い実力があるのに、どうして会社ではわざと『使えないおじさん』のフリをしてるんですか? 本気を出せば、霧島課長どころか、役員にだってなれるはずなのに」
澪の真っ直ぐな問いかけに、健介は苦笑した。
「出世したって、責任と面倒な仕事が増えるだけさ。おじさんはもう、のんびり定時で帰って、自分の時間を楽しみたいんだよ」
健介がはぐらかすように答えると、澪は少し不満そうに唇を尖らせた。
「……奥さんのため、ですか?」
「え?」
「沢村さん、ご結婚されてるんですよね。……奥さんって、どんな人なんですか? どうしても、写真が見てみたいです」
澪はテーブルに肘をつき、食い下がるように言った。
猪口をテーブルに置き、探るような、少しだけ熱を帯びた瞳で健介を見つめる。
それは、後輩が先輩に向ける視線ではなく、一人の女性が「意中の男性のプライベート」に踏み込もうとする、明確な矢印だった。
「……妻、か。いや、わざわざ見せるようなものじゃないよ」
「えー、いいじゃないですか」
「だめだめ。ほら、お酒冷めちゃうよ」
「少し見るだけですから!」
澪は引かず、テーブル越しに健介の腕を掴んだ。
健介は少し困ったように眉を下げたが、彼女の熱意に負けたように、やがて手元のバッグからスマートフォンを取り出した。
自分が既婚者であるという現実をしっかりと見せることで、彼女の熱を冷ます良い機会だと思ったのだ。
「……分かったよ。まあ、隠すようなものでもないけどね」
健介はスマートフォンの画面を澪に向けた。
「妻は今、仕事で大阪に単身赴任していてね。……これが、去年の正月に撮った写真だよ」
そこには、健介の隣で微笑む妻・麻由美と、義娘である結愛の姿が映っていた。
澪は身を乗り出して画面を覗き込んだ。
そして、顔を見た瞬間、スッと表情が固まった。
「……この方が、奥さん……?」
「ああ。43歳だよ。隣にいるのは娘だ。この春から大学生でね。……血は繋がっていないんだけど」
澪は言葉を失っていた。
写真の中の麻由美は、43歳という年齢が信じられないほど若々しく、美しい。
洗練されたファッションと、大人の女性としての余裕が、画面越しにも伝わってくる。
澪の視線が、しばらくその一点に止まったままだった。
やがて、そっと画面から目を外す。
「……すごく、綺麗な人ですね」
澪は無理に笑顔を作り、ポツリと呟いた。
その声は、先ほどまでの明るい調子から一転して、ひどく沈み込んでいた。
「どうした? 酔いが回ったか?」
「……いえ。なんでもないです」
澪はそれ以上写真を見ようとはせず、手元の日本酒を一気に飲み干した。
健介は、澪が急に静かになった理由を深くは追求せず、「そろそろ食事は終わりにしようか」と仲居を呼んで膳を下げさせた。
食後。
健介は「少し風に当たってくる」と言って、部屋の縁側にある露天風呂へと向かった。
澪も「私も、もう一度大浴場に行ってきます」と部屋を出て行った。
秋の冷たい夜風にあたりながら、部屋の露天風呂に浸かる。
(……やはり、妻の写真を見せたのは正解だったな。これで彼女も、僕に対する変な幻想を捨ててくれるだろう)
健介はそう自分を納得させ、ゆっくりと湯を楽しんだ。
それから30分後。
健介が浴衣を着て部屋に戻ると、すでに大浴場から戻っていた澪が、畳の上に小さなちゃぶ台を出し、冷蔵庫から取り出した缶チューハイを並べて待っていた。
部屋の照明は、少し暗めに落とされている。
「……お帰りなさい、沢村さん」
澪の声は、どこか艶を帯びていた。
健介は少し嫌な予感を覚えながらも、澪の向かい側に腰を下ろした。
「佐々木さん、まだ飲むのか? 明日もあるんだから、そろそろ休んだ方が……」
「もう少しだけ。……もう少しだけ、私に付き合ってください」
澪はプシュッ、と缶チューハイを開け、コクコクと喉を鳴らして飲んだ。
そして、缶を置くと、ゆっくりと健介の方を見つめた。
その瞳は、昼間の無邪気さとも、先ほどの翳った表情とも違っていた。
しっとりと濡れた瞳。
微かに開いた、桜色の唇。
それは、大人の男を誘う、紛れもない女の顔だった。
「沢村さん……」
澪はちゃぶ台に両手をつき、健介に向かって身を乗り出した。
胸元の浴衣が少しはだけ、白い谷間が露わになっている。
「……私、沢村さんの奥さんに、負けたくないです」




