第38話:もう一晩だけ
「……私と麻由美、大学時代の同級生で、同じゼミの親友だったんですよ」
大橋雅子の口から語られた衝撃の真実に、健介は思わず口に含んでいたほうれん草のお浸しを喉に詰まらせかけ、小さく咳き込んだ。
目の前で微笑む女が、ただの会社の同僚ではなく、まさか現在単身赴任中の妻の親友だったとは。
「だから、健介さんの好きな料理も、健介さんのマンションの場所も知っていて当然なんです。麻由美からノロケ話をたくさん聞かされていましたから」
雅子は悪びれる様子もなく、どこか楽しげにクスクスと笑っている。
健介は内心でひどく驚いていた。
だが出された手料理はどれも本当に美味しく、自分の好みにぴたりと合っていたため、残さず綺麗に平らげた。
「……ごちそうさま。本当に美味しかったよ」
健介は箸を置き、お茶を飲み干すと、静かに立ち上がってダイニングテーブルの横にあった自分のジャケットに手を伸ばした。
「さて。食事もごちそうになったことだし、今日はもう帰るよ。これ以上長居したら、君の迷惑になるだろうからね」
いくら彼女が18年間想ってくれていたとはいえ、週末の夜に独身女性の部屋にいつまでも居座り続けるのは、大人の男として野暮というものだ。
健介が配慮を見せ、スマートに切り上げようと踵を返した、その時だった。
「待って……っ!」
背後から、雅子が健介の広い背中にすがりつくように抱きついてきた。
豊かな胸の感触が、背中のシャツ越しに伝わってくる。
「明日は、日曜日じゃないですか。……お願い、もう一晩だけ、ここにいてください」
「雅子。いくら明日が休みでも、これ以上甘えるわけには……」
「迷惑なんかじゃありません」
雅子の声は、微かに震えていた。
健介の背中に顔を押し当てたまま、切実な声で訴えかける。
「18年。私がどれだけ健介さんを想って、どれだけ遠くから見つめてきたか……。やっと、やっと想いが通じ合ったのに。ここで帰ってしまったら、また私、一人ぼっちに戻っちゃう……っ」
「……」
「お願い……もう一晩だけ。健介さんの愛を、私にください」
健介は、雅子の涙声に、足を止めた。
18年という、気が遠くなるほどの年月。
自分が妻と家庭を築いていた間も。
派閥争いから距離を置き、窓際へ追いやられた今も。
雅子は、あの頃の想いを胸の奥に留めて生きてきたのだ。
その年月に胸を打たれた。
だが、ただ気の毒だから残るのではない。
健介自身も、今はまだ彼女と離れたくなかった。
「……本当に、君には敵わないな」
健介は深くため息をつき、振り返って雅子の身体を優しく抱きしめ返した。
見上げた雅子の瞳は涙で潤み、パァッと花が咲いたように嬉しそうな光を宿していた。
「健介さん……っ」
健介が唇を重ねると、雅子はつま先立ちになって健介の首に腕を絡ませ、貪るようにそのキスに応えた。
「俺も、今夜はここにいたい」
健介が告げると、雅子は深く頷いた。
二人は手をつないで寝室へ向かった。
名前を呼び、言葉を交わし、互いの温もりに身を寄せる。
長く待ち続けた夜は、今度はためらいよりも安堵に満ちていた。
◇
「……んっ」
遮光カーテンの隙間から、眩しい朝日が一本の光の筋となってベッドに差し込んでいた。
健介が目を覚ますと、隣では雅子が、健介の腕を枕にして深い寝息を立てていた。
カーテンの向こうから、休日の街の音がかすかに届いていた。
「……」
健介は昨夜の穏やかな時間を思い返し、小さく息を吐いた。
腕が動いた気配で、雅子もゆっくりと瞼を開く。
「……おはよう、雅子」
「おはようございます、健介さん」
雅子は少し照れたように微笑み、健介の肩に頬を寄せた。
「……昔、麻由美から少しだけ相談されたことがあるんです」
「麻由美から?」
「夫婦の時間に求めるものが、うまく合わないって。私が聞いた頃は、それも二人の間に距離ができた大きな理由の一つだったみたいで」
健介はしばらく黙り、視線を落とした。
自分にも、心当たりはある。
だが、それは雅子が過去に聞いた話だ。
今の麻由美が何を思っているのかまで、分かるわけではなかった。
「……そうか。君に相談していたのか」
「はい。でも、今の麻由美の気持ちは、私にも分かりません」
雅子はそう言い、少しだけ間を置いた。
「私が言えるのは、自分の気持ちだけです。……今、健介さんがここにいてくれて、嬉しい」
その真っ直ぐな言葉に、健介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが、同時に現実的な問題が頭をもたげる。
「雅子……気持ちは本当に嬉しい。だけど、俺は結婚している。麻由美と離婚することは、出来ないんだ」
「分かってますよ、そんなこと」
健介が申し訳なさそうに言葉を紡ぐと、雅子がスッと口元に人差し指を当てて制した。
「私、親友の旦那さんを奪って、家庭を壊すようなことを求めるつもりはありません」
「え……?」
「18年間の想いを聞いてもらえて、健介さんも自分の気持ちでここにいてくれた。……それが、嬉しいんです」
雅子は健介の胸板に頬をすり寄せ、愛おしそうに目を細めた。
「だから、会社でも今まで通り。何も変わらない『冴えないおじさん』と『裏ボス』のままでいましょう? その方が、スリルがあって楽しいですし」
誰かの代わりになろうとするのではなく、今の二人の時間を大切にしたい。
少なくとも、健介にはそう聞こえた。
健介はホッと胸を撫で下ろすと同時に、彼女の想いを軽く扱いたくないと感じていた。
「……雅子。本当に、君って人は」
健介が感動して彼女を抱きしめようとした、その時だった。
「ただ……そうですね。最後に一つだけ」
雅子は健介の腕をすり抜け、ベッドの上に正座して、悪戯っぽい、しかしどこか凄みのある笑顔を浮かべた。
「子供の世話なら、私も案外向いてるかもしれませんよ。……なんて」
「急に何を言い出すんだ、雅子」
「冗談です。今はただ、ちょっと困らせてみたかっただけ」
雅子が笑うと、健介も呆れたように笑い返した。
それ以上、子供の話は続かなかった。
「……ところで健介さん。私『以外』の第三課の女の子とも、寝たでしょ?」
「――っっ!!??」
今度こそ、健介は言葉に詰まった。
全身の毛穴が開き、滝のような冷や汗が吹き出す。
「な、何を急に……」
健介は返す言葉を探したが、うまく取り繕えなかった。
雅子は答えに詰まる健介の顔を、探るようにじっと見つめていた。
「じゃあ、明日、星野さんか佐々木さんに聞いてみようかしら……なんてね。そんなことしませんから、その顔はやめてください」
「……っ」
雅子は笑いを収め、少し身を引いた。
「困らせてごめんなさい。誰かの秘密を聞き出したいわけじゃないんです」
健介は少しだけ肩の力を抜いた。
からかわれていることは分かる。
それでも、二人のことをどう話すかは、自分で考えなければならなかった。
「私は、健介さんの味方でいたい。話せることだけでいいから、一人で抱え込まないでほしいんです」
雅子の瞳が、冗談めいた光を消し、深く、真剣な眼差しへと変わる。
18年前に助けられた相手を、今度は自分が支えたい。
その想いが伝わる声だった。
「……」
健介は迷った。
星野佳奈も佐々木澪も、大切な相手だ。
だからこそ、二人の私生活を勝手に話すことはできない。
「……二人とも、俺にとって特別な相手なんだ」
健介は自分で言葉を選び、そこだけを伝えた。
「だけど、詳しいことは話さない。俺一人の秘密じゃないから」
「はい。それで十分です」
雅子は頷いた。
その先を聞こうとしない彼女を見て、健介は静かに息を吐いた。
雅子は何かを咎めることもなく、ただ隣にいてくれた。
◇
昼過ぎ。
すっかり日も高くなった頃、健介はスーツを着込み、雅子のマンションの玄関に立っていた。
「じゃあ、帰るよ。……色々と、本当に驚かされた二日間だった」
健介が苦笑しながら言うと、雅子も部屋着のまま見送りに立ち、優しく微笑んだ。
「気をつけて帰ってくださいね。……これから、会社で何かあったら、すぐに私に連絡してください」
雅子は健介のネクタイを直すふりをして、そっと彼の胸元に触れた。
「18年前は、私が助けられてばかりだったけど。……今度は、私が健介さんを助ける番ですから」
その言葉には、営業第三課の『裏ボス』としての頼もしさと、一人の女としての深い愛情が満ち溢れていた。
「……ありがとう」
健介がそう応えると、雅子は背伸びをして、健介の唇に深く、熱いキスを落とした。
チュッ、と小さな音を立てて唇が離れる。
「じゃあ、また月曜日に。……沢村さん」
雅子は妖艶に微笑み、会社での呼び名で彼を見送った。
健介は「ああ」と短く返し、静かにドアを閉めた。
マンションのエレベーターに乗り込みながら、健介は小さく息を吐き出した。
そして秋晴れの空の下、少しだけ足取りを軽くして自分のマンションへと帰っていくのだった。




