↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46歳のおじさん、左遷後に人生最大のモテ期到来  作者: とん汁ごはん
第3章:大橋雅子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/53

第33話:弱点の作り方

毎日というわけではないが、課長の霧島玲奈は巧妙にタイミングを見計らい、部下たちに健介についてのヒアリングを行っていた。


その日の午後、健介が外回りに出かけたのを確認すると、玲奈は自席を立った。


島の一番奥でキーボードを叩いている藤本雫のもとへと歩み寄る。


「藤本さん。今ちょっといいかしら」


「はい。なんでしょうか、課長」


数字の管理とデータ分析を担う雫は、モニターから視線を外さずに答えた。


「沢村さんの担当している企業についてだけど。今月の売上の進捗はどうなっている?」


「沢村さんですか。……そうですね、まあまあの進捗です。どの企業も、前年比で101%から102%前後を推移していますので、特に問題になるようなマイナスは出ていません」


雫は淡々と事実だけを述べた。


玲奈は「……そう。分かったわ」とだけ言い残し、ヒールの音を響かせて自席へと戻っていった。


少し離れた自分のデスクでそのやり取りを聞いていた大橋雅子は、手元の共有データに視線を落としながら、内心で小さく息を吐いた。


(まあまあ、ね。……でも、この担当先で前年を上回るのが、どれだけ大変なことか)


雅子はノートパソコンの画面に表示された、健介の担当企業のリストを見つめた。


彼が第三課に配属された際、玲奈からあからさまに割り当てられたのは、お世辞にも伸びゆくような優良企業ではなかった。


中堅から下位。


業界全体の縮小のあおりをもろに受けており、どう足掻いても売上が落ちていくのが目に見えている企業。


それに加えて、先方の担当者が理不尽なクレーマー気質であったり、手間の割に利益率が絶望的に低かったりする。


いわゆる『ハズレ案件』ばかりだったのだ。


普通の営業マンが引き継げば、間違いなく前年割れを起こし、「業界全体の不況ですから仕方ありません」と言い訳をするのが関の山の企業群。


しかし、健介はそのすべてにおいて、僅か数パーセントとはいえ、確実に前年の数字を上回る結果を出しているのだ。


これは、派手な新規開拓や大型案件の獲得よりも、ある意味でずっと恐ろしいことだった。


沈みゆく泥船の穴を一人で塞ぎながら、決して沈没させることなく、涼しい顔をして前へ進めているようなものだ。


彼がどれだけ綿密な事前準備をし、どれだけ泥臭く先方に足を運び、相手の懐に入り込んで信頼を勝ち得ているか。


健介は、それをただの「ルーチンワーク」のように、息を吸うように当たり前のこととして「普通」にこなしている。


その「普通」がどれほど異常で、どれほど大変なことか。


長年営業畑を歩いてきた雅子には、痛いほどよくわかっていた。


結果を何より重んじる玲奈も、この数字をどう見ているのだろう。



◇



また別の日のこと。


今度は、事務職の柚木結衣が給湯室でコーヒーを淹れているところへ、玲奈が声をかけていた。


雅子は死角になる廊下の陰で、たまたまその会話を耳にした。


「柚木さん。沢村さんから回ってくる書類や経費精算で、何かおかしいところはない? 適切に申請は出ているかしら」


玲奈の声は、どこか切羽詰まったような響きを帯びていた。


(……粗探しをしている)


しかし、結衣はカラカラと明るく笑って答えた。


「沢村さんですか? いえいえ、おかしいところなんて全然ないですよ。むしろ完璧です」


「……完璧?」


「はい。あの人、パソコンのキーを叩くのは人差し指でポチポチ遅いのに、書類は結構早めに出してくれるんです。不備や抜け漏れもほとんどなくて。あんなおじさんにしては珍しいですよね」


結衣はポットのお湯を注ぎながら、楽しそうに言葉を続けた。


「前の部署のおじさんたちなんて、社内システムが分からないとか言って、自分で出来ないのを『柚木ちゃん、これ適当にやっといてよ』って私にやらせようとしてるのが見え見えだったんですよ。でも、沢村さんはそういう丸投げみたいなこと、一切しないんです。分からないところはちゃんと自分でマニュアル読んで調べてるみたいだし。すごく助かってますよ」


事務担当の結衣からの、思わぬ高評価。


玲奈は「そう……ありがとう」と歯切れ悪く立ち去っていった。


期待するような答えではなかったのだろう。


廊下の陰で聞いていた雅子は、ふふっと小さく笑みをこぼした。


玲奈はおそらく、他のメンバーにも同じように探りを入れているのだろう。


星野佳奈や佐々木澪にも、彼の勤務態度について聞いて回っていることは、雅子もすでに感づいていた。


だが、何一つとして、彼のミスになるようなこと、あるいは彼を会社から追い出すための正当な理由は出てこないのだ。


(……当然よ。あの人は昔から、そういう地味な仕事ほど絶対に手を抜かない人なんだから)


実は雅子自身も、健介がこの部署に来てから、彼に隙や弱点のようなものがないか、密かに観察を続けていたのだ。


それは、彼を追い落とすためではない。


もし玲奈よりも先に彼の弱点を見つけることができれば、こっそりと警告し、彼を守ることができると思っていたからだ。


彼が再び誰かに陥れられたり、不当な扱いを受けたりする前に、今度は自分が助けてあげたい。


そんな強い決意があった。


しかし、結果は玲奈と同じだった。


健介に、隙は見つからなかった。


遅刻もしない。


経費の使い込みもない。


顧客からのクレームもないし、社内の人間関係で波風を立てることもない。


ただひたすらに気配を消し、与えられた仕事を誰よりも正確に、確実にこなすだけの「正確な歯車」としてそこに存在していた。



◇



そして、ある日の夕方のことだった。


雅子は取引先での打ち合わせを終え、オフィスへと戻ってきた。


時刻は19時を回っており、すでに定時を過ぎている。


オフィスは照明が半分落とされ、若手社員たちはほとんど退社したあとだった。


静まり返ったフロアを歩き、自分のデスクまで来た雅子は、不意に足を止めた。


オフィスの奥、窓際のブラインドの前に、玲奈が一人で立っていた。


スマートフォンを耳に当て、誰かと電話をしている。


「……はい。ええ、承知しております」


玲奈の声は低く、そしていつになく緊張を孕んでいた。


普段、部下に対しては氷のように冷たく、絶対的な自信を持って接している彼女が、明らかに下手に出て、相手の言葉に相槌を打っている。


その態度から察するに、電話の相手は玲奈よりも上の立場の人間――本社の役員か、あるいはそれに近い権力者だろう。


「申し訳ありません。ですが、必ず見つけますから。もう少しだけお時間を……」


必死に弁明するような玲奈の声。


雅子は息を潜め、その会話の先を聞こうとした。


ギィッ。


その時、雅子が自席の椅子を無意識に引いた音が、静かなオフィスに響いてしまった。


「――っ! あっ、そろそろ時間ですので。失礼いたします」


椅子の音に気づいた玲奈は、ビクッと肩を震わせ、慌てて電話を切った。


そして、振り返って雅子の姿を認めると、明らかに動揺したような、バツの悪そうな顔を見せた。


「……大橋さん。帰っていたのね」


「お疲れ様です、課長。今戻りました」


雅子は何も聞いていないふりをして、バッグをデスクに置いた。


玲奈は一つ咳払いをして平静を装い、ゆっくりと雅子のデスクへと近づいてきた。


「……大橋さん。沢村さんのことで、最近何か気づいたことはないかしら」


またその話か。


雅子は内心でため息をついた。


だが、先ほどの電話の様子から、玲奈が尋常ではない焦りを感じていることだけは痛いほど伝わってきた。


『申し訳ありません。ですが、必ず見つけますから。もう少しだけお時間を……』


先ほどの電話の言葉。


電話を切った後の態度からすると、健介の不正や、排除するための口実を指しているのかもしれない。


「ありませんよ」


雅子はノートパソコンを立ち上げながら、冷ややかに答えた。


「彼はいつも通りです。問題を起こすどころか、文句のつけようがないくらい真面目にやっていますよ。……課長も、他の人たちに聞いて回って、もう分かっているんでしょう?」


雅子の言葉に、玲奈はピクッと眉を動かした。


佳奈や澪が何を答えたかまでは知らない。


だが、雫と結衣の返答は聞いていた。


あの健介が、誰かに付け込まれるような初歩的なミスをするはずがないと、雅子には確信があった。


「……」


玲奈は黙り込み、細い腕を組んで俯いた。


その張り詰めた横顔には、普段の鉄面皮からは想像もつかないほどの、濃い疲労と焦燥感が滲み出ていた。


「……それじゃあ、困るのよ」


ポツリと。


静寂のオフィスに、玲奈の抑えきれない本音が漏れ落ちた。


「困る?」


雅子が聞き返すと、玲奈はハッとして口を噤んだ。


「課長。一体なぜ、そこまで沢村さんを目の敵にするんですか? 彼は左遷されてきた、言ってしまえば窓際社員なんでしょう? どうして、彼の粗探しなんてする必要があるんですか」


雅子は真っ直ぐに玲奈の目を見つめ、問い詰めた。


しかし、玲奈は固く唇を噛み締め、「……あなたには関係のないことです」とだけ言い捨て、目を逸らした。


本当の理由は言わないというように、口を固く結んでいる。


その頑なな態度が、この問題の背後に会社の上層部が絡む、もっと根深くてドロドロとした何かがあることを示唆していた。


このままでは、玲奈は手段を選ばず健介を追い落とそうとするかもしれない。


雅子の胸の奥で、静かな怒りと、かつて憧れた男を守りたいという強い決意が燃え上がった。


沈黙が降りた薄暗いオフィス。


雅子はふっと息を吐き出すと、タイトスカートから伸びる脚を組み替え、余裕に満ちた大人の笑みを浮かべて口を開いた。


「……課長。もし沢村さんの『弱点』がどうしても見つからないとおっしゃるなら」


雅子の言葉に、玲奈が怪訝そうに顔を上げる。


雅子は、自分でも信じられないような、驚きの提案を口にした。


「私が、彼の『弱点』を作りましょうか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。