第27話:予期せぬ来訪者
箱根土産が配られた、その日の午後。
営業第三課のフロアには、乾いたタイピング音と、電話越しの穏やかな声が響いていた。
「佐々木先輩、指輪も箱根で買ったんですか?」
星野佳奈の視線が、佐々木澪の左手に留まっていた。
「うん。気に入ったものがあったから」
「……そうなんですね」
佳奈は笑ったものの、指輪からなかなか目を離さなかった。
旅行の相手がいるらしいという、朝の土産話が気になるのだろう。
ただの興味にしては、少しだけ拗ねたような声だった。
「あの、佐々木先輩」
「ん?」
「その人って……私の知ってる人ですか?」
キーボードを叩く澪の指が、一瞬だけ止まった。
「さあ。どうかな」
澪はそれだけ言って、画面に視線を戻した。
佳奈も、それ以上は聞かなかった。
ふと佳奈の視線が健介に向いたが、すぐに手元へ戻った。
その時、澪の電話が鳴った。
「ええ、その件につきましては、弊社の方で再度調整させていただきます。ご心配をおかけして申し訳ありません」
健介の向かいの席。
ノートパソコンのモニターの裏側から、澪の柔らかく落ち着いた声が聞こえてくる。
以前の彼女なら、少しでもイレギュラーな事態が起きると焦りを声に滲ませたり、逆に虚勢を張って刺々しい物言いになったりしていた。
だが今の声には、相手の要望を柔らかく受け止めつつも、譲れないラインはしっかりと守る、確かな余裕があった。
帝王フーズという巨大な壁にぶつかり、泥臭く足掻いたあの修羅場を乗り越えた経験が、エースとしての彼女を一回りも二回りも成長させていたのだ。
頼もしくなったその気配に、健介は密かに確かな手応えを感じていた。
健介は彼女の声をBGMに、手元のキーボードを静かに叩いていた。
画面の右下で、小さなチャットウィンドウが点滅している。
『送信者:星野佳奈』
『沢村さん、このデータの集計なんですけど、どうしてもここだけエラーが出てしまって……。お忙しいところすみません、少しだけ教えていただけませんか?』
健介は表情を一切変えず、タッチタイピングで簡潔に返信を打ち込む。
『関数の参照先が1つズレているだけだよ。直してみな』
数秒後、佳奈から「あ……っ、本当だ。綺麗に数字が揃いました! いつもありがとうございます!」と、嬉しそうな犬のスタンプと共に返信が届く。
社内で親密な会話を交わしたり、指導の様子を目立たせたりしない。
秘密の相談はモニター越しのチャットでこっそりと済ませる。
それが二人のルールだった。
対面に座る澪からはモニターが死角になり、健介が誰とどんなやり取りをしているかなど知る由もない。
ただ、健介が少し長めにキーボードを叩く音が、デスク越しにパタパタと響くだけだ。
健介がチャットウィンドウを閉じると、ふいに向かいの席から「ふぅ」と小さなため息が漏れた。
ほんの少しだけ甘さを孕んだ、誰にも聞こえないような吐息。
表向きは誰も寄せ付けない氷のエース。
だが、その左手薬指には、箱根で健介と選んだシルバーのペアリングが光っていた。
健介は誰にも見えないように小さく息を吐き出し、かすかに口角を上げた。
◇
夜、21時過ぎ。
自宅マンションのリビング。
テレビのニュースキャスターの単調な声だけが、虚しく響いている。
風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭いながら、健介は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを開ける。
ブルッ。
ローテーブルの上に置かれたスマートフォンが、短い振動音を立てた。
画面を見ると、LINEの通知がポップアップしている。
送り主は、澪だった。
『健ちゃん、今日もお疲れ様!』
会社でのあの氷のように冷たい『佐々木さん』の面影はどこにもない。
箱根では『健介さん』だった呼び名が、今夜はもう『健ちゃん』になっている。
『今日、デスクの向こうから見てたけど、パソコンに向かってちょっと楽しそうにしてたね。……まさか、他の女の子とチャットしてたりしないよね?』
顔が見えなくても、キーボードの音やわずかな気配を探られているらしい。
健介が「気のせいだよ。ただのデータ入力さ」といなすと、すぐに「本当に?」と疑うようなスタンプが送られてきた。
『健ちゃん、今日もパソコンに向かってフッと笑うことが多い気がするんだけど』
『私、仕事中もずっと健ちゃんのこと気にしてるんだよ? 私以外の女の子に、優しくしちゃダメだからね』
『私、左手の指輪を見ると箱根のこと思い出すんだ。健ちゃんも、しまってあるお揃いの指輪、時々見てね』
画面越しに伝わってくる、隠そうともしない強い独占欲。
健介はビールの缶を傾けながら、短く返信を打った。
『仕事中は真面目にやりなさい』
『もう。二人きりの時は甘やかしてって言ってるのに』
『そうやって大人の余裕ぶるところ、本当にズルい』
拗ねたようなメッセージがテンポよく届いたかと思うと、立て続けに本題が送られてきた。
『ねえ、今度の週末、会えない?』
『今度、健ちゃんのお家にご飯作りに行ってあげようか?』
ストレートに甘えてくる澪に、健介は苦笑しながら返信を打った。
もちろん大人の男として、彼女の熱意に流されて都合よく振り回すわけにはいかない。
『気持ちは嬉しいけど、君は僕の家の場所を知らないだろう?』
すると、即座に返信が届いた。
『じゃあ、教えて』
『今からでも行きたいくらいなんだけど』
『ついでに、箱根の続きもしてほしいな……。健ちゃんにめちゃくちゃにされたこと、思い出すたびに変になりそう』
あまりにも積極的な誘惑。
健介は小さく息を吐いた。
『今週末は少し野暮用があってね。明日も仕事だから、早く寝なさい』
健介が諭すように返信すると、「むー。わかった。おやすみなさい、大好きだよ、健ちゃん」という可愛らしいスタンプが返ってきた。
健介がビールの残りを飲み干そうとした、その時だった。
ブルッ。
再びスマートフォンが震えた。
画面に目をやると、今度は佳奈からだった。
『夜分遅くにすみません。沢村さん、今日もチャットで助けていただいて、本当にありがとうございました。おかげで無事に資料が完成しました』
澪の勢いとは打って変わった、丁寧で控えめな文面。
健介はビールの缶を置き、「お疲れ様。佳奈が頑張った結果だよ。あまり根を詰めすぎないようにね」と返信した。
『ありがとうございます。……名前で呼んでもらえると、やっぱり嬉しいです。今日もすごく心強かったです』
『実は今日、少し仕事で不安だったんですけど、沢村さんのおかげで元気が出ました』
健介が既読をつけても、しばらく次の返信は届かなかった。
画面の向こうで、彼女が何度も言葉を選んでいるのかもしれない。
やがて、ポンッとメッセージが届く。
『あの……もし、もし沢村さんのご都合が良ければなんですけど。今度、またお酒にご一緒できませんか……?』
『この前お店で教えていただいたお酒、すごく美味しかったので。純粋に、沢村さんとまた色々お話ししたくて……』
控えめな言葉の裏に見え隠れする、真っ直ぐな好意。
健介はスマートフォンの画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
(……一体どうなってるんだ)
『窓際族』として息を潜めて生きるはずだった自分が、エースと新人の二人から、夜な夜な熱い想いを向けられている。
健介は少し迷った末に、無難な返信を打ち込んだ。
『わかった。また近いうちに、ゆっくり飲みに行こう。今日はもう遅いから休みなさい』
すぐに「はい! おやすみなさい!」という嬉しそうなスタンプが返ってくる。
これ以上やり取りを続けるのは危険だと判断し、健介はスマートフォンを裏返してテーブルに置いた。
静寂を取り戻した広すぎるリビング。
一時は孤独を感じていたこの空間も、今は不思議な熱を帯びている。
その後、テレビを眺めながら過ごすうちに、時計の針は23時を回ろうとしていた。
――ピンポーン。
突然、静まり返った部屋にインターホンの音が鳴り響いた。
「……ん?」
健介はビクッと肩を揺らした。
こんな時間に訪ねてくる人間などいないし、宅配便のわけもない。
健介は立ち上がり、壁のインターホンのモニターを覗き込んだ。
「……結愛?」
玄関へ向かい、ドアを開けると、冷たい廊下の空気が流れ込んできた。
そこに立っていたのは、義娘の結愛だった。
「ただいま」




