第37話:雅子と健介
少しだけ時間を戻す。
大橋雅子のマンションへ向かう、深夜のタクシーの車内。
窓の外を流れる街灯の光が、後部座席に並んで座る二人の顔を等間隔で照らし出していた。
雅子は背筋を伸ばし、膝の上で両手をギュッと握りしめていた。
(……何を言えばいいの)
つい先ほどまで、課長に言いつけると冗談まで飛ばしていた口が、今はまったく動かない。
隣に、この人がいる。
それだけで、心臓が痛いほど鳴っていた。
タクシーが角を曲がるたび、肩が触れそうになる。
そのたびに雅子は身体を強張らせ、窓の外を見るふりをした。
(部屋、片づけてきたかしら)
(お茶しか出せるものがない)
(……ううん、そんなことより)
考えれば考えるほど、思考が空回りしていく。
18年待った。
なのに、いざ隣に座られると、四十三年生きてきた女がまるで何も分からなくなってしまう。
やがてタクシーは、マンションのエントランス前に滑り込んだ。
健介が料金を支払い、二人は車を降りてオートロックの自動ドアを抜ける。
エレベーターの中でも、雅子は無言のままだった。
(何か話さないと)
そう思うのに、喉が張り付いて声が出ない。
長い廊下を歩く自分のヒールの音が、不自然なほど早いことに気づいて、雅子は歩幅を落とした。
「ここです」
やっとの思いでそれだけを言い、カードキーをかざして玄関ドアを開けた。
ほのかに甘いルームフレグランスの香りが、二人を迎える。
センサーライトが自動で点灯し、玄関を照らし出した。
「お邪魔しま……っ!?」
健介が靴を脱ごうとした、その瞬間。
ガチャン、と背後でドアが閉まる音がした。
その音を聞いた途端。
雅子は、気づけば健介の背中にすがりついていた。
「おおっ、大橋さん……?」
健介が驚いて振り返ろうとする。
「見ないで……」
雅子は彼の背中に顔を押し付けたまま、そう言うのが精一杯だった。
顔を見られたくなかった。
きっと今、ひどい顔をしている。
スーツの生地を掴んだ自分の指が、カタカタと震えているのが分かった。
「……怖かった」
「怖い?」
健介が困惑して聞き返す。
雅子は背中のスーツをギュッと掴み、絞り出すように言った。
「さっき……43歳の女があんなに誘って、すごく必死で、痛々しいおばさんに見えなかったかなって……ずっと、怖かったんです」
言ってしまった。
タクシーの中でずっと、そればかりを考えていた。
袖を掴んだ手も、歩きませんかと言った声も、マンションに来てくださいと言った顔も。
全部、みっともなかったのではないか。
この人は優しいから、断れなかっただけではないか。
「痛々しいなんて、そんなわけないだろう。43歳がどうとかよく分からないけど……あれが君の普段の姿じゃないのかい?」
雅子は、ふるふると弱々しく首を横に振った。
営業第三課の『裏ボス』。
常に冷静で、大人の色気と余裕を纏い、男たちを手玉に取る魔性の女。
みんな、そう思っている。
「違うんです。私……本当は、そんな女じゃないんです」
声が潤むのを、止められなかった。
健介がゆっくりと身体を反転させ、雅子の肩を優しく掴む。
見上げると、彼の顔がすぐそこにあった。
丁寧に塗ったメイクも、洗練されたスーツも、今はもう何の役にも立たない。
「……大橋さん?」
「18年前。健介さんに憧れて、好きになって。……でも、気持ちを伝える前に、健介さんが結婚すると知って。私、ひどく失恋したんです」
一度こぼれ出すと、言葉は止まらなかった。
「それから、恋愛に対してすごく弱気になっちゃって。男社会の販売部で舐められないように、必死に『大人の女』の振る舞いをして、自分を隠して強がってきたんです」
30代になった頃には、その仮面が自分の顔になってしまった。
いつしか周囲からは『ボス的な存在』『隙のない女』として見られるようになり、同僚の男性たちからは「あんなに綺麗で仕事もできるんだから、きっと裏で相当いい男と付き合ってるんだろう」と、勝手に敬遠されるようになった。
「避けられているというより、高嶺の花扱いされて、声もかけられなくなって。……40歳が近づく頃には、もう自分から男の人を好きになる気力もなくなっていました。仕事で後輩から頼られることはあっても、誰かから女性として誘われることなんて、もう何年も……ううん、十何年もなかったんです」
誰にも言ったことのない話だった。
『裏ボス』と呼ばれるたびに、心の奥で少しずつ削れていったもの。
その正体を、初めて言葉にした。
「……まさか」
健介の口から、そんな言葉が漏れた。
雅子は健介の胸に顔を埋め、消え入りそうな声で、しかしはっきりと告げた。
「だから……私、今日が『初めて』になるかも、しれません」
言った瞬間、身体が石のように固くなった。
呆れられる。
引かれる。
四十三年もかけて何をしてきたのかと、笑われる。
だが、健介は笑わなかった。
肩に置かれた手に、わずかに力がこもったのが分かった。
そのまましばらく、彼は何も言わなかった。
見上げると、健介の視線が一瞬だけ、どこか遠くへ向いていた。
何を思い出しているのかは、雅子には分からなかった。
やがて健介は視線を戻し、雅子の目を真っ直ぐに見た。
「雅子。俺も、今夜は君のそばにいたい」
「……っ」
「でも、急がなくていい。少しでも迷うなら、ここでやめよう」
「迷ってません。……私が、健介さんと一緒にいたいんです」
震えの残る声で、それでもはっきりと答えられた。
「……雅子」
もう一度名前を呼ばれて、雅子は小さく息を呑んだ。
会社で呼ばれる「大橋さん」とは、まるで違う響きだった。
その二文字を、18年待っていた。
顔を両手で優しく包み込まれ、ゆっくりと上を向かされる。
「すごく、綺麗だよ」
囁きと同時に、震える唇に彼の唇がそっと押し当てられた。
最初は触れるだけの、羽のように優しいキス。
「んっ……」
どうすればいいのか分からないまま、雅子は恐る恐る健介の背中に腕を回した。
急かされなかった。
言葉にできずにいた時間を埋めるように、二人は静かに唇を重ねた。
玄関のセンサーライトが消える。
暗がりの中で、雅子は健介の手をそっと握った。
「……寝室は、そこのドアです」
言ってから、しまった、と思った。
健介がドアを開け、小さく息を呑む気配がする。
パステルピンクのベッドカバー。
サイドテーブルに置かれたウサギのぬいぐるみ。
壁に飾られた、淡い花の絵。
(……見られた)
会社の誰にも見せられない部屋だった。
四十三歳にもなって、と自分でも思う。
けれど、この部屋だけは手放せなかった。
「……笑ってもいいですよ」
「笑わないよ」
健介はそう言って、ベッドの端に腰を下ろした。
「こんなに緊張するなんて……変ですよね」
「変じゃないよ。俺も、君を大切にしたいから」
雅子は顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「……名前、もう一度呼んでください」
「雅子」
待ち続けた名前の響きに、雅子は目を細めた。
その夜、二人は互いの意思で一線を越えた。
ためらいが浮かぶたびに、健介は言葉をかけて待ってくれた。
急かされることも、置いていかれることも、一度もなかった。
やがて腕の中で、雅子は安堵したように小さく笑った。
「嬉しい……。ずっと、こうしていたかったんです」
健介は返事の代わりに、そっと抱き寄せてくれた。
その後も、二人は寄り添いながら、18年間の空白を埋めるように語り合った。
健介が左遷された時のこと。
雅子がどれだけ遠くから健介を見ていたか。
そして、これからのこと。
遮光カーテンがしっかりと閉められた寝室は、時間の感覚を完全に奪っていた。
夜が明けても話は尽きず、二人が眠りに落ちたのは、時計の針が昼近くを指していた頃だった。
◇
「……んっ」
健介が重い瞼を開けると、部屋はまだ薄暗かった。
しかし、スマートフォンの画面を見ると、時刻はすでに土曜日の夕方の17時を回っていた。
隣を見ると、雅子が健介の腕を抱き枕のようにして、安心しきった赤ん坊のような顔で眠っている。
健介はそっと身を起こした。
腕を離そうとすると、雅子の指がかすかに動く。
(……もう少し、このままでいいか)
健介は彼女の額にそっとキスを落とし、再び隣に横になった。
「んんっ……けんすけ、さん……?」
健介の温もりに触れ、雅子が目を覚ます。
寝起きのぼんやりとした瞳が健介を捉え、やがて昨夜の記憶が蘇ったのか、ポッと頬を赤く染めた。
「おはよう、雅子。……けど、もう夕方だよ」
「えっ……嘘。私、そんなに寝て……」
「無理もないよ。俺が君を寝かせなかったんだから」
健介が微笑むと、雅子も照れくさそうに笑った。
「……もう少し、そばにいて」
雅子からそっと唇を重ねる。
二人は再び寄り添い、途切れ途切れに思い出を語った。
気づけば、カーテンの向こうも夜の色に変わっていた。
◇
すっかり夜も更けた、21時過ぎ。
「お待たせしました。冷蔵庫にあるもので適当に作っただけですけど……」
シャワーを浴びてスウェット姿に着替えた雅子が、ダイニングテーブルに料理を並べた。
湯気を立てる肉じゃが、綺麗に形作られたハンバーグ、そして出汁の効いたほうれん草のお浸し。
「おお、美味しそうだ。いただきます」
健介は箸を取り、肉じゃがを口に運んだ。
ホクホクとしたじゃがいもと、甘辛い味付けが口いっぱいに広がる。
「……ん? これ、すごく美味しいな。味付けが絶妙だ」
「本当ですか? よかった」
雅子は嬉しそうに微笑み、向かいの席に座った。
健介は次々に箸を進めながら、ふと、ある違和感に気がついた。
肉じゃが、ハンバーグ、ほうれん草のお浸し。
これはすべて、健介の大好物ばかりなのだ。
しかも、味付けの濃さや甘さの加減まで、健介の好みにぴたりと合っている。
たまたま冷蔵庫にあるもので作ったにしては、あまりにもできすぎている。
(そういえば……)
健介は箸を止め、雅子を見つめた。
昨日の深夜。
住宅街を歩いていた雅子は、ためらうことなく健介のマンションの方向へ足を向けた。
偶然通りかかっただけならともかく、あの自信満々な足取りは、明らかに健介のマンションの正確な場所を『知っていた』者の動きだった。
「……雅子」
健介は真剣な顔つきで呼びかけた。
「18年も俺のことを想ってくれていたのは、本当に嬉しい。……もしかして君、俺のマンションの場所とか、食の好みとか、色々と調べていたのかい?」
ストーカーとまでは言わないが、彼女の執念を考えれば、探偵でも雇って調べていたとしても不思議ではない。
健介が少し身構えて尋ねると、雅子はポカンとした顔で首を傾げた。
「調べていた? いいえ、そんなことしてませんよ」
「じゃあ、どうして家の場所や、俺の好きな料理を……」
雅子はクスッと笑い、箸置きに箸を揃えて置いた。
「調べたんじゃなくて、聞いていたんです」
「え? 俺から?」
「いいえ。……ところで健介さん、麻由美とは最近連絡取り合ってるんですか?」
「――っ」
健介の心臓が、ドクンと不気味な音を立てて跳ねた。
今、彼女は何と言った?
大阪に単身赴任中で、現在別居状態にある妻の名前。
なぜ、妻の名前を知っている?
それに、「麻由美」と、まるで昔からの友人のように親しげに呼び捨てにした。
健介は全身の毛穴が開くような感覚に襲われ、言葉を失った。
「な……なぜ、妻の名前を……」
健介の驚愕の表情を見て、雅子は楽しそうに微笑んだ。
「あら。麻由美から聞いてなかったんですか?」
「き、聞いてないって……何を……?」
雅子は両手で頬杖をつき、悪戯っぽく、しかし背筋が凍るような大人の微笑みを浮かべて、あっさりと衝撃の事実を口にした。
「私と麻由美、大学時代の同級生で、同じゼミの親友だったんですよ」
「……ぶふっ!!」
健介は思わず、口に含んでいたほうれん草のお浸しを盛大に噴き出しそうになった。
慌てて口元を押さえ、ゲホゲホと咳き込む健介。
「えっ……親友!? ま、麻由美と君が!?」
「はい。卒業してからはお互い忙しくて、年に数回会うくらいでしたけど。……健介さんと結婚するって、麻由美本人から聞いたんです。その時、私、失恋したんだなって」
雅子は箸置きに目を落とし、小さく笑った。
「私の好きな人が健介さんだとは、言えませんでした。だから麻由美は何も知らずに、落ち込んでる私を慰めてくれたんです。『私が紹介してあげるから、いい人見つけなよ』って」
雅子はクスクスと笑いながら、恐ろしい過去の因縁を語り続ける。
「麻由美からノロケ話をたくさん聞かされましたよ。健介さんの好きな料理とか、新居のマンションの場所とか。……だから、知ってて当然なんです。ふふっ、本当に世間って狭いですよね」
健介は頭を抱えそうになった。
会社の同僚に手を出してしまっただけでも厄介なのに、それがまさか、妻の大学時代の親友だったとは。
もしこれが麻由美にバレたら、不倫どころの騒ぎではない。
修羅場なんて生易しい言葉では済まされない事態になる。
(……18年間、親友の夫を想い続けていたってことか……!?)
「さぁ、健介さん。冷めないうちに食べてくださいね」




