第29話:見えざる包囲網
「……何か、いいことあったの?」
オフィスビルの給湯室横。
自動販売機で微糖の缶コーヒーを買い、振り返った健介のすぐ背後に、大橋雅子が立っていた。
43歳。
営業第三課の『裏ボス』と囁かれる、肉感的で色気を放つ女性。
健介がこの部署に配属されて以来、彼女は常に自分のデスクから遠巻きに健介を観察しているだけで、自ら個人的な会話を振ってくることなど一度もなかった。
「おっと。……おはようございます、大橋さん。いいこと、ですか?」
健介は内心の驚きを微塵も顔に出さず、いつものように少し肩を丸めて、気の抜けた愛想笑いを浮かべた。
「ええ。なんだか、出社してきた時の足取りがすごく軽かったから」
雅子は面白そうに目を細め、ふっくらとした唇に妖艶な笑みを浮かべた。
タイトスカートから伸びる脚のラインと、ブラウス越しにも分かる豊かな胸の膨らみ。
大人の女だけが持つ、ねっとりとした甘い香水の匂いが、健介の鼻腔を微かにくすぐる。
「いつもはもっと、こう……世の中の理不尽と疲れを全部背負ったみたいな、哀愁漂うおじさんの背中なのに。今日は随分とウキウキしてたみたいじゃない?」
「ははっ、哀愁漂うおじさんとは手厳しいですね。でも、大橋さんの観察眼には恐れ入りますよ」
健介は缶コーヒーを軽く掲げ、本当に嬉しそうに目尻を下げた。
「実は、今年の春から一人暮らしを始めた娘が、昨日の夜から急に家に帰ってきましてね。今朝、僕が起きるより早く起きて、朝食を作って待っててくれたんですよ」
「あら。娘さんって、今大学生くらい?」
「ええ。最近はすっかり煙たがられていたんですが、トーストとハムエッグなんて焼いてくれちゃいましてね。……いやぁ、父親としては朝から感無量でして」
健介は照れくさそうに頭を掻いた。
それは演技でも何でもない、健介の100%本心からの喜びだった。
娘からの不器用な愛情にデレデレになっている、ただの冴えない父親の顔。
その健介の反応を見て、雅子はフッとつまらなそうに息を吐いた。
「なんだ。娘さんの朝ご飯ね」
「ええ。何か変でしたか?」
「ううん。……てっきり、会社で『若い誰か』と会えるから、あんなに嬉しそうにオフィスに向かってきたのかと思ったわ」
――ピタリ、と。
健介の心臓の鼓動が、一瞬だけ不自然なリズムを刻んだ。
『若い誰か』。
それは、25歳の佐々木澪のことか。
それとも、23歳の星野佳奈のことか。
雅子は、健介が第三課の若い女性と秘密裏に繋がっていることに、気づいているのだろうか。
いや、確証はないはずだ。
カマをかけているに過ぎない。
健介は瞬時に脳内で情報を処理し、動揺を隠してポカンとした顔を作った。
「若い誰か? ははっ、よしてください。僕みたいな『窓際のおじさん』が、そんな若い女の子と浮いた話なんてあるわけないじゃないですか」
「……そう? 意外と、そういうおじさんに惹かれる変わった子もいるかもしれないわよ?」
雅子は健介の顔をじっと覗き込んでいたが、やがて「ふふっ」と妖しく微笑んだ。
「まあ、そういうことにしておいてあげる。……せいぜい、足元をすくわれないように気をつけることね、沢村さん」
雅子はそれだけ言い残すと、ヒールを鳴らして優雅な足取りでオフィスへと戻っていった。
残された健介は、手元の缶コーヒーを見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
まるで、すべてを知っているかのような口ぶりと、あの最後の微笑み。
(……大橋雅子、か)
健介は自分の脇が甘くなっていたことを痛感した。
澪や佳奈との関係は、社内では隠し通しているつもりだった。
しかし、長年この部署で人間関係の機微を見つめてきた『裏ボス』の目は、健介の想像以上に鋭いのかもしれない。
これ以上、少しでも怪しい素振りを見せれば、彼女に決定的な証拠を掴まれる可能性がある。
◇
その日の夜。
22時。
健介は自宅マンションのリビングで、一人ソファに深く腰掛けていた。
静寂を取り戻した広い空間で、健介は手元のスマートフォンを操作していた。
画面には、2つのLINEのトークルームが並んでいる。
一つは澪。
もう一つは佳奈。
雅子のあの探るような発言。
彼女がどこまで知っているのか、あるいは誰かから何かを聞き出したのか。
それを確かめるためには、この二人に直接聞いてみるのが一番早かった。
健介はまず、澪のトークルームを開き、メッセージを打ち込んだ。
『今日もお疲れ様。そういえば、今日オフィスで大橋さんが君に何か話しかけてなかったかい?』
送信して数秒後、すぐに既読がつき、返信が届いた。
『お疲れ様、健ちゃん。ううん、大橋さんからは特に何も話しかけられてないよ。どうして?』
『っていうか、なんで急に大橋さんのこと気にしてるの?』
澪の返信のスピードと文面から、彼女が何も聞かれていないことは分かった。
しかし、同時に別の厄介な問題が浮上した。
澪の文面から、明らかに「不機嫌なオーラ」が漂い始めたのだ。
『まさか健ちゃん、大橋さんみたいな人が好みなの?』
『私には大人の余裕ぶってるくせに。大橋さんに言い寄られたら、フラフラついていっちゃうわけ?』
健介は頭を抱えた。
探りを入れたつもりが、完全に藪蛇だった。
澪の強烈なプライドと独占欲を刺激してしまったらしい。
『そんなわけないだろう。ただ、彼女が最近、僕たちの仕事の進め方を気にしているような素振りを見せたから、君にも何か探りを入れていないか心配になっただけだよ』
健介が必死に取り繕うように返信を打つ。
ここで変な誤解を与えてへそを曲げられるのは非常に面倒だ。
澪からの返信を待つ間に、健介はもう一つのトークルーム――佳奈の方を開き、同じようにメッセージを送った。
『佳奈、今日もお疲れ様。少し聞きたいんだけど、大橋さんから最近、何か探りを入れるようなことを聞かれたりしなかったかな?』
佳奈からも、すぐに返信が来た。
『お疲れ様です、沢村さん! 大橋さんからは、何も聞かれてないですよ?』
『あの……沢村さん。もしかして、大橋さんのこと……気になってるんですか……?』
(こっちもか……)
健介は天を仰いだ。
佳奈の文面には澪のような刺々しいプライドはないが、代わりに小動物が怯えるような、健気で切実な不安が滲み出ていた。
『大橋さんはすごく綺麗で、大人の女性で……私なんかより、ずっと沢村さんに似合ってると思いますけど……』
『でも、嫌です。沢村さんが他の人のところに行っちゃうなんて……』
画面越しに泣きそうな佳奈の顔が浮かび、健介は激しい罪悪感に襲われた。
『誤解だ、佳奈。僕は大橋さんにそういう気持ちはないよ。ただの業務上の確認だ。急にこんなことを聞いて、不安にさせて悪かったね』
佳奈に必死にフォローのメッセージを送りつつ、健介は並行して澪のトークルームにも取り繕った言葉を送信する。
46歳にもなって、夜な夜なスマートフォンの画面と睨み合いながら、二人の若い女性の機嫌を同時に取っている自分の姿が、ひどく滑稽に思えた。
(まったく……何やってるんだろうな)
健介はふぅと息を吐き出し、ローテーブルにあった缶ビールを煽った。
二人から直接事情を聞き出された形跡はない。
ただし、無意識の表情や仕草まで見られていないとは言い切れなかった。
二人とも、会社では親密さを隠してくれているつもりなのだが。
では、雅子のあの『若い誰か』というカマかけは、一体どこから来たものなのか。
単なる女の勘だろうか。
健介が思案に暮れていると、澪と佳奈、二人からほぼ同時に新たなメッセージが届いた。
健介の必死の弁明によって、二人の疑念とヤキモチはどうやら収まったらしかった。
『もう、健ちゃんがそんなに言うなら信じてあげる。……でも、大橋さんは何もないけど、実はちょっと気になってたことがあって』
澪からのメッセージ。
『沢村さん、疑ったりしてごめんなさい。……そういえば、大橋さんからは何も聞かれてないんですけど、別の人から少し探りを入れられたことがあって……』
佳奈からのメッセージ。
二人の文面が、奇妙な一致を見せている。
健介はビールの缶を置き、真剣な眼差しでスマートフォンの画面を見つめた。
『誰から探られたんだ?』
2つのトークルームに、それぞれ同じ質問を投げかける。
数秒後。
二人の女性から返ってきた答えは、全く同じ人物の名前だった。
『霧島課長だよ』
『霧島課長です』
――課長の霧島玲奈。
38歳にして営業第三課を率いる、『結果至上主義』の氷の女王。
健介は目を細め、ディスプレイの光に照らされた自分の顔を険しくした。
『今日、課長に呼ばれて、沢村さんの普段の様子について色々と聞かれたんです。変わった素振りはないか、とか……』
佳奈からの文面に、健介は目を走らせた。
『課長から探りが入ったの。沢村さんの仕事の進み具合とか、私たちに対する普段の態度とか』
澪も同じようなことを聞かれたらしい。
健介の脳内で、バラバラだったピースが急速に繋がり始めた。
玲奈が、二人に直接探りを入れている。
いや、この二人だけではないだろう。
おそらく第三課の全員に、健介の勤務態度や日頃の行いについてヒアリングを行っているのだ。
(なるほど。大橋さんが今朝、俺にカマをかけてきた理由も繋がったな)
おそらく、玲奈は雅子にも『沢村健介の普段の様子』についてヒアリングを行っているはずだ。
雅子は課長から健介について聞かれたことで、彼に裏の顔があるのではないかと面白がり、朝の給湯室で直接カマをかけてきたのだろう。
相手は、ただの同僚ではない。
この部署の全権を握り、部下の生殺与奪の権を持つ直属の上司だ。
健介は静まり返ったリビングで、深く息を吐き出し、ローテーブルの缶ビールを手に取った。
別に、この女性だらけの花形部署で天下を取ろうなどという野心は微塵もない。
ただ、波風を立てずに平穏な窓際ライフを過ごしたいだけなのだ。
もし素行調査が、排除の口実探しなのだとしたら。
ご苦労なことである。
(まったく……面倒なことになりそうだな)
健介はビールの残りを飲み干し、小さくため息をついた。
直属の上司が自分を警戒し、目を光らせている。
これ以上、澪や佳奈との間に少しでも怪しい素振りを見せれば、最悪の場合、彼女たちの社内での立場まで危うくしてしまう可能性がある。
玲奈の監視の目を、いかにしてのらりくらりと躱し続けるか。
健介は『冴えないおじさん』という分厚い着ぐるみの紐をもう一度きつく結び直しながら、やれやれと首を振るのだった。




