第31話:販売部のエース
翌朝の営業第三課。
大橋雅子は自席でノートパソコンのモニターを眺めながら、不意に視線を上げた。
柚木結衣の席の向こうには、いつものように少し背中を丸め、気の抜けた顔でタイピングをしている健介の姿があった。
微糖の缶コーヒーを啜り、「いやぁ、肩が凝るねぇ」と誰に言うでもなく独り言をこぼす。
その声を聞いて、一部の社員が「またサボってる」とでも言いたげな視線を送っていた。
だが、雅子の目には、その丸まった背中が全く違って見えていた。
(……あの人が昔、どれだけ凄かったか。みんなが知っているわけじゃないものね)
雅子はふっくらとした唇に、誰にも見えないように微かな笑みを浮かべた。
視界のピントが現在のオフィスからぼやけ、セピア色に褪せかけた『遠い日の記憶』へとゆっくりと遡っていくのを感じながら。
◇
今から18年前。
雅子がまだ25歳だった頃。
現在の営業本部、営業第一〜第三課などという細分化された部署は存在せず、すべてが『販売部』という一つの巨大な部署として括られていた時代だ。
「おい! 今月の数字、全然足りてねえぞ! どうすんだ!」
「すみません! 今から飛び込みでもう1件回ってきます!」
当時の販売部のフロアは、今の静かなオフィスとは全くの別世界だった。
朝から晩まで怒号が飛び交い、電話のベルが鳴り止まない。
デスクの上には書類が山積みになり、フロアのあちこちにある灰皿からは、紫色のタバコの煙がもうもうと立ち上っていた。
当時の営業マンの至上命題は、何が何でも売上を上げること。
ただそれだけだ。
ノルマを達成するためなら、多少のグレーゾーンに踏み込むことなど当たり前だった。
無理な押し込み営業、クライアントへの過剰な接待、時には騙しともいえる口八丁手八丁の交渉。
トラブルが起きれば、担当の営業マンが平謝りして相手を丸め込む。
ひどい時には、自腹を切って補填してでも数字を作る人間すらいたほどだ。
内部統制やコンプライアンス意識などというものは、今と比較にならないほどに低く、当然ながらハラスメントの基準も信じられないほどにゆるゆるだった。
「おっ、雅子ちゃん。今日も可愛いねえ。今夜、俺の接待に付き合ってくれない? お酌係としてさ」
「あ……すみません、今日はちょっと残業が……」
「なんだよ、つれないなぁ。そんなんじゃ営業として可愛がられないぞ?」
すれ違いざまに肩を触られたり、飲み会で執拗にお酒を強要されたりすることは日常茶飯事。
男社会の濃厚な体育会系のノリの中で、女性の総合職は「アシスタント」程度にしか見られていない節があった。
雅子もそのたびに何度も嫌な思いをし、悔し涙をこらえたことも一度や二度ではなかった。
だが、今の時代のように「仕事が合わなければすぐに転職する」という選択肢が容易に取れるわけでもない。
せっかく入った大企業だ。
ここで生きていくためには、歯を食いしばって耐えるしかなかったのだ。
そんな男たちの怒号とタバコの煙が充満する販売部の中で、一人だけ、全く違う空気を纏っている男がいた。
当時の販売部の絶対的エース、沢村健介だ。
現在の気の抜けた中年男の姿からは、想像もつかないだろう。
当時28歳だった健介は、常にピンと背筋を伸ばし、仕立ての良いスーツを隙なく着こなす、まるで研ぎ澄まされたナイフのような男だった。
入社して翌年には新人賞を獲得し、その後も社長賞をはじめとする数々の社内表彰を総なめ。
彼が毎月叩き出す数字は、他のベテラン営業マンの追随を一切許さなかった。
怒号を上げることもなく、泥臭い押し込み営業をすることもない。
ただ圧倒的な論理とスマートな交渉術で、次々と大口の契約を落としていく。
若くして販売部のトップに君臨し続ける彼に対して、上司ですら安易に口出しはできなかった。
当時の雅子にとって、健介という男は、まさしく「別世界の人間」だった。
いつも涼しい顔で、隙のない仕事をする彼。
近づきがたく、少し怖いという印象すら持っていた。
彼と個人的に言葉を交わしたことなど、挨拶程度しかなかった。
雅子はただ、遠くからその眩しい背中を眺めながら、自分も早く一人前の営業になろうと、日々の泥臭い仕事に必死に食らいついていた。
そんなある日、事件は起きた。
25歳になった雅子は、ようやく仕事の要領も掴み始め、上司から中堅クラスの取引先をいくつか任されるようになっていた。
任された責任感から気負いすぎていたのかもしれない。
あるいは、連日の深夜残業で疲労がピークに達していたのかもしれない。
雅子は、痛恨のミスを犯してしまった。
取引先の購買部長との、重要な商談の約束を「すっかり忘れてすっぽかしてしまった」のだ。
新人の星野佳奈が期日を勘違いしていたのと同じ、営業としてはあり得ない、最も初歩的で致命的なミスだった。
「やばい……っ」
手元の手帳の書き込みに気づいた時、すでに約束の時間を2時間も過ぎていた。
雅子の顔から一気に血の気が引いた。
相手は、気難しくて有名な部長だ。
すっぽかしたとなれば、取引停止は免れない。
気が動転した雅子は、すぐに同じチームの先輩である田柄という男性社員の元へと駆け込んだ。
「た、田柄先輩! どうしよう、私、株式会社ヤマシタの工藤部長とのアポ、完全に忘れてて……っ! 今からすぐに向かって土下座してきます!」
半泣きで相談する雅子に対し、田柄は面倒くさそうにタバコの煙を吐き出しながら言った。
「馬鹿だなあ、お前。今から行って土下座したって、相手はすでに激怒してんだから火に油注ぐだけだろ。取引停止にでもなったら、俺たちのチームの連帯責任になるんだぞ」
「で、でも、どうすれば……!」
「うまく誤魔化せばいいんだよ。そういうのは営業の基本だろ」
田柄はニヤリと笑い、とんでもない悪知恵を授けてきた。
「こう言え。『別の取引先で緊急のトラブル応援が発生してしまい、どうしても抜けられず、連絡すらできない状況だった』ってな。そうすれば、向こうも『まあ、緊急のトラブルなら仕方ないか』って少しは怒りが収まるだろ」
「えっ……でも、嘘をつくなんて……」
「馬鹿だな。バカ正直に『忘れました』って言って取引停止になるよりマシだろ。いいから、俺の言う通りにしろ。お前のミスをカバーしてやってんだからな」
田柄の強い言葉に押され、思考力が低下していた雅子は、その提案にすがりついてしまった。
雅子は震える手でヤマシタの工藤部長に電話をかけ、田柄に言われた通りの嘘をついた。
「大変申し訳ありません! 実は、一新フードサービス様の納品先で大規模なトラブルが発生し、急遽その応援に駆り出されてしまいまして……。対応に追われ、ご連絡すらできない状態でした」
電話口の工藤部長は最初は不機嫌だったが、雅子の必死の嘘の謝罪に、最後は「まあ、トラブルなら仕方ない。次は気をつけなさい」と、なんとか矛を収めてくれたのだ。
雅子は胸を撫で下ろした。
嘘をついた罪悪感はあったが、これで取引停止は免れた。
田柄の言う通りに丸め込めたのだと。
――しかし。
その甘い考えは、わずか5日後に最悪の形で粉砕されることになる。
「おい、大橋!! お前、ちょっとこっち来い!!」
フロアに響き渡る上司の怒声。
ビクッと肩を震わせた雅子が駆け寄ると、上司は顔を真っ赤にして怒り狂っていた。
「お前、ヤマシタの工藤部長に一体何て言い訳したんだ!!」
「え……あの、他の取引先のトラブル対応で遅れたと……」
「ふざけるな!!」
バンッ! と上司が机を叩く。
「工藤部長が、たまたま一新フードサービスの担当者とゴルフで一緒になったらしい。そこで『おたくのトラブル対応でうちの担当がアポに遅れたらしいですね』って世間話をしたんだとよ。……結果はどうだ? 『そんなトラブルは一切起きていない』って、あっさりバレてんだよ!!」
「――っ」
雅子の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
頭の先から足の先まで、冷水に浸かったような強烈な悪寒が走る。
「工藤部長は、ミスを嘘で塗り固めるようなふざけた営業を寄越す会社とは二度と取引しないと大激怒だ! 契約はすべて白紙! 一体どう責任取るつもりだ、この大バカ野郎が!!」
怒号が、灰色に淀んだフロアに響き渡る。
周囲の社員たちが、一斉に雅子に冷ややかな視線を向けた。
「ち、違うんです……! 私は、田柄先輩に相談して……」
雅子は藁にもすがる思いで、あの嘘を指示した田柄の方を見た。
しかし。
「は? 俺のせいにするなよ。俺は『誠心誠意謝れ』って言っただけだぞ。嘘をついたのはお前が勝手にやったことだろ。……まったく、最近の女はミスをすぐ他人のせいにするから困るよな」
田柄は、冷酷な目で雅子を見下ろし、あっさりと手のひらを返したのだ。
「え……うそ……田柄先輩、あの時……っ」
「いい加減にしろ! 言い訳はいいから、お前一人でヤマシタに行って、取引が継続になるまで土下座してこい!!」
上司の怒鳴り声に、雅子の目の前が真っ暗になった。
完全に、終わった。
自分の不注意でミスをし、保身のために嘘をつき、最後は頼りにしていた田柄に見捨てられた。
誰も助けてくれない。
誰も信じてくれない。
取引先に一人で乗り込んで土下座したところで、一度嘘をついて激怒させた相手が許してくれるわけがない。
契約は切れ、会社に莫大な損害を与え、私はこの会社をクビになる。
(……もう、だめだ。逃げたい。消えてしまいたい)
雅子は暗闇の中で、そう思い詰めていた。
――その雅子を救ったのが、健介だった。




