第39話:嵐の予兆
日曜日の昼過ぎ。
秋晴れの高い空の下、健介は自分の住むマンションへ向かってゆっくりと歩を進めていた。
一昨日から今朝にかけての大橋雅子との濃密な時間。
18年間も自分を想い続けてくれた彼女の愛情は、健介の胸の奥に深く、静かな熱を灯していた。
健介は離婚できないと伝え、雅子は家庭を壊すことを求めないと答えた。
それでも、互いに相手を大切に思う気持ちは伝え合えた。
(……大橋雅子。敵わないな)
左遷され、『窓際族』として気配を消して生きるだけの虚無な日々だったはずだ。
それがいつの間にか、第三課の女性たちの中心で、抜け出せない蜘蛛の巣に囚われている。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、男としての心地よい充実感すら感じている自分がいる。
その心地よさが、健介の『油断』を招いていた。
「ふぅ……」
マンションの自室の前に到着し、健介はポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
玄関に入り、靴を脱ごうと視線を落とした瞬間。
「――っ」
健介の動きが、その場でピタリと止まった。
見覚えのあるスニーカーがちょこんと揃えられていたのだ。
一人暮らしをしているはずの義娘、結愛のものだった。
(しまった……!!)
すっかり油断していた。
金曜日の夜に帰ってきた姿を見かけたが、もう自分のマンションに帰っているものだとばかり思っていた。
まさか日曜日の昼までいるとは、少しも考えていなかった。
健介の脳内にけたたましい警報が鳴り響くが、時すでに遅しだった。
「おかえりなさい」
リビングのドアがガチャリと開き、部屋着姿の結愛が顔を出した。
手にはスマートフォンを握りしめ、ひょっこりと顔を出したその表情は、普段と変わらないように見える。
「お、おう……ただいま、結愛。来てたのか」
健介は必死にポーカーフェイスを取り繕い、何食わぬ顔で靴を脱いで廊下に上がった。
心臓の鼓動が早まるのを悟られないよう、努めてゆっくりとジャケットを脱ぐ。
「うん。お父さん、金曜日からずっと帰ってこなかったね」
結愛は廊下を進んでくる健介の前に立ち塞がるようにして、ジトッとした目を向けた。
「また接待でお泊まりだったの?」
「ああ」
健介が頷くと、結愛の視線が健介の手に持っている小さなビジネスバッグへと向けられた。
「ふーん。……その割には荷物ないね」
「こ、これはその……」
健介が戸惑っていると、結愛はスッと健介の胸元に顔を近づけてきた。
そして、クンクンと鼻を鳴らし、健介のスーツの匂いを嗅いだのだ。
「……あ」
健介の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。
金曜の深夜から、雅子の部屋で二晩を過ごした。
帰る前にはシャワーを浴び、シャツやスーツの皺も整えたつもりだった。
それでも、近くで寄り添っていた時の香りが、襟元に僅かに残っていたのかもしれない。
結愛はゆっくりと顔を離し、健介を見上げた。
怒りや軽蔑ではなく、どこか呆れたような、そして諦めたような表情だった。
「……そういうことなんだ」
結愛の口からこぼれた、冷たい一言。
健介は頭を抱えたくなった。
女性と外泊してきたのではないかと、疑われたらしい。
まだ大学生の多感な娘だ。
父親の生々しい浮気の事実を知れば、軽蔑され、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。
最悪の場合、大阪にいる麻由美に連絡がいき、本当に家庭が崩壊してしまう。
「結愛、これは違うんだ。その……色々と複雑な事情があって……」
健介がしどろもどろになって弁明しようとした、その時だった。
「早く脱いで」
「……え?」
黙り込む健介に対し、結愛はため息をつきながら手を差し出した。
「そのシャツ。洗濯して、アイロンもかけてあげる。スーツは匂いが残ってるから、少し風を通して手入れしとくね」
「ゆ、結愛……?」
「あと、お父さんもシャワー浴びてきたほうがいいよ」
結愛は健介を責め立てることも、問い詰めることもしなかった。
素直に心配だとは言わず、いつものぶっきらぼうな口調で世話を焼こうとする。
「わ、わかった……」
健介は状況が飲み込めないまま、言われるがままに洗面所へと向かい、スーツを脱いで結愛に渡し、シャワールームへと逃げ込んだ。
熱いシャワーを浴びながら、健介は深く息を吐き出した。
結愛はなぜ怒らないのだろう。
義理とはいえ、母親を裏切っている父親を、なぜこうも甲斐甲斐しく世話してくれるのか。
それとも、下手に怒るよりも、こうして静かに世話を焼かれる方が、罪悪感を煽られると知っての行動なのか。
(……本当に、女性という生き物は分からないな)
シャワーを上がり、スウェットに着替えてリビングに戻ると、キッチンからバターとケチャップの焦げる香ばしい湯気が立ち上っていた。
「お父さん、朝ご飯は食べてきたと思うけど、お昼はまだでしょ? オムライス作るから、ちょっと待ってて」
キッチンに立つ結愛が、フライパンでチキンライスを炒めながら言った。
その手つきは、一人暮らしを始めてから自炊を覚えたのか、少し前よりもずっと手際が良くなっている。
「ああ……すまないな」
健介はダイニングテーブルに座り、娘の小さな背中をぼんやりと眺めた。
やがて、綺麗な薄焼き卵で包まれたオムライスが2つ、テーブルに並べられた。
ケチャップで適当なジグザグ模様が描かれている。
「いただきます」
一口食べると、素朴だがホッとする味が口の中に広がった。
向かいの席では、結愛が黙々とオムライスを口に運んでいる。
先ほどの女性の匂いについての追及は、一切ない。
カチャカチャと、スプーンが皿に当たる音だけがリビングに響く。
奇妙な沈黙の中、健介は喉に詰まりそうになるのを必死にお茶で流し込みながら、二人で食事を終えた。
食後、結愛は洗ったシャツを乾かし、その間にスーツへブラシをかけた。
健介も洗い物を済ませ、風を通せる場所へハンガーを移す。
午後のひとときをそうして過ごし、シャツが乾くと、結愛は丁寧にアイロンをかけてくれた。
「……よし。匂いも気にならなくなったよ」
ハンガーに掛けられたスーツをリビングのドア枠に吊るし、結愛は満足そうに手を叩いた。
「ありがとう、結愛」
「別に。暇だったからついでにやっただけ」
結愛はぶっきらぼうに返し、自分のトートバッグを肩にかけた。
「じゃあ、私、自分のマンション帰るね」
「ああ、気をつけてな。送っていこうか?」
「いいよ。駅、すぐそこなんだから」
健介は玄関まで見送りに立った。
結愛がスニーカーを履き、ドアノブに手をかけた時だった。
結愛はふと動きを止め、背中を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「もし、お母さんとお父さんが離婚したら……私とお父さんって、他人になっちゃうんだね」
「――えっ?」
結愛はドアノブに置いた手を握り直し、俯いた。
「戸籍の上では、そうでしょ。……血も繋がってないし」
「そんなこと、心配しなくていい。結愛は俺の娘だよ」
「……娘、か」
「ん?」
結愛はゆっくりと顔を上げた。
「……ううん。分かった。じゃあね。また来るから」
いつものぶっきらぼうな声で言い、結愛は廊下へと出ていった。
バタン、とドアが閉まる音が、静かな玄関に響く。
健介は閉じたドアの前で、しばらく立ち尽くした。
結愛は、自分まで失ってしまうのではないかと不安だったのだ。
黙って靴を磨き、食事を作ってくれていた娘を思うと、胸が痛んだ。
健介はゆっくりと視線を落とした。
「……」
三和土の端に置かれた、明日の出社用の黒い革靴。
それは、さっきまで結愛が履いていたスニーカーのすぐ隣で、ピカピカに磨き上げられ、新品のような光沢を放っていた。
健介は額に手を当て、深く、深くため息をついた。
◇
そして翌朝。
月曜日。
営業第三課のオフィスは、週明け特有の静けさと、キーボードを叩く乾いた音に包まれていた。
しかし、健介のノートパソコンのデスクトップ上だけは、まるで嵐のような喧騒に見舞われていた。
ピコンッ、ピコンッ、ピコンッ!
画面の右下に表示される社内チャットの通知ウィンドウが、朝から狂ったように点滅を繰り返しているのだ。
『沢村さん! このデータ集計の関数、なぜかエラーになっちゃうんですけど、どうしてですか!?』
『沢村さん、先週お話しした東都リテールの資料、ここの言い回しはこれで合ってますか?』
『沢村さーん、Excelのマクロがうまく動きません(泣)』
『あとで私の席まで見に来てもらえませんか?』
送信者は、星野佳奈。
そして、もう一つのウィンドウも負けじと点滅している。
『沢村さん。帝王フーズの本契約に向けた追加条件の調整について、少し相談に乗ってもらえませんか?』
『この前の滝田ビバレッジの見積もり、少し粗利を削りすぎた気がするんですけど、沢村さんはどう思います?』
『ねえ、今度のお昼休み、時間ありますか?』
『ていうか、先週お願いした件、まだ返事もらってないんですけど。まさか忘れてませんよね?』
こちらは、佐々木澪。
健介は画面を見つめながら、内心で「やれやれ」と重いため息をついた。
理由は明白だ。
週末の二日間、雅子の部屋でずっと一緒にいた健介は、佳奈と澪からのLINEを完全に未読スルーしてしまっていたのだ。
日曜日の夜、結愛が帰った後に慌てて「急に娘が泊まりに来ていて、スマートフォンを見られなかった」と二人に返信したが、時すでに遅し。
二人からは「そうですか。ご家族との時間を大切にしてくださいね」「娘さん、お父さんのこと大好きなんですね」と返ってきた。
文字面だけでも分かるほど強烈に拗ねた、機嫌の悪い返信だった。
そして迎えた月曜日の朝。
二人はオフィスで親密な様子を見せることはしないものの、土日放置された恨みを晴らし、構ってもらおうと必死にチャットを連投してきているのだ。
佳奈の質問など、マニュアルを見れば3分で解決するような初歩的なものばかりだ。
澪に至っては、普段なら一人でこなすような業務の相談を持ちかけてきている。
(仕事の質問ならチャットして当然、という建前か。……二人とも、可愛らしくもしたたかだな)
健介は苦笑しながら、二人のチャットに一つ一つ、丁寧に、そして平等に返信を打ち込んでいった。
誰にもバレないように、社内システムを使って繰り広げられる、女たちの静かな牽制と承認欲求のぶつけ合い。
そこへ、さらに「ピコンッ」と新たなウィンドウが立ち上がった。
『送信者:大橋雅子』
健介の指先がピタリと止まる。
『なんだか朝からすごくタイピングが忙しそうだけど。……誰かさんたちから、週末のことで怒られてでもいるの?(笑)』
完全にすべてを見透かした、悪戯っぽいメッセージ。
健介は柚木結衣の席の向こうへ視線を向けた。
そこには、自分のデスクでコーヒーを啜りながら、こちらを見て微笑む雅子の姿があった。
背筋に冷や汗が流れる。
この『裏ボス』である頼もしい共犯者は、二人が拗ねている理由を察しているらしい。
週末の行き先を知る当事者として、このドタバタ劇を楽しんでいるようだった。
健介は必死にポーカーフェイスを保った。
「うーん、文字が小さくて最近目が見えにくくてねぇ」と、わざとらしく独り言を呟きながら、目を細めて老眼のふりをする。
もちろん、雅子にはすべてお見通しだろうが。
(……まったく。平穏な窓際ライフはいずこへ)
健介が心の中で呆れ返り、キーボードを叩く指を止めようとした、その時だった。
バンッ!!
オフィスの静寂を切り裂くように、フロアの入り口のドアが勢いよく開け放たれた。
全員の視線が一斉に入り口へと向く。
佳奈も澪も、そして雅子も、驚いて手を止めた。
そこに立っていたのは、第三課の『特攻隊長』、橘咲だった。
普段の強気な彼女の顔は、怒りで真っ赤に染まり、肩で荒い息をしている。
手には、何かの書類がぐしゃぐしゃに握りしめられていた。
咲は誰の目も気にすることなく、ズカズカとヒールを鳴らしてフロアを横切り、一番奥に座る課長の霧島玲奈のデスクの前に立ち塞がった。
「課長!!」
咲の怒号が、オフィスに響き渡る。
玲奈はキーボードを叩く手を止め、冷ややかな視線を咲に向けた。
「……何事ですか、橘さん。社内で大声を出さないでください」
「大声も出しますよ!! どういうことですか、これ!!」
咲は握りしめていた書類を、バンッ! と玲奈のデスクに叩きつけた。
「どうして『サンライズマート』が第一課の担当になってるんですか!?」




