第34話:試された誇り
若手社員たちが退社し、照明が半分落とされた営業第三課のオフィス。
静まり返ったフロアの窓際で、課長の霧島玲奈は目を丸くして大橋雅子を見つめていた。
「……弱点を作る? 一体、どういうことですか」
怪訝な表情を浮かべる玲奈に対し、雅子はタイトスカートから伸びる脚を優雅に組み替え、悪びれる様子もなく、こともなげに言い放った。
「簡単なことですよ。ハニトラ……つまり、私が彼を誘惑して、弱点を作るんです」
「なっ……」
玲奈は絶句し、思わず周囲を見回した。
誰もいないと分かっていても、動揺を隠しきれなかった。
「大橋さん、あなた正気ですか? 冗談にしても悪趣味です」
「冗談ではありませんよ。課長は、彼を排除するための決定的な口実が欲しくて焦っているのでしょう? 彼は妻帯者です。もし私とそういう関係になれば、立派な不倫。会社の秩序を著しく乱したという正当な理由で、彼を追い込むことができるじゃないですか」
雅子の声は、どこまでも冷静で淡々としていた。
玲奈は息を呑み、改めて目の前の雅子という女性をまじまじと見つめた。
年齢は43歳。
だが、日頃から手入れの行き届いた艶やかな髪、ブラウス越しにも分かる豊かな胸の膨らみ、そして何より、大人の女だけが持つ特有のねっとりとした色気。
健介は46歳。
年齢的にも不自然ではないし、もし雅子がその気になって本気で誘惑すれば、いとも簡単に落ちてしまうだろう。
そして、ホテルに入る決定的な証拠でも写真に収めれば、完全に言い逃れはできなくなる。
玲奈の「彼を排除する」という目的は、これ以上ないほど確実な形で達成されるのだ。
(……確かに、それなら確実に彼を排除できる。上の人間たちも納得する、完璧な口実になる)
玲奈の脳裏に、そんな黒い誘惑が一瞬だけ過った。
上から下されている、『沢村健介を排除する口実を見つけろ』という至上命題。
期限は迫っており、彼女は見えないプレッシャーで押し潰されそうになっていた。
喉から手が出るほど、彼の明確な『ミス』が欲しい。
だが――。
玲奈は固く唇を噛み締め、キッと雅子を睨みつけた。
「……許可できません。今のは、聞かなかったことにします」
「あら。どうしてですか?」
「いくら私が彼を……その、問題視しているからといって、部下の女性をハニートラップに使うような真似ができるわけないでしょう。私はこの営業第三課の課長です。コンプライアンスの研修だって、嫌というほど受けています。何より、私の管理職としての誇りが許しません」
玲奈は、ただ若さと美貌だけでこの地位に就いたわけではない。
男社会の古い体質が残る営業本部の中で、誰よりも数字に執着し、血の滲むような努力をして実績を積み上げてきたのだ。
いかに自分が追い詰められているとはいえ、部下の女性を性的な罠として使うような理性の欠けた汚い手は、彼女の矜持が絶対に許さなかった。
◇
玲奈の真っ直ぐな拒絶を、雅子は黙って受け止めた。
(なるほど。氷の女王なんて呼ばれているけど、伊達に課長になったわけじゃないのね。……少しは、見直したわ)
雅子は元々、健介をハニートラップにかけて貶める気など毛頭なかった。
これは玲奈の人間性と、彼女が今どれだけ追い詰められているかを測るための、ブラフに近いテストのようなものだった。
「……そうですか。出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
雅子は素直に頭を下げると、ふっと大人の余裕を感じさせる表情に和らいだ。
「では、代わりの提案なのですが。……3人で、飲みに行きませんか?」
「飲み、ですか?」
「ええ。沢村さんが異動してきてから、まだ歓迎会もしていませんでしたよね。今さらフロア全員を巻き込んで歓迎会というのも不自然ですから、とりあえず課長と、年長の私、それに沢村さんの3人で、ささやかな歓迎会という名目で誘うんです」
雅子は言葉を切って、玲奈の反応を窺った。
「いきなり二人きりで飲みに誘えば、沢村さんも警戒して口が堅くなるでしょう。でも、私が間に入れば少しは場も和むはずです。お酒が入れば、気を許して何かボロを出すかもしれませんよ」
「……お酒の席で、探りを入れるということですね」
「ええ。これなら、コンプライアンスにも課長のお立場にも反しないでしょう?」
玲奈は腕を組み、沈黙した。
部下と業務外で馴れ合うような飲み会を、玲奈は普段から避けている。
ましてや、標的である健介とわざわざ酒の席を共にするなど、普段の玲奈なら絶対に断っていただろう。
しかし、数秒の逡巡の後、玲奈は重々しく口を開いた。
「……分かりました。その案でいきましょう。日取りの調整とお店の手配は、大橋さんにお願いできますか」
その返答に、雅子は内心で驚きを隠せなかった。
(あっさりと乗ってきた……。本当に追い詰められているのね)
手段を選ばない罠はプライドで拒否したが、酒の席での探りという陳腐で古臭い手段にはすがりついた。
それほどまでに、玲奈の背後にある『何か』からのプレッシャーが強大なのだと、雅子には思えた。
彼女がなぜそこまでして健介を追い出そうとするのか、その真意を知るためにも、この飲み会は絶好の機会だった。
雅子は「承知いたしました」と微笑み、開いたままの画面へ視線を戻した。
◇
翌日の昼下がり。
健介が社内システムに売上データを打ち込んでいると、ふいに隣に気配を感じた。
「沢村さん、今少しよろしいですか」
顔を上げると、雅子が立っていた。
相変わらず、丁寧なメイクとスキのない佇まいだ。
「はい。なんでしょうか、大橋さん」
「実は、沢村さんが配属されてから、ちゃんとした歓迎会ができていなかったと課長と話していまして。今さら大々的にやるのもナンですから、今週の金曜日の仕事終わり、課長と私の3人で、軽く飲みに行きませんか?」
雅子はあくまで自然な、大人の女性の柔らかい笑みを浮かべて誘ってきた。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
健介の内心では、一気に警戒レベルが跳ね上がっていた。
(……霧島課長と、大橋さんの3人で飲み、ね……)
この女だらけの第三課に配属されて数ヶ月。
玲奈は健介を窓際社員として空気のように扱い、普段は必要最低限の業務報告で済ませてきた。
雅子も、つい先日までは遠巻きに観察しているだけだった。
それがここへ来て、突然の「歓迎会」。
しかも、星野佳奈や佐々木澪、他のメンバーたちに自分の勤務態度を探り回っていた直後のタイミングだ。
偶然のわけがない。
健介の頭の中で、気にかかっていた出来事が一つの可能性へと繋がった。
(まさか。……連中は、まだ俺を煙たがっているのか)
健介は、以前自分が所属していた場所――本社の中枢で権力闘争を繰り広げていた『あの派閥』の連中の顔を思い浮かべた。
かつて、健介は社内の派閥争いに巻き込まれ、それに加わらなかったがゆえに、この営業第三課という中枢から外れた部署へ左遷された。
てっきり、自分を追い出したことで連中も満足したのだろうと思っていた。
自分も『窓際族』としてのんびり過ごせればそれでいいと、完全に気配を消して生きてきたつもりだ。
(左遷だけでは飽き足らず、何かしらの不祥事や口実を作って、俺を会社から排除するつもりなのかもしれない)
玲奈が、その派閥の意向で動かされている可能性はある。
上の立場にいる誰かが、彼女にプレッシャーをかけているのだとしたら。
異常な素行調査にも説明がつく。
だが、まだ誰の指示かを確かめたわけではなかった。
さらに厄介なことに、どうやらこの雅子までもが、玲奈の手足となってその勢力に加わってしまった可能性が高い。
(まったく。こんなおじさんを、いつまでも目の敵にしなくてもいいだろうに)
健介は内心で、深く、心底面倒くさそうにため息をついた。
天下を取って派閥に復讐してやろうなどという野心は、彼には微塵もない。
若手たちを陰ながらサポートしつつ、定時で帰ってビールを飲む平穏な生活が送れれば、それで十分なのだ。
それなのに、あちらからわざわざ泥を投げつけてくるというのなら、やれやれと躱すしかない。
玲奈に、雅子。
どちらも一筋縄ではいかない手強い女たちだ。
罠かもしれない酒の席にノコノコと出向くのはリスクが高い。
だが、ここで不自然に断れば、かえって相手の警戒を強め、より強引な手段に打って出てくる可能性もある。
(酒の席でボロを出すほど、俺も安い営業マンじゃないさ)
連中が何を企んでいようと、のらりくらりと躱し、何一つ証拠を与えずにただの飲み会として切り抜けてみせる。
「歓迎会ですか。お心遣い、ありがとうございます。……喜んで参加させていただきますよ」
健介は、微塵も警戒を感じさせない、いつも通りの気の抜けた愛想笑いを浮かべてあっさりと承諾した。
「よかったです。それじゃあ、また後で金曜日のお店の場所を送りますね」
雅子がヒールを鳴らして去っていく後ろ姿を見送りながら、健介はノートパソコンのモニターに視線を戻した。
無機質な数字の羅列を見つめる彼の瞳は、表面上は『窓際族』のそれだった。
だがその奥底には、どんな手強い相手の攻撃も柳のように受け流す、百戦錬磨のしたたかな色が微かに光っていた。




