第32話:青葉の沢村
カーテンを閉め切った薄暗いワンルームの部屋で、大橋雅子はベッドに丸まり、虚ろな目で天井を見つめていた。
あの日、ヤマシタの工藤部長を激怒させ、会社に莫大な損害を与えたと上司からフロア中に響き渡る声で怒鳴られてから。
雅子はショックのあまり出社することができず、すでに3日間も部屋で寝込んでいた。
食事も喉を通らない。
携帯電話の電源は切ったままだ。
もう、会社には行けない。
保身のために嘘をつき、信頼していた先輩の田柄にあっさりと切り捨てられた。
あの冷酷な男社会のフロアに戻ったところで、私に居場所などない。
このまま退職届を郵送して辞めよう。
雅子がそう固く決意し、重い身体を起こそうとした、その時だった。
ジリリリリッ!
部屋の固定電話がけたたましく鳴り響いた。
ビクッと肩を震わせ、無視しようとしたが、電話は何度も何度も執拗に鳴り続ける。
観念して受話器を取ると、電話の主は、販売部の部長だった。
「……あー、大橋か」
「は、はい……」
また怒鳴られる。
そう身構えて息を詰めた雅子だったが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、ひどくバツの悪そうな、歯切れの悪い声だった。
「身体の具合はどうだ。……その、ヤマシタとの取引中止の件だがな。なくなった。だから、明日から出社しろ」
「え……?」
「それと……あの日は俺も少しカッとなって、お前の言い分も聞かずに一方的に怒鳴って悪かった。すまなかったな」
あの絶対的な権力者である部長からの、信じられない謝罪の言葉。
雅子はただ呆然としていた。
何が何だか分からないまま、「はい、明日伺います」とだけ返事をして電話を切った。
◇
翌日。
重い足取りで販売部のフロアに出社した雅子を待っていたのは、さらなる驚きだった。
「大橋、よく来てくれた」
すぐに応接室へと呼び出された雅子の前には、部長と直属の課長、そして――あの嘘を指示した先輩の田柄が、青ざめた顔で座っていた。
「田柄。大橋に言うことがあるだろう」
部長に促され、田柄は屈辱に顔を歪めながら、雅子に向かって深く頭を下げた。
「……大橋、さん。君に嘘の指示を出した挙句、責任を押し付けて、すまなかった」
「田柄、先輩……?」
「田柄はこの件の責任を取り、地方の営業所へ左遷させることが決まった。大橋、お前にはヤマシタの担当として、もう一度頑張ってもらいたい。先方からも、『大橋さんにもう一度担当してほしい』と直接指名が入っているんだ」
部長の言葉に、雅子は自分の耳を疑った。
激怒して取引を白紙にしたはずの工藤部長が、どうして私を指名してくるのか。
混乱する雅子を残し、田柄は逃げるように応接室を退出していった。
「……部長。一体、何があったんですか?」
雅子が恐る恐る尋ねると、部長は深く息を吐き出し、信じられない真実を語り始めた。
「……沢村だよ。沢村健介だ」
「沢村、さん……?」
「ああ。あいつと田柄は、同期なんだよ。一昨日、田柄が給湯室で別の同期に『若手の大橋に責任を被せてうまく逃げ切った』と笑いながら話しているのを、たまたま沢村が聞きつけてな。……あいつ、烈火のごとく激怒して、田柄の胸倉を掴んで壁に押し付けたらしい」
雅子は息を呑んだ。
いつも涼しい顔で、スマートに仕事をこなす近寄りがたいエースの健介が、胸倉を掴んで激怒した。
その光景が全く想像できなかった。
「沢村はそのまま俺たちのところへ来て、田柄の卑劣な行為をすべて報告した。最初、会社としてはヤマシタとの関係修復は不可能だと判断し、田柄と大橋を処分してこの件を終わらせるつもりだったんだ。だが、沢村がそれに猛反発してな」
『そんなトカゲの尻尾切りをしていては、この部の今後のためになりません。それに、真面目にやっている若手を切り捨てるなんて、絶対に間違っている。ヤマシタへは私が謝罪に行きます』
部長は、当時の健介の気迫を思い出すように目を細めた。
「そしてあいつは、本当に一人でヤマシタへ乗り込み……どうやったのかは知らないが、取引停止の撤回と、お前の担当復帰という確約まで取り付けて帰ってきたんだ。……お前は、沢村に救われたんだよ」
◇
なぜ、全く関係のない健介がそこまでしてくれたのか。
そして、どうやってあの激怒していた工藤部長の怒りを鎮めたのか。
雅子はその真相を知らないまま、ただただがむしゃらに働き、ヤマシタの担当として復帰した。
そして、その答えを知ったのは、それから半年後のことだった。
ヤマシタの工藤部長との会食の席。
すっかり関係も修復し、和やかな空気が流れる中で、雅子は思い切って尋ねてみたのだ。
「部長……あの時、弊社の沢村は一体、どうやって部長を説得したんでしょうか」
工藤部長は、お猪口の日本酒をグイッと飲み干すと、少し懐かしそうに笑った。
「説得なんて、大層なものじゃないよ。ただの『謝罪』だ」
「え……?」
「あいつは、何の資料も持たず、何の代替え案も持たずに一人でやってきた。そして、君がアポを忘れたこと、先輩からの間違ったアドバイスで君が冷静さを失い、不誠実な嘘をついてしまったこと。その経緯を隠すことなくすべて誠実に話し、ただただ、頭を下げたんだ」
雅子は言葉を失った。
てっきり、彼の持ち味である圧倒的な論理や、自社の利益を削るような特大の代替えプランを提示して、強引に納得させたのだと思っていたのだ。
「あいつは自分の担当でもないのに、『同期の不始末で、真面目な後輩が会社を辞めようとしている。何より、この件でお互いの会社が利益を失うようなデメリットだけは避けてほしい。どうか、もう一度だけ大橋にチャンスをやってくれないか』と、必死に訴えてきたよ」
工藤部長は、ふう、と息を吐いた。
「もし、あれが他の営業マンだったら、私は話を聞かなかっただろう。……だが、『青葉の沢村』がそこまで言うなら、信じてみようと思ったんだ」
「青葉の沢村……?」
「君は同じ会社だから気づいていないかもしれないが、彼は、我々他社の人間や同業の営業マンの間では有名だったんだよ」
工藤部長の瞳に、深い敬意の色が浮かぶ。
「徹底したマーケティングによる事前のリサーチ。お互いの会社が最も良いビジネスができる、緻密で誠実な企画。そして何より、一度口にした約束は這ってでも絶対に守る。……彼は決して奇抜なことはせず、ただ誰よりも真摯に相手と向き合う『王道』とも呼べる営業で、担当したどの取引先からも絶大な信頼を得ていたんだよ」
雅子の胸が、強く、激しく打たれた。
当時の販売部といえば、グレーゾーンに踏み込み、過剰な接待や強引な押し込み営業で数字を作るのが当たり前の時代だった。
雅子は、若くしてトップに君臨する彼もまた、裏ではそういう強引で汚い手法を使って成り上がってきたのだとばかり思っていた。
しかし、現実は全く逆だったのだ。
スマートに見えて、実は誰よりも泥臭く、誰よりも丁寧で、圧倒的に真っ当な仕事をしているのが健介という男だった。
それを、身内ではなく、他ならぬ取引先の相手が証明してくれたのだ。
◇
その事実を知った翌日。
雅子はたまらず、お礼を兼ねた挨拶をするため、健介のいる課のフロアへと向かった。
ちょうど会議室から出てきた健介を見つけ、雅子は深く頭を下げた。
「沢村さん! あの……遅くなりましたけど、ヤマシタの件、本当にありがとうございました。私、沢村さんがどうして助けてくれたのか、昨日ヤマシタの工藤部長から聞いて……っ」
感極まって涙ぐむ雅子に対し、健介は驚いたように目を丸くし、やがて、ひどく申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。
「いや、本当に悪かったね、大橋さん」
「え……?」
「うちの同期が、君にひどい迷惑をかけた。嫌な思いをさせて、本当にすまなかった。……だから、君が僕に礼を言う必要なんて、全くないんだよ」
健介は、雅子の感謝を真っ向から受け止めることはせず、ただ同期の不始末を詫びた。
自分が恩人になることなど微塵も望んでいない、あまりにもスマートで、優しすぎる態度。
「じゃあ、これから会議があるから。ヤマシタの担当、頑張ってね」
健介は風のように、颯爽と歩き去っていった。
取り残された雅子は、遠ざかる彼の広い背中を、ただぼうっと見つめていた。
(……なんて、かっこいいの)
それ以来、雅子にとって健介は、「怖いエース」ではなく、「憧れの先輩」となった。
その強烈な憧れが、『恋心』へと変わるのに、さほど時間はかからなかった。
いつか、自分も彼のように真っ直ぐで強い営業になりたい。
そして、少しでも彼に近づきたい。
そして、いつかはこの想いを。
その一心で、雅子は男社会の販売部の中で必死に食らいつき、実力をつけていった。
だが――雅子のその初恋は、あまりにもあっけなく終わりを告げた。
恋心を自覚してからすぐのことだった。
健介が結婚すると知ったのだ。
雅子は、自分も彼を好きだったとは言えなかった。
あの時は、ヤマシタのミスで退社しようとした時よりも、ずっと深く落ち込んだ。
会社のトイレで、声を殺して何度も泣いた。
それでも、雅子は会社を辞めなかった。
彼に助けてもらったこの営業という仕事を、自分の失恋なんかで投げ出すわけにはいかない。
彼が向けてくれた想いを、無駄にはできない。
その強い決意が、男だらけの競争社会を生き抜き、現在の営業第三課の『裏ボス』という盤石のポジションを得ることに繋がっているのだ。
◇
――視界のピントが、現在のオフィスへとゆっくりと戻ってくる。
雅子はふうっと小さく息を吐き出し、柚木結衣の席の向こうへと視線を向けた。
そこには、かつての研ぎ澄まされたナイフのようなオーラは、もうどこにもなかった。
少し背中を丸めて「いやぁ、肩が凝るねぇ」と独り言をこぼしている、『冴えないおじさん』の姿があるだけだ。
(……沢村さん。あなたは本当に、ずるい人ね)
現在の健介は、わざと無能を演じている。
新人の星野佳奈が、この数ヶ月で見違えるように成長し、東都リテールという大金星を上げたこと。
そして、エースの佐々木澪が、帝王フーズとの商談で絶望的なミスから奇跡の生還を果たしたこと。
その裏にいるのは、かつて自分を救ってくれたあの『泥臭くて、誰よりも誠実なエース』ではないか。
昔と全く変わらない手つきで、彼女たちを救い出しているのではないか。
雅子は、確信に近い思いを抱いていた。
課長の霧島玲奈からは、彼の監視を命じられている。
部下として、表向きはその命令に従うつもりだ。
だが、もし課長の真意が、彼をこの部署から追い出すための口実探しなのだとしたら。
(……その時は、私が全力で阻止するわ)
雅子はタイトスカートから伸びる艶めかしい脚を組み替え、ふっくらとした唇に、大人の女の余裕を孕んだ笑みを浮かべた。
彼への想いは、18年前からずっと雅子の胸の奥で静かに燃え続けているのだ。
(あの頃は、助けられてばかりだったけど。……今度は、私があなたを助けてあげるから)




