第35話:思惑渦巻く歓迎会
金曜日の夜。
駅前の喧騒から少し離れた路地裏にある、隠れ家的な和風居酒屋『月華』。
落ち着いた間接照明が照らす掘りごたつ式の完全個室で、営業第三課の奇妙な『歓迎会』がひっそりと幕を開けようとしていた。
大橋雅子がこの店をセッティングしたのには、彼女なりの周到な計算があった。
フレンチやイタリアンのような堅苦しいおしゃれなレストランでは、緊張して腹を割った会話など弾むわけがない。
かといって、赤提灯が下がるような大衆居酒屋では、周囲の客の声がうるさくて密談には不向きだ。
さらに、課長の霧島玲奈はタバコの煙を極端に嫌う。
雅子も健介も喫煙者ではないが、だからといって居酒屋という空間そのものが嫌いなわけではない。
美味しい和食と美味い酒があり、完全個室で禁煙、そして周囲の目を気にせず会話ができる場所。
それがこの店だった。
「……それでは、沢村さんの配属から少し時間が経ってしまいましたが。営業第三課への歓迎の意味を込めまして。乾杯」
氷の女王の異名を持つ玲奈が、ビールの入ったグラスを薄い唇の高さに掲げた。
仕事終わりの彼女は、普段のきっちりとしたスーツ姿からジャケットを脱ぎ、とろみのあるシルクのブラウス姿になっている。
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」
「乾杯」
健介と雅子もグラスを合わせ、カチン、と涼やかな音が個室に響いた。
最初の30分は、雅子の予想通り、ひどくお通夜のような空気が流れていた。
そもそも、普段のオフィスで必要最低限の業務報告しか交わさない3人である。
共通の話題などあるはずもない。
「最近急に寒くなりましたね」「ええ、そうですね」といった、どうでもいい天気の話題や、当たり障りのない業界の動向などをポツリポツリと話すだけだった。
◇
健介は、運ばれてきた刺身の盛り合わせやだし巻き卵を丁寧な手つきで取り分けながら、内心で分厚い警戒の壁を築いていた。
(……さて。いつ、どこから探りを入れてくるのか)
玲奈が自分について探っているのは確かだ。
酒の席で気を緩ませ、ボロを出させようというのが狙いかもしれない。
雅子もその手先として、何か仕掛けてくるのだろうか。
健介は、どんな質問が来てものらりくらりと躱せるよう、脳内でいくつものシミュレーションを回していた。
しかし――。
そんな健介の強固な警戒は、開始からわずか1時間が経過した頃、全く予想外の方向へと崩れ去ることになる。
「ねえ、沢村さぁん。ちょっと聞いてよぉ……」
雅子が、とろんとした目を潤ませ、健介の肩をペチペチと叩きながらすり寄ってきた。
肉感的な身体から立ち昇る、アルコールと混ざり合った甘い香水。
その顔は、見事なまでに真っ赤に茹で上がっていた。
(……ええ?)
健介は目を丸くした。
オフィスでは常に丁寧なメイクと大人の余裕を崩さない、『裏ボス』雅子。
いかにも酒豪で、ワインをボトルで何本も空けそうな雰囲気を持っていた彼女だが、実は信じられないほど酒に弱かったのだ。
ビールを2杯、それに甘い梅酒のソーダ割りを1杯飲んだだけで、すでに呂律が回らなくなっていた。
「だいたいねぇ、うちの部の若手は気合いが足りないのよ! 佳奈ちゃんとか澪ちゃんは頑張ってるけどさぁ、他の連中はどうなってるわけ? ちょっとキツく言っただけですぐパワハラだ何だって……私が若い頃なんて、灰皿飛んできたんだからね!?」
「は、はあ。そうですね、僕らの時代は大変でしたから……」
健介はすっかり毒気を抜かれ、苦笑しながら適当に相槌を打った。
雅子は「そうよぉ!」と声を上げ、健介のグラスに勝手にビールを注ごうとして、テーブルの上に少しこぼしてしまう。
「あっ、すいません。僕がやりますから」
「いいのいいの! おじさんは黙って飲んでればいいのよ!」
健介が慌てておしぼりでテーブルを拭いていると、今度は反対側の席から、重いため息が聞こえてきた。
「……大橋さんの言う通りです。まったく、最近の若手は……いえ、若手だけじゃありません。本部の連中も、現場の苦労も知らないで数字、数字って……」
声の主は、玲奈だった。
彼女もまた、雅子ほどではないが、すっかり酒に飲まれるタイプだったらしい。
レモンサワーのグラスを片手に、普段の鉄面皮からは想像もつかないほど眉間にシワを寄せ、愚痴をこぼし始めていた。
「大体、コンプライアンスだの働き方改革だの言うくせに、目標数字だけは毎年釣り上がっていくんですよ。現場で頭を下げて、泥水すすって契約取ってきてる私たちの身にもなってみなさいっての……」
玲奈はグイッとレモンサワーを煽り、トンッと乱暴にグラスを置いた。
「沢村さん、あなたもそう思いませんか!?」
「ええ、おっしゃる通りです。課長のご苦労、お察しいたします」
健介はひたすらニコニコと頷き、空になった酒のグラスを脇へ寄せた。
代わりに二人分のお冷を頼み、取り皿に料理を分ける係へと徹していた。
健介は内心で、深く、そして呆れたように息を吐き出した。
罠だの探りだのと身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
酒の席でボロを出させるどころか、彼女たちの方がすっかり酒に飲まれている。
ただの日頃の鬱憤晴らしの女子会……いや、お局様の愚痴大会へと成り果てているではないか。
(まったく。……でもまあ、二人とも可愛いものだな)
普段は気を張って、男社会の会社の中で必死に戦っている強い女たちだ。
こうして酒が入らなければ、弱音や本音を吐き出す場所もないのだろう。
健介は、彼女たちの愚痴を否定することなく、ただ「そうですね」「大変でしたね」と、穏やかな声で受け止め続けた。
ただ、健介は漫然と愚痴を聞いていたわけではなかった。
すっかり酔いが回り、本音がダダ漏れになっている玲奈。
彼女は会社の体制や上層部への不満を口にしているものの、決して『特定の個人の名前』や『派閥の具体的な指示』については、一言も漏らさなかったのだ。
(……なるほど。ここまで飲んでも、一番肝心なところだけは絶対に口を割らないか)
健介はビールを口に含みながら、静かに目を細めた。
口止めされているのか、それとも、この場で触れるつもりがないだけなのか。
少なくとも、この酒席では背後の事情まで確かめられそうになかった。
派閥からの圧力という可能性を、健介は頭の隅に留めた。
(このまま三課で平穏に過ごしたかったが……もう少し警戒しておくか)
やれやれ、と健介は内心でため息をついた。
こんな『窓際のおじさん』を、いつまでも目の敵にしなくてもいいだろうに。
だが、相手が本気で来るというなら、こちらもそれ相応の警戒をして、のらりくらりと躱し続けるしかない。
やがて、予約していた3時間が経過し、店員からラストオーダーを告げられた。
「……あら、もうこんな時間ですか。すみません、なんだか私ばかり喋ってしまって」
玲奈がお冷を飲んで少し正気を取り戻し、バツの悪そうな顔で言った。
「いえいえ。課長の普段のご苦労が聞けて、私も勉強になりました」
「……お心遣い、ありがとうございます」
会計は健介が「ここは僕に出させてください」と先に支払いを済ませ、3人は夜風の冷たい店の外へと出た。
「では、私はこちらですので。……今日は、ありがとうございました。また来週」
玲奈は少し千鳥足になりながらも、課長としての威厳をなんとか保ち、駅の方へと歩き去っていった。
残されたのは、健介と雅子の二人だけだ。
「大橋さん、大丈夫ですか? 随分と飲まれていたようですが」
健介が声をかけると、雅子はぼんやりとした目で健介を見上げ、ふにゃりと笑った。
「んふふ……大丈夫ですよぉ。沢村さん、家どっちですか?」
「僕は東横線ですけど」
「あら! 私もたまたま方向が一緒ですぅ。途中まで一緒に帰りましょうよぉ」
雅子が健介の腕に絡みつくようにして、駅へと歩き出す。
健介は「おっと、危ないですよ」と彼女を支えながら、仕方なく同じ改札を抜け、電車へと乗り込んだ。
◇
金曜の夜遅くの電車内は、飲み会帰りのサラリーマンたちで混雑していた。
二人は並んで立つことができず、ドアの横のスペースで、健介が雅子を庇うように壁際に立たせる形になった。
電車の揺れに合わせて、雅子の身体がコクン、コクンと健介の胸元に触れる。
そのたびに、大人の女の甘い香水とアルコールの匂いが、健介の鼻腔をくすぐった。
「大橋さん、僕が降りる駅までは支えていますから。揺れるので気をつけてくださいね」
健介が優しく声をかけると、俯いていた雅子がゆっくりと顔を上げた。
酔ってトロンとした目つきだが、その奥にある瞳は、驚くほど真っ直ぐに健介を捉えていた。
「……沢村さん」
「はい?」
「もう、私のことなんて……忘れてたんでしょう?」
不意に投げかけられたその言葉。
健介は少しだけ目を見張り、やがて、困ったように眉を下げて小さく微笑んだ。
「忘れるわけないよ。……あの時は、同期の田柄が、本当にひどい迷惑をかけたね」
その言葉に、雅子の肩がビクッと跳ねた。
「あのヤマシタの件、君はずっと責任を感じていたみたいだけど、田柄まで君に責任を押し付けたのは間違っている。最初のミスがあったからといって、あんな扱いを受けていいわけじゃない。……ただ、君がお礼を言いに来てくれた日は僕もすぐに別の会議が入っていて、君の話もろくに聞かないまま、一人でフロアに残して帰してしまった。ずっと、申し訳ないと思っていたんだよ」
◇
18年も前の、たった一度の出来事。
毎日何十件もの商談とトラブルを処理していた、当時の絶対的エース。
まさかあんなちっぽけな新人のミスと、その時の状況までを鮮明に覚えているはずがない。
雅子はそう思っていた。
自分が一方的に憧れ、勝手に恋をして、勝手に失恋しただけの、彼にとってはただの『通りすがりの出来事』に過ぎないのだと。
しかし、彼は覚えていた。
あの時の同期の名前も、雅子を残して会議に向かってしまったことへの後悔も。
すべてを、彼はずっと胸の奥に留めてくれていたのだ。
「……っ」
雅子の胸の奥で、長年蓋をしてきた熱い感情が、堰を切ったように溢れ出した。
酔いのせいだけではない。
心臓が早鐘のように打ち、目頭が熱くなる。
「沢村さん……」
雅子が何かを言いかけた時、車内にアナウンスが響いた。
「まもなく、祐天寺〜、祐天寺〜」
健介の自宅マンションがある、最寄り駅だった。
「おっと、僕はここで降ります。大橋さんは……もう一人で大丈夫ですか? 気をつけて帰ってくださいよ」
「はい。ありがとうございます」
雅子のはっきりした返事を聞いて、健介は微笑んだ。
電車のドアが開くと、ホームへと降り立つ。
「おやすみなさい」と短く手を挙げ、改札へ向かって歩き出す健介の背中。
雅子は、ドアが閉まる寸前の車内で、ギュッと拳を握りしめた。
ここで彼を見送れば、また月曜日からは『冴えないおじさん』と営業第三課の『裏ボス』という、希薄な関係に戻ってしまう。
玲奈の背後にある何かが動き出している今、彼がいつこの会社から消えてしまうか分からない。
(……今日、行かないと)
雅子はハイヒールを鳴らし、閉まりかけたドアの隙間から、勢いよくホームへと飛び出した。
「!?」
前を歩いていた健介が、背後のヒールの音に驚いて振り返る。
「大橋さん? どうしたんですか、降りる駅はここじゃないでしょう」
「……少し、一緒に歩きたいんです」
雅子は真っ赤な顔で、しかしハッキリとした声で言った。
健介は目を丸くし、周囲を見回した。
「歩くって……君、家は?」
「実は、私のマンション、全然別路線なんです。……わざと、同じ方向だって言って、ついてきました」
雅子の告白に、健介は言葉を失った。
終電も近いこんな時間に、別路線に住む女性が、わざわざ嘘をついてついてきたのだ。
雅子はもう、気まぐれな酔いのせいにはしたくなかった。
「大橋さん、君は酔っている。タクシーを拾うから、それに乗って……」
「酔ってません。……ううん、酔ってるかもしれないけど、でも、聞いてほしいんです」
雅子は歩み寄り、健介のスーツの袖を、すがるようにギュッと掴んだ。
夜の冷たい風が吹き抜ける駅前のロータリー。
街灯の光に照らされた雅子の瞳は、潤んで、熱を帯びて、そして一人の『恋する女』の顔をしていた。
「私……ずっと、昔から、言えなかったことがあるんです」
その切実な声の響きに、健介はタクシーを呼ぼうとしていた手を止めた。
43歳の熟れた色気と、少女のような純粋な想いが混ざり合った、抗いがたい引力。
見えざる派閥の思惑が蠢く中。
健介の平穏な窓際ライフは、またしても予期せぬ方向へと大きく揺れ動こうとしていた。




