第28話:義娘との朝食
「……結愛?」
冷たい空気が流れ込む玄関で、健介は目を丸くした。
ドアの前に立っていたのは、今年の春から一人暮らしを始めた義娘の結愛だった。
「ただいま」
結愛はひょいと顔を上げ、ごく普通のトーンでそう言った。
そのまま上がり框に腰を下ろし、履いていたスニーカーの紐を解き始める。
「おかえり。……って、急にどうしたんだ?」
「友達と遊んでたら、遅くなっちゃって。マンションより家の方が近かったから」
結愛は少しぶっきらぼうに答えると、ポンとスニーカーを脱ぎ揃えて廊下に上がった。
一人暮らしを始めて、何かと健介を煙たがるようになっていた年頃の娘だ。
それなのに、こうして当たり前のようにこのマンションを「家」と呼び、頼って帰ってきてくれた。
その事実が、健介の胸の奥にじんわりと温かいものを広げていく。
「そうか。お腹は空いてるか? 何か作ろうか」
「ううん、ご飯は食べてきたから平気。……お風呂入って、もう寝るね」
「ああ、おやすみ」
結愛はパタパタと足音を立てて脱衣所へと消えていった。
やがて聞こえてくる、シャワーの水の音。
健介はリビングのソファに腰を下ろし、静かに夜が更けていくのを感じていた。
◇
翌朝。
フライパンで何かが焼けるパチパチという音と、バターが焦げる香ばしい匂いで、健介は目を覚ました。
「……ん?」
時計を見ると、午前7時を回ったところだ。
少し寝坊したと思いながらリビングのドアを開けると、キッチンに立つ結愛の背中があった。
「おはよう、お父さん」
「お、おはよう。……これ、お前が?」
「うん。冷蔵庫にあったもので適当に作っただけだけど」
洗面所で顔を洗い、ダイニングテーブルにつく。
そこには、こんがりと焼けた厚切りのトースト、綺麗な半熟のハムエッグ、そしてマグカップに入ったコーンスープが並べられていた。
コーンスープは、市販の粉末をお湯で溶かしただけのものだ。
だが、健介にとっては、どんな高級レストランのスープよりも美味しく、そして嬉しかった。
「いただきます」
ハムエッグに醤油を垂らし、トーストをかじる。
向かいの席では、結愛がスマートフォンをいじりながら、小さくトーストをかじっている。
久しぶりの、娘との向かい合っての朝食だった。
結愛とは血は繋がっていないが、幼い頃から実の娘として育て、一緒に生活してきた。
彼女が一人暮らしを始めたいと言い出した時は、もしかして自分と離れたくて避けられているのではないかと、密かに気を揉んでいたものだ。
しかし、こうして朝から向かい合って食事をしていると、そんな心配は全くの杞憂だったのだと実感できる。
「大学は、どうだ?」
「まあまあ。それなりに楽しいよ」
スマートフォンから目を離さずに、結愛が当たり障りのない返事をする。
「そうか。友達と遊ぶのはいいが、夜道には気をつけなさいよ」
「うん、わかってる。あっ、そういえばさ」
不意に、結愛がスマートフォンをテーブルに置き、健介の顔を真っ直ぐに見つめた。
「この前、土曜日なのに家に帰ってこなかったよね。……どうして?」
「――っ」
健介の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
トーストを咀嚼する動きがピタリと止まる。
土曜日。
それはまさに、健介が佐々木澪と箱根の高級温泉旅館に泊まり、朝まで激しく抱き合っていた日のことだ。
なぜ結愛がそれを知っているのか。
おそらく、忘れ物か何かを取りに、週末にこのマンションに立ち寄ったのだろう。
健介は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに残りのトーストを口に放り込み、マグカップのコーンスープで流し込んだ。
「あ、ああ。会社の同僚に誘われて、温泉とゴルフに行ってたんだよ」
「ゴルフ? お父さん、ゴルフなんてやらないじゃん」
「やらないんだけどね。接待と宴会の人数合わせが必要だって、無理やり連れ出されてさ。サラリーマンはつらいよってやつだよ」
健介は苦笑いを浮かべ、わざと肩をすくめてみせた。
百戦錬磨の営業マンとして表情を取り繕い、ありふれたサラリーマンの言い訳を並べる。
結愛は健介の目をじっと見つめていたが、やがて視線を外し、再び自分のトーストに手を伸ばした。
「……ふうん」
それ以上は、深く追及してこなかった。
健介は内心で冷や汗を拭い、ホッと息を吐き出した。
しばらく、食器の触れ合う音だけが静かに響く。
やがて、結愛がポツリと口を開いた。
「お母さんから、連絡ある?」
大阪に単身赴任している、妻の麻由美のことだ。
「いや。特にないな」
「お父さんからは?」
「俺からも、特にしてないよ」
健介が正直に答えると、結愛は「そっか」と短く呟いた。
麻由美とは、一緒に暮らしていた最後の頃から、用事がなければ会話も少なくなっていた。
こうして物理的に離れて暮らしてみると、本当に何もない。
連絡を取り合うきっかけさえ、見つけられずにいる。
「わかった。なら、いい」
結愛はマグカップのスープを飲み干し、「ごちそうさま」と手を合わせた。
そして、椅子から立ち上がり、食器をシンクへと運びながら、背を向けたまま言った。
「お父さん、ちゃんと食べてる?」
「ん? ああ。適当に自炊してるよ」
「……ふーん」
シンクで水が流れる音がする。
結愛は蛇口を止めると、チラリとだけ健介の方を振り返り、少しだけ早口で言った。
「たまには、作りに来てあげるから」
「……え?」
「冷蔵庫の中、すっからかんだったし。たまには、ね。じゃあ、そろそろ大学行くから」
結愛はそれだけ言い残すと、足早に洗面所へと消えていった。
残された健介は、空になったマグカップを見つめながら、フッと口元を綻ばせた。
ぶっきらぼうで、素直じゃない。
けれど、その不器用な優しさが、どうしようもなく愛おしかった。
理由を言葉にはできないが、この上なく幸せな朝だった。
◇
「いってきます」
スーツに着替え、玄関に向かった健介は、足元を見て小さく息を呑んだ。
揃えて置いていた黒い革靴が、さらに丁寧に磨き上げられていたのだ。
(あいつ……どれだけ早起きしたんだ)
目頭が熱くなるのを感じながら、健介は靴に足を滑らせた。
足元から、ふわりと温かいものが全身を包み込むような気がした。
秋晴れの空の下、健介はいつもより少しだけ軽い足取りで会社へと向かった。
オフィスビルに到着し、フロアの端にある給湯室横の自動販売機に立ち寄る。
いつものように微糖の缶コーヒーのボタンを押し、ガコンと落ちてきた缶を取り出して振り返った。
「……何か、いいことあったの?」




