第30話:個人面談
少し時間を遡る。
健介が星野佳奈と佐々木澪から課長の聞き取りを知らされる、数日前のことだった。
「……現状の報告は、以上です。担当業務に関しては滞りなく進めております」
オフィスの隅にあるガラス張りのミーティングルーム。
健介はパイプ椅子に浅く腰掛け、目の前に座る課長の霧島玲奈に向けて、平坦な声で報告を終えた。
四半期ごとの『個人面談』が始まった日だった。
課長の玲奈が、第三課のメンバーと一対一で向き合い、今期の成果や進捗、今後の目標について確認する。
数字を出すまでの細かなやり方は、普段どおり各自に任せていた。
しかし、健介の面談は、始まってからわずか5分しか経過していなかった。
「そうですか。分かりました」
玲奈は手元のタブレットに視線を落としたまま、冷淡に頷いた。
「沢村さんには、引き続き現在の担当業務をお願いします。……何か、業務上で困っていることや、チームへの要望はありますか?」
「いえ、特には。皆さんに良くしていただいておりますので」
健介がいつものように気の抜けた愛想笑いを浮かべると、玲奈は「そうですか」と短く返し、タブレットを閉じた。
「では、面談は以上です。お疲れ様でした」
「はい、失礼いたします」
健介はそそくさと立ち上がり、ミーティングルームを後にした。
(……相変わらず、煙たがられているな)
自席に戻りながら、健介は内心で苦笑した。
新しいメンバーに対しては、普通ならもう少し深掘りして話を聞くものだ。
それがたった5分で終了した。
健介には、相変わらず期待も関心も向けられていないように思えた。
だが、健介にとってはそれが最も好都合だった。
『窓際族』としての偽装は、まだ機能しているらしい。
北辰ドラッグへの紹介に関わったことは知られていても、資料や交渉を裏で支えた全容までは悟られていないはずだ。
(このまま、誰の視界にも入らない空気として過ごせれば文句はないさ)
健介は自席に座り、ノートパソコンのモニターを眺めながら、平和な午後の業務へと戻っていった。
◇
だが、健介のその認識は、大きな間違いだった。
彼が「自分は煙たがられて、放置されている」と思っていたその裏側で。
――同じ日の午後。
「……私の今期の数字は、手元の資料にある通りです。既存クライアントからの追加発注も順調に推移していますし、特に大きな懸念事項はありません」
ミーティングルームで、大橋雅子は足を組み替えながら、目の前の玲奈に向かって淡々と報告を行っていた。
タイトスカートから伸びる艶かしい脚と、ブラウスの胸元から覗く大人の色気。
43歳という年齢を感じさせない、余裕に満ちた佇まい。
健介の面談が5分で終わったのに対し、雅子との仕事の話には10分ほどが費やされていた。
しかし、面談はそれでは終わらなかった。
「ええ、確認しました。大橋さんの数字はいつも安定していて、本当に助かります。……今期も、この調子で手堅くお願いしますね」
「分かりました」
玲奈は、雅子の仕事に対してそれ以上口を出すことはなかった。
年上のベテランであり、派手な新規開拓こそしないものの、確実に目標数字を達成し続ける彼女の手腕を、玲奈は高く評価し、ある意味で『放任』していた。
『結果至上主義』の玲奈にとって、数字を出す人間はあれこれと管理する必要がないのだ。
(さて……ここからが本題ね)
雅子は内心で小さくため息をつき、玲奈の次の言葉を待った。
案の定、玲奈はタブレットから顔を上げ、少しだけ声のトーンを落とした。
「……それで、大橋さん。沢村さんの様子は、最近どうですか?」
ここ最近の、玲奈の口癖だった。
健介が第三課に配属されてからというもの、玲奈は雅子と二人きりになるたびに、必ずと言っていいほど健介の話題を振ってくるようになった。
「どう、とは?」
雅子がとぼけて聞き返すと、玲奈は探るような視線を向けてきた。
「何か変わった素振りはないか、ということです。仕事の進め方や、他のメンバーとのやり取りで、気になる点はありませんか?」
「特にありませんよ。任された担当企業を淡々とこなしているだけです。他の子たちとも、必要最低限の会話しかしていませんしね」
雅子は事実だけを伝えた。
実際、雅子の席から見える健介は、一日中ノートパソコンに向かって気の抜けた顔でタイピングをしているだけだ。
「そうですか……」
玲奈は不満そうに眉を寄せた。
「課長、どうしてそこまで沢村さんのことを気にするんですか? いくら左遷されて来たからって、ただのおじさんじゃないですか」
雅子が尋ねると、玲奈はいつものように冷たい顔で答えた。
「そう、彼は、左遷されてきた人間です。不満を抱えてサボっていないか、あるいはチームの空気を乱すような真似をしていないか、課長として確認しておく義務があります」
もっともらしい理由だが、雅子にはそれが嘘だと分かっていた。
本当にサボっていないか確認するだけなら、本人の面談を5分で終わらせるはずがない。
もっと直接的に問い詰めるなり、日報を細かくチェックさせれば済む話だ。
それに、雅子は気づいていた。
玲奈が探りを入れているのは、自分に対してだけではないということに。
新人の佳奈や、エースの澪。
他のメンバーをミーティングルームに呼んだ際にも、玲奈は巧妙に『沢村健介の普段の様子』について聞き出そうとしていた。
雅子には、その聞き取りが通常の業務確認だけではないように思えていた。
「大橋さん。……あなたには、彼をもっと徹底的に観察してもらいたいんです」
玲奈の言葉に、雅子は思わず苦笑しそうになった。
(あなたには、ね……)
社内では、雅子のことを営業第三課の『裏ボス』だと囁く人間が多い。
氷の女王である玲奈でさえ、雅子には手出しができない。
彼女が裏で第三課の人間関係を牛耳っているのだと。
だが、雅子本人には、そんな自覚など微塵もなかった。
彼女はただ、年長者として落ち着いて仕事をしているだけだ。
安定した数字を出しているから、上司から怒られたり、細かく指導されたりすることがない。
それが周囲の目には「課長でも口出しできないアンタッチャブルな存在」として曲解され、尾鰭がついて噂が広がってしまったのだ。
以前は、飲み会の席などで「『裏ボス』なんてやめてよ」と否定していたが、誰も本気で信じてくれなかった。
いちいち訂正するのも面倒になり、適当に笑って流しているうちに、そのポジションが完全に固定化してしまったというわけだ。
玲奈も、当然その事実を知っている。
雅子が裏で権力など握っておらず、ただの『仕事のできる年上の部下』であることを理解した上で、表向きは彼女を立てて「先輩」として接しているのだ。
しかし。
「これは、課長としての命令です」
玲奈は、タブレットの上に組んだ手に力を込め、冷徹な瞳で雅子を射抜いた。
「彼が誰と接触し、どんなPC操作をしているか。些細なことでも構いません。彼に不審な動きがあれば、すぐに私に報告してください。……いいですね?」
普段は雅子の自主性に任せ、決して「命令」などという言葉を使わない玲奈が、ここまで強く出てきた。
二人きりの密室とはいえ、これは本当に特別なことだった。
雅子は玲奈のただならぬ執念を感じ取り、姿勢を正した。
「……分かりました。ですが課長、監視するにしても、理由が分からないと動きようがありません。彼はただの社員なんですよね? なぜそこまで、彼を警戒するんですか?」
雅子は真っ直ぐに玲奈の目を見つめ、カマをかけた。
もし健介が、会社の機密情報を持ち出そうとしているスパイだとか、あるいは過去に重大なコンプライアンス違反を犯した危険人物だというなら、話は別だ。
しかし、玲奈は口を固く結び、決して内情を明かそうとはしなかった。
「それは言えません。……ただ、彼が『ただの社員』ではない可能性がある、とだけ言っておきます。とにかく、私の指示通りに動いてください」
これ以上の追及は無駄だ。
雅子は「……承知いたしました」とだけ答え、深く息を吐き出した。
「面談は以上です。お疲れ様でした」
「失礼します」
ミーティングルームを出て、自席へと戻る雅子の胸中には、深い疑念が渦巻いていた。
(……おかしいわね)
玲奈は口が堅い。
自分が確証を持っていない推測の段階で、他人に情報を漏らすような女ではない。
だとしたら、なぜ玲奈はあれほどまでに健介を警戒し、異常なまでの監視網を敷こうとしているのか。
いくら左遷されてきたとはいえ、健介の普段の様子を見る限り、彼が危険人物であるようには到底見えない。
むしろ、彼は誰よりも波風を立てず、この女だらけの殺伐とした部署で、気配を消して生きようとしているように見える。
(課長の真意……そして、沢村さんの本当の顔。これは、少し本腰を入れて調べてみる必要がありそうね)
雅子は、年上の部下として玲奈の命令には従うつもりだ。
だが、言われた通りに監視するだけではない。
雅子自身が、健介という男の『底』を探ってみたいという、強い好奇心に駆られていた。
自席に座り、柚木結衣の席の向こうにいる健介をチラリと見る。
少し猫背で、気の抜けたような表情。
だが、雅子にとって、彼はただの『冴えないおじさん』ではなかった。
他の若い社員たちは知らないだろう。
彼のあの丸められた背中の中に、かつてどれほどの熱意と、圧倒的な実力が秘められていたかを。
(……沢村さん。あなたはやっぱり、あの頃と何も変わっていないのね)
雅子の脳裏に、遠い昔の記憶が鮮やかに蘇る。
まだ彼女が20代だった頃。
この会社で、誰よりも輝き、誰よりも前を走っていた一人の男の姿が。
◇
時間は、健介が二人から課長の聞き取りを知らされた、火曜日の夜へ戻る。
雅子は自宅で、今朝の給湯室での会話を思い返していた。
若い誰かと会えるから嬉しそうなのかとカマをかけた時、健介はとぼけた顔で躱してみせた。
だが、雅子は感じていた。
(昔からそう。あなたはいつも……)
雅子はふっくらとした唇に、誰にも見えないように妖艶な笑みを浮かべた。
胸の奥にずっと秘めていた、セピア色に褪せかけた『過去の想い出』。
それが今、18年という時を経て、再び鮮やかな熱を帯びて蘇ろうとしていた。




