第26話:ペアリング
箱根の山々に、爽やかな秋の朝陽が差し込んでいた。
箱根湯宿『月映ノ杜』の客室。
朝食の時間となり、部屋にはベテランの仲居が訪れ、手際よくテーブルに豪勢な和朝食の膳を並べていた。
伊勢海老の味噌汁のいい香りが部屋に漂う中、佐々木澪は浴衣の上に羽織を引っかけ、座布団の上でこっくりこっくりと船を漕いでいた。
昨夜は遅くまで健介と過ごし、朝風呂の後に少しうたた寝をしたとはいえ、圧倒的に睡眠が足りていなかったのだ。
身体には、まだ心地よい疲労が残っている。
仲居は焼き魚の皿を並べながら、うとうとしている澪の艶っぽい姿を視界の端に捉えた。
そして、向かいに座って静かにお茶を飲んでいる健介の方へ、チラリと視線を送った。
一流の旅館の仲居である。
余計な詮索は決して顔に出さず、ただ上品な微笑みを浮かべて深く一礼した。
「それでは、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
襖が静かに閉められ、部屋には再び二人きりの空間が戻ってきた。
「……佐々木さん、朝食の準備ができたよ。目が覚めたかい?」
健介が優しく声をかけると、澪は「んん……」と目を擦りながら、パチリと重い瞼を開けた。
「あ、おはようございます……。すみません、私、うとうとしちゃって」
「無理もないよ。あんな時間まで……話し込んでいたのは僕も同じだからね」
健介が苦笑いしながら言うと、澪は昨夜のことを鮮明に思い出し、顔から火が出るほど真っ赤になった。
夜の暗がりでは大胆になれた。
しかし、こうして朝の明るい光の中で、昨夜すべてを委ねた男と真正面から向き合うと、どうしようもない気恥ずかしさが込み上げてくる。
「……いただき、ます」
澪は恥ずかしさを誤魔化すように顔を伏せ、お箸を手にしてご飯を口に運んだ。
普段のオフィスでは絶対に見せない、もじもじとした所在ない態度。
健介はそのギャップを愛おしく思いながら、穏やかなペースで食事を進めていった。
しばらく、食器の触れ合う音だけが響く静かな時間が流れていた。
やがて澪が湯呑みを取ろうと少し身体を動かした瞬間、小さく顔をしかめた。
「……っ」
「どうした? どこか痛むのか?」
健介が心配そうに尋ねる。
澪は顔を真っ赤にしながら、小さく首を横に振った。
「大丈夫です。……ちょっと、昨日の疲れが残ってるだけですから」
「あまり無理するなよ」
「はい」
「……それと、昨日のことだけど」
健介が言いかけると、澪は先回りするように顔を上げた。
「分かってます。大丈夫な日でしたから、心配しないでください」
顔を赤くしながら、澪は早口でそれだけを言い切った。
そこまで本気で心配してくれていることが分かり、澪は恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに微笑んだ。
朝食を終え、身支度を整えた二人は、フロントでチェックアウトの手続きを行った。
「それでは、こちらがご宿泊代でございます」
フロントスタッフが伝票を差し出した瞬間、健介が財布を出すより早く、澪がクレジットカードを差し出した。
「こちらでお願いします」
「ちょ、佐々木さん」
「今回は私からのお礼です。ここは譲りません」
澪はにっこり笑い、そのまま支払いを済ませてしまった。
二人は旅館を出て、秋晴れの箱根湯本の街へと歩き出した。
「佐々木さん。いくらなんでも、あんな高級旅館の宿泊費を君に全額負担させるわけにはいかないよ。半分……いや、僕に全額払わせてくれないか」
健介が申し訳なさそうに財布を取り出そうとすると、澪はスッとその手を制した。
「いいんです。元々は私から、会社のトラブルを救っていただいたお礼で誘ったんですから」
澪が悪戯っぽく微笑むと、健介は困ったように眉を下げた。
「そうは言っても、大人の男としてのプライドがある。これじゃあ、若い女の子にお金を出させて遊んでる、ただのダメなおじさんじゃないか」
健介がどうしても引かない様子を見て、澪は「うーん」と少し考える素振りを見せた。
「分かりました。じゃあ、宿泊費は私が払いますけど……その代わり、私の欲しいものを一つだけ、健介さんに買ってもらってもいいですか?」
「欲しいもの? ああ、もちろん。なんでもいいよ。洋服でも、バッグでも」
健介がホッとして頷くと、澪の顔がパァッと明るくなった。
「言いましたね? なんでもいいって」
澪は健介の腕にギュッと自分の腕を絡めると、そのまま観光客で賑わう土産物屋の立ち並ぶ通りへと彼を引っ張っていった。
数分後。
澪が「ここです!」と満面の笑みで健介を連れ込んだのは、土産物屋ではなく、通りのはずれにあるシルバーアクセサリーの専門店だった。
「えっ……アクセサリー?」
「はい! すみませーん、このショーケースの中の指輪、見せてください」
澪が店員に声をかけ、指差したものを見て、健介の顔が引き攣った。
それは、シンプルなデザインのシルバーのペアリングだった。
「ちょ、ちょっと待って。佐々木さん……ペアリングって、それはいくらなんでも……」
健介が慌てて小声で制止する。
自分は妻と別居中とはいえ、戸籍上は既婚者だ。
その男が、20歳以上も年下の会社の後輩とペアリングを買うなど、あまりにもリスキーで常識外れだ。
「だって、なんでもいいって言ったじゃないですか」
澪は唇を尖らせ、健介をジロリと睨んだ。
「別に、会社でこれ見よがしに着けたりしませんよ。ただ……私だけが健介さんと繋がってるっていう証が、どうしても欲しいんです。……だめ、ですか?」
周囲の目を気にしながら、上目遣いで、縋るように懇願してくる澪。
そのいじらしくて健気な表情を見せられては、健介の「大人の常識」などという防波堤は、いとも簡単に崩れ去ってしまう。
「……やれやれ。本当に、君には敵わないな」
健介が大きなため息をついてクレジットカードを差し出すと、澪は「やったぁ!」と小さく歓声を上げた。
購入したばかりのペアリング。
澪は自分の左手から、昨日『妻役』を演じるために嵌めていた元カレの安い指輪を外し、代わりに、買ったばかりの細身のものを嵌めた。
そして、もう一つの少し太めのリングを手に取り、健介の左手をじっと見つめた。
そこには、妻との結婚指輪が嵌っている。
健介は澪の無言の、けれど強烈な独占欲を孕んだ視線に気づき、小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
健介はそう言うと、自ら左手の薬指から結婚指輪を外し、ズボンのポケットへとしまった。
澪の顔が、パァッと輝く。
彼女は嬉しそうに健介の左手を取り、空になったその薬指に、自分とお揃いのそれをそっと滑り込ませた。
その後、二人は昼過ぎまで箱根の観光名所を巡り、地元の蕎麦屋で美味しいランチを食べて、帰りの小田急ロマンスカーへと乗り込んだ。
夕陽に染まり始めた車窓の景色を眺めながら、健介は隣で満足そうに寄りかかっている澪に声をかけた。
「……そういえば。旅館を出てからずっと名前で呼んでるけど。まさか、明日からの会社でもそう呼ぶつもりじゃないだろうね?」
健介が少し不安そうに尋ねると、澪はフフッと鼻で笑った。
「そんな馬鹿じゃありませんよ。オフィスでは、今まで通り『沢村さん』って呼びます。……誰も知らない、46歳のおじさんと25歳の女。でも、裏では誰よりも深く繋がってる。その方が、スリルがあってドキドキするじゃないですか」
澪は健介の耳元に唇を寄せ、甘い吐息と共に囁いた。
「明日からのオフィス……楽しみにしていてくださいね、沢村さん」
その魔女のような妖艶な微笑みに、健介はただ苦笑いを返すことしかできなかった。
◇
そして翌日。
月曜日の朝。
営業第三課のオフィスは、週明け特有の、冷たく張り詰めた空気に包まれていた。
健介の左手薬指には、いつもの結婚指輪が戻っている。
箱根で澪と買ったリングは、誰にも見られないよう大切にしまってあった。
「おはようございます!」
いつもより少し遅れて出社してきた澪は、明るい声をオフィスに響かせた。
その手には、大きな紙袋が提げられている。
「佐々木さん、おはよう。随分ご機嫌ね」
中堅の中川留美が声をかけると、澪は紙袋の中から綺麗に包装された箱を取り出した。
「週末、箱根に行ってきたんです。これ、皆さんに温泉まんじゅうのお土産です。休憩時間にでも食べてください」
澪はそう言って、箱を開け、『特攻隊長』の橘咲や、『データ職人』の藤本雫、新人の星野佳奈、そして課長の霧島玲奈たちのデスクに、次々と小分けのまんじゅうを配って回った。
「へえ、箱根ねぇ。あんなに仕事で殺気立ってたのに、急に旅行なんて。……誰と行ってきたの?」
咲がニヤニヤしながら、探るような視線を向ける。
オフィスにいた全員の耳が、一瞬ピクッと動いた。
エースである澪のプライベートは、この女だらけの部署において最大のゴシップの標的だからだ。
澪は全く動じることなく、満面の笑みで答えた。
「新しい彼氏……というか、これから彼氏になってほしい人かな。すごく素敵な大人の男性なんです」
「あら、そう! 前の彼氏とは別れたって言ってたもんね。立ち直りが早くて何よりだわ」
「でも佐々木さん、なんだかちょっと眠そうじゃない? ……さては、温泉で夜更かししたわね」
留美が揶揄うように笑う。
澪は顔をポッと赤く染めながらも、「もう、からかわないでくださいよ」と自信に満ちた笑みで躱した。
実際、昨夜はほとんど眠れていない。
それでも、今の澪には疲労さえ心地よく感じられていた。
「はい、沢村さんもどうぞ。いつもお疲れ様です」
澪は最後に、ぼんやりと空を眺めていた健介のデスクに、小分けの温泉まんじゅうを一つコトンと置いた。
「おお、これはご丁寧にどうも。佐々木さんも、旅行お疲れ様。ありがたくいただくよ」
健介はいつものように、全く覇気のない『冴えないおじさん』の笑顔でお礼を言い、その場ですぐにまんじゅうの包みを開けて美味しそうに頬張った。
昨日、箱根の土産物屋で澪と一緒に試食して、「これ美味しいね」と笑い合った、全く同じ味のまんじゅうを。
「……ふふっ」
澪は誰にも見えないように、口元を手で隠して小さく笑った。
オフィスでは、誰も自分たちの関係に気づいていない。
冷酷な先輩たちも、厳しい課長も。
澪がキーボードを叩くため、手元に視線を落とす。
マウスを握る彼女の左手の薬指には、昨日買ってもらったばかりの、シンプルなシルバーのリングがキラリと静かな光を放っていた。
(……これ見よがしに着けたりしないんじゃなかったかな)
健介はモニター越しにそれを見て、心の中でやれやれと呟いたのだった。




