第36話:18年越しの告白
夜の冷たい風が、駅前のロータリーを吹き抜けていく。
大橋雅子は、健介のスーツの袖をギュッと掴んだまま、動けずにいた。
指先が震えている。
アルコールのせいだと、思いたかった。
「私……ずっと、昔から、言えなかったことがあるんです」
やっと、それだけを口にした。
18年。
このたった一言を言うために、どれだけの夜を無駄にしてきただろう。
しかし――。
健介は小さく息を呑むと、雅子の手を、静かに自分の袖から外した。
「大橋さん。……気持ちは嬉しいですが、俺には妻と娘がいます。それに、これ以上踏み込めば、お互い会社での立場も危うくなる」
その手つきは、乱暴ではなかった。
だからこそ、痛かった。
(……そうよね)
雅子は、外された自分の手を見つめた。
43歳の女が、酔った勢いで別路線の駅までついてきて、男の袖を掴んでいる。
痛々しいと思われても、仕方がない。
「……そうですよね。ごめんなさい、私ったら酔って、変なことを」
雅子はふっと笑ってみせた。
会社で何度も使ってきた、大人の女の笑い方だった。
「タクシーを呼びます。それに乗って――」
「だったら、少しだけ……夜風に当たりながら、歩きませんか?」
言葉が、勝手に口をついて出ていた。
ここで帰されたら、月曜からはまた『冴えないおじさん』と『裏ボス』に戻ってしまう。
「酔いが覚めるまででいいんです。覚めたら、ちゃんと自分でタクシーを拾って帰りますから。……お願いです」
健介はしばらく雅子を見つめていたが、やがてスマートフォンをポケットにしまった。
「……少しだけですよ」
雅子の胸の奥に、小さな灯がともった。
二人は駅前の喧騒を離れ、静まり返った住宅街の舗道を並んで歩き始めた。
カツン、カツンと響く自分のヒールの音が、やけに大きく聞こえる。
「沢村さん」
「はい」
「さっきの話……私が昔言えなかったこと。聞いてくれますか」
雅子は前を向いたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
18年前。
自分の致命的なミスと嘘で、会社を辞めようとまで思い詰めていた時。
販売部の別の課にいた先輩の健介が、一人で取引先に乗り込んで頭を下げ、自分を救ってくれたこと。
そして、その『泥臭く誠実なエース』の姿に、強く惹かれていたこと。
「私、ずっと沢村さんのことが好きでした。……でも、気持ちを伝える前に、沢村さんが結婚すると知って。それでも、あなたが助けてくれたこの仕事を投げ出したくなくて、必死に頑張ってきたんです」
言い終えると、隣で息を呑む気配がした。
横目で窺うと、健介は目を見張ったまま、雅子を見つめていた。
(……驚いてる)
無理もない。
彼にとっては、通りすがりに助けた新人の一人にすぎないのだ。
その相手が、それから18年、同じ想いを抱えたまま同じ会社にいたなど、想像もしていなかっただろう。
「……まだ、警戒してますよね。課長からの指示とか、あなたを陥れるための罠とか。そう思われても仕方ないけど、違うんです。私はただ……ずっと好きだったあなたを、今度は私が守りたくて」
雅子は立ち止まり、真っ直ぐに健介を見上げた。
『裏ボス』としての計算も、大人の女の余裕も、今は一つも残っていなかった。
健介は小さく息を吐き出し、深く頭を下げた。
「……申し訳ない。実は、君と霧島課長が結託して、僕をこの会社から追い出すための口実を探しているんじゃないかと、疑っていました」
やっぱり、と雅子は思った。
「ふふっ。まあ、無理もないですよね。私が課長に命じられて、あなたのことを嗅ぎ回っていたのは事実ですから」
雅子は苦笑し、再び歩き出しながら言葉を続けた。
「でも、課長も悪い人じゃないんです。彼女もきっと、上の『誰か』から強い指示を受けて、逆らえずに動かされているだけ。すごく真面目な人なんですよ」
「真面目、ですか」
「ええ。実は私、課長がどれくらい本気なのか試すために、『私が沢村さんにハニートラップを仕掛けて、不倫の証拠を作りましょうか』って提案してみたんです」
「はに、とら……?」
健介が面食らった顔をするのを見て、雅子はつい笑ってしまった。
「でも、課長は『管理職としての矜持が許さない』って、きっぱり断りました。自分がどれだけ追い詰められていても、そんな汚い手段で部下を陥れるような人じゃないんです」
健介は、しばらく黙って歩いていた。
先ほどの居酒屋で、酒に飲まれて本部への愚痴をこぼしていた玲奈のことを、思い返しているのだろうか。
その横顔は、意外にも険しくはなかった。
「私は課長から、その『背後にいる敵』の名前を聞き出そうとしたんですが、無理でした。……沢村さんには、何か心当たりはないんですか?」
雅子が心配になって尋ねると、健介はフッと短く笑い、夜空を見上げた。
「有り過ぎるよ」
「え……?」
「この会社で、仕事に対して誠実であろうとすればするほど、どうしてもぶつかる人間が出てくる。自分でも気づかないうちに、思ってもいないような敵が増えていくものなんだ」
その言い方が、あまりにも淡々としていた。
恨み言でも、自嘲でもない。
とうに諦めた事実を、ただ口にしているだけの声だった。
雅子は胸が締めつけられるのを感じた。
派閥争い。
利権。
そして、古い体質。
かつて誰よりも前を走っていた人が、信念を曲げなかったというだけで、この部署へ追いやられた。
そして今も、まだ追われている。
「……沢村さん」
「ん?」
「私、あの時のエースがこんなに苦労していたなんて、知りませんでした。……ねえ、沢村さん。今日はもっと色んな話を聞きたいです。もう少しだけ、飲みませんか?」
思わず、そう口にしていた。
健介は周囲を見回して苦笑した。
「気持ちは嬉しいけど、もうすぐ深夜の12時だ。この辺りの住宅街は、飲み屋も少ないし、とっくにどこも閉まっているよ」
「そうですか……どこも開いていませんね」
雅子は素直に頷いてみせた。
そして、ヒールを鳴らして、ためらうことなくある方向へと歩き出す。
「おい、大橋さん。そっちは駅じゃないぞ」
「知ってます。沢村さんのマンション、ここから数分ですよね。行きましょうよ」
「ちょっと待って、どうして家の場所を……」
健介の戸惑った声が背中に届いたが、雅子は足を止めなかった。
(……行くしかないの。今日を逃したら、もう二度と)
やがて、駅から歩いて数分の場所にある、ファミリー向けの分譲マンションが見えてきた。
「大橋さん、本当に困る。ここで引き返して――」
健介が雅子の肩を掴んだ、その瞬間だった。
「――っ」
不意に、強い力で腕を引かれた。
「んっ……」
視界が回り、気づけば植え込みの物陰に押し込まれていた。
大きな手が、雅子の口を塞いでいる。
すぐ目の前に、健介の顔があった。
(……え。何、これ)
雅子は目を見開いた。
健介はマンションのエントランスを凝視したまま、微動だにしない。
その視線の先で、自動ドアが開き、小柄な人影が中へと入っていくのが見えた。
誰なのかは、雅子には分からなかった。
ただ、この人がこんなに本気で身を隠そうとするのを、初めて見た。
やがて人影がエレベーターに乗り込むのを確認すると、健介はふうっと冷や汗を拭って手を離した。
「す、すみません。実は今、娘が帰ってきたみたいで……。やっぱり、家は無理です。駅に戻りましょう」
口を塞がれていた感触が、まだ頬に残っている。
雅子は乱れた息を整えながら、エントランスの明かりを見上げた。
――この人は、あの子に見られたら困る。
それだけは、はっきりと分かった。
健介は早口でそう言うと、雅子の背中を押して駅の方へ引き返そうとした。
しかし、雅子は踏みとどまり、クルリと振り返って健介を見つめた。
「それなら、私のマンションに来てください」
「えっ」
「戻っても、もう終電はありませんし。ここからなら、タクシーですぐですから」
「いやいや。深夜に大人の女性の部屋に行くのは、いくらなんでも色々と問題が……」
雅子は健介の袖を軽く引き、悪戯っぽく笑ってみせた。
「もう少し付き合ってくれないと、課長に言っちゃいますよ。沢村さんに口説かれたって」
「ははっ、それは手厳しいな」
自分でも、言葉に力がこもっていないのが分かった。
脅すつもりなど、最初からなかったのだ。
雅子の指先は、ためらうように袖から離れた。
「……冗談です。帰りたいなら、止めません。ただ、私はまだ一緒にいたい」
言ってしまってから、心臓が痛いほど鳴った。
健介は、自由になった自分の腕と、雅子の顔を順に見た。
長い、数秒だった。
「俺も、もう少し君の話を聞きたい。……少しだけ、お邪魔するよ」
(……え)
押し切ったのでも、酔わせたのでもない。
この人は、自分で決めてそう言った。
「やった」
雅子の口から、思わず小さな歓声がこぼれた。
大通りに出てタクシーを拾うと、深夜で道が空いていたこともあり、車は30分足らずで雅子の住むマンションへと到着した。
そして二人は、静まり返った夜の密室へと足を進めて行った。




