第25話:澪と健介
「……私、沢村さんの奥さんに、負けたくないです」
薄暗い照明が落ちた和室。
ちゃぶ台に身を乗り出し、はだけた浴衣の胸元から白い肌を覗かせながら、佐々木澪は熱を帯びた瞳で健介を真っ直ぐに見つめた。
それは、昼間無邪気に箱根の山々を指差していた少女の顔でも、会社で冷徹にノートパソコンに向かうエースの顔でもなかった。
一人の男を誘い込み、自分だけのものにしようとする魔女の顔だった。
あまりにストレートで、切実な響きを持った言葉。
健介は小さく息を呑み、必死に大人の男としての防波堤を築き直した。
「……何言ってるんだ。君は十分、魅力的だよ。こんな冴えないおじさんに、そんな言葉を使って構う必要はない」
健介は努めて平坦な、ありふれた慰めの言葉で躱そうとした。
しかし、そんな逃げ口上を、完全にスイッチの入った澪が許すはずがなかった。
「だったら……抱いてください」
「――っ」
「私を魅力的って言うなら。……今夜、私を抱いて欲しい」
躊躇いのない、真っ直ぐな要求。
健介の心臓が大きく跳ね、頭の奥で警鐘が鳴り響いた。
「佐々木さん、酔ってるんだよ。明日になれば必ず後悔する。君みたいな未来のある子が、20歳以上も年上の既婚者とこんなことしちゃいけない」
「既婚者って言ったって、奥さんとは離れて暮らしてるんでしょう?」
澪は一歩も引かなかった。
ちゃぶ台を回り込み、健介の隣へと身を寄せる。
微かなアルコールと、湯上がりの甘い石鹸の香りが、健介の鼻腔をくすぐった。
「ずっと一人で暮らしていて、寂しくはないんですか?」
「それは……」
健介は言葉に詰まった。
寂しい。
確かに、一人きりのマンションに帰る毎日は虚無だったかもしれない。
だが、その言葉を聞いた瞬間、健介の脳裏に鮮烈に過ったのは、妻の麻由美でも義娘の結愛でもなかった。
『……私、沢村さんのこと、もっともっと好きになっちゃいました』
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに自分への想いをぶつけてきた、星野佳奈の姿だった。
(……ダメだ。星野さんの人生の『初めて』を奪って、あの時の感情に流されて抱いてしまっただけでも、許されない過ちなのに。これ以上、後輩の人生を狂わせるわけにはいかない)
健介はギュッと拳を握りしめ、必死に理性の糸を手繰り寄せた。
これ以上踏み込まれないように、彼女の熱を冷ますため、健介は自嘲気味に笑った。
「……妻とは、夫婦の時間に求めるものがずっと合わなかったんだ。お互い歩み寄ったけど、最後まで埋まらない溝になった」
健介は視線を逸らした。
「どちらが悪いという話じゃない。……だから、君が想像しているほど、僕は立派な夫じゃないよ。もう寝なさい」
「……私も、そうでした」
「え?」
「私も。彼氏との夜の生活……悪くはなかったんです。でも、ずっとどこか違う気がしてたんです。満たされないというか、ただ一緒にいるだけで……」
澪はポツリと呟くと、突然、健介の浴衣の襟元を両手で掴み、そのまま彼を畳の上へ押し倒した。
「さ、佐々木さん……っ!?」
「いいんです。立派な夫じゃなくても。……今夜は、そんなこと全部忘れさせてあげます」
澪は健介の上に身を寄せ、真っ直ぐに彼を見下ろした。
振りほどこうと思えば、できた。
それでも、澪のあまりにも真剣で、切なく潤んだ瞳を見た瞬間、健介の手は止まった。
「沢村さんは、いつも私を助けてくれました。……だから今夜は、私が沢村さんのそばにいたいんです」
澪はそう囁くと、健介の唇に自らの唇を重ねた。
深く、長い口づけ。
アルコールの甘い香りと、湯上がりの温もりが混ざり合う。
健介の理性の防壁が、少しずつ崩れていった。
やがて澪は、今度は自分から彼を受け止めようとした。
その途中で、澪はふと、少しだけ目を丸くした。
(……え。思っていたのと、違う……?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
だが、澪が戸惑いながら距離を縮めていくうちに、その印象はあっという間に覆された。
「え……?」
その変化に、澪は思わず息を呑んだ。
「うそ……さっきと、全然……」
「……本当に、悪い子だ」
頭上から降ってきたのは、いつもと変わらない、けれどどこか深い熱を孕んだ健介の声だった。
澪が顔を上げると、健介は困ったように微笑んでいた。
「佐々木さん。最後に一つだけ確認させて」
「……はい」
「これは、今の君の意思なんだね? 明日になって、酔っていたからなんて言わないね?」
澪は迷わず頷いた。
「言いません。明日になっても変わりません。……私が、沢村さんを好きだからです」
健介はしばらく澪の瞳を見つめた。
そして、静かに息を吐いた。
「……分かった」
健介は改めて澪を抱き寄せた。
「無理だと思ったら、すぐ言うんだよ」
「はい」
健介の唇が、今度はゆっくりと澪の額へ落ちた。
そこから先は、澪が想像していたよりずっと優しかった。
大人の男としての余裕と、相手の反応を確かめる慎重さ。
強引に先へ進もうとせず、何度も澪の表情を見ながら距離を縮めていく。
それでも、慣れない感覚に澪が痛みで身体を強張らせると、健介はすぐに動きを止めた。
「ごめん。痛かったね。……やめよう」
だが、澪は健介の背中に腕を回した。
「待って……」
「でも、佐々木さん」
「痛いけど……でも、沢村さんと、ちゃんと繋がりたいです。好きだから……もう少しだけ」
涙を浮かべながら、それでも真っ直ぐに言い切る澪。
健介は小さく頷き、彼女の額にもう一度口づけた。
それからは、急がなかった。
澪が苦しそうにすれば止まり、呼吸が落ち着くまで待つ。
少しずつ緊張がほどけるにつれ、澪の表情から痛みが消え、代わりに安心したような笑みが浮かび始めた。
(ああ……この人なんだ)
自分を救い、立ち上がらせ、仕事では決して甘やかさなかった男。
その健介が、今は誰よりも近くで、自分だけを見てくれている。
それだけで、澪の胸は満たされていった。
「沢村さん……好き」
「澪……」
下の名前で呼ばれた瞬間、澪の胸の奥が熱く震えた。
「……もう一回、呼んでください」
「澪」
「健介……」
今度は澪も、照れながら彼の名前を呼んだ。
二人の間にあった最後の距離が、そこで静かに消えた。
◇
しばらくして。
澪は健介の胸に頬を寄せ、荒かった呼吸をようやく落ち着かせていた。
健介は申し訳なさそうに、彼女の汗ばんだ髪を撫でている。
「……ごめん。痛かっただろう」
「最初は、ちょっとだけ」
澪は小さく笑った。
「でも、嫌じゃなかったです」
少しの沈黙のあと、澪は遠慮がちに尋ねた。
「……奥さんとは、やっぱり、こういうことも含めて合わなかったんですか?」
健介は天井を見つめたまま、ぽつりと答えた。
「夜の生活も含めて、夫婦の時間に求めるものが違ったんだ。お互いに歩み寄った。でも、最後まで埋まらなかった」
「……そうなんですね」
「どちらが悪いって話じゃないよ」
それ以上、健介は語らなかった。
澪も、それ以上は聞かなかった。
代わりに、そっと健介の胸へ頬を擦り寄せる。
「私は……今の気持ちから逃げませんよ。絶対に」
健介は答えず、ただ優しく澪の髪を撫でた。
その後も二人は、眠りと短い会話を挟みながら、互いの温もりを確かめ合った。
誰にも知られていない、二人だけの夜だった。
◇
早朝。
部屋の縁側にある客室露天風呂。
秋の澄んだ空気が漂う中、こんこんと湧き出る温泉の音だけが、絶え間なく響いている。
健介は、湯船の中でぐったりとしている澪を後ろから抱きかかえるようにして、彼女の肩へそっと湯をかけていた。
「……本当に、力が抜けちゃいました」
澪が湯船の縁に顔を乗せたまま、微かな声で呟く。
身体にはまだ疲労が残っている。
それでも、その疲れさえ愛おしく感じるほどの、深い満ち足りた幸福感が澪を包み込んでいた。
健介は澪の肩にお湯をかけながら、苦笑した。
「ごめんね。無理させたかな」
「ふふっ……大丈夫です」
風呂から上がった後。
朝食の時間になるまで、澪はベッドの上で、健介の温かい腕の中にすっぽりと収まりながら、安心しきったように深い眠りへと落ちていった。




