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46歳のおじさん、左遷後に人生最大のモテ期到来  作者: とん汁ごはん
第4章:橘咲

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第40話:特攻隊長の涙

「どうして『サンライズマート』が第一課の担当になってるんですか!?」


『特攻隊長』の橘咲の怒声が、営業第三課のオフィスに響き渡る。


課長の霧島玲奈のデスクには、叩きつけられたばかりの、しわだらけの数枚の書類があった。


オフィスにいた全員の視線が、一斉にその書類へと注がれた。


一番上にあるのは、『決裁後担当変更申請書』。


そしてその下には、『引継ぎミーティング連絡書』と印字されている。


差出人の欄には、営業本部の中で最も強大な権力を持つ部署――営業第一課の名前があった。


「私が8ヶ月間、毎日足繁く通って、泥水すすってやっと本契約まで漕ぎ着けたサンライズマートの大型案件なんですよ……!」


肩で荒い息をする咲の顔は、怒りと悔しさで真っ赤に染まっていた。


玲奈は叩きつけられた書類に視線を落とし、小さく息を吐いた。


その表情には、いつもの氷のような冷徹さが張り付いている。


「……落ち着きなさい、橘さん」


「落ち着けるわけないでしょう! 今朝、メールボックスを見たら第一課からこのふざけたミーティング連絡のメールが入ってたんです! 事実かどうか確かめるために、さっき第一課のフロアに怒鳴り込みに行きましたよ!」


咲は悔しさに唇を震わせ、両手を強く握りしめた。


「そしたら、向こうの課長に鼻で笑われました。『サンライズマートほどの巨大チェーンの口座が開いたのですから、会社の要である第一課が担当するのは当然でしょう。下準備、ご苦労様でした。あとはこちらで適切に処理しますから、どうぞご安心を』って……まるで下請けの雑用係みたいにあしらわれたんですよ!」


咲の悲痛な叫びに、第三課のメンバーたちは皆、やり場のない怒りに顔を伏せた。


サンライズマート。


それは、全国に数百店舗を展開する超大型のスーパーマーケットチェーンだ。


企業規模にかかわらず新規開拓できる第三課でも、この案件をそのまま担当し続けられるかは別だった。


現在の会社組織において、営業本部は明確なヒエラルキーと役割分担で区切られている。


対象は、GMSと呼ばれる総合スーパーをはじめ、スーパーマーケット、ドラッグストア、ホームセンター、飲食チェーンなどとの案件だ。


そのうち年間取引見込額が50億円以上になったものは、原則として広域営業部の営業第一課へ移管される。


そうした大型案件を担うのが、人員80名超を誇る最大の精鋭部隊、営業第一課だ。


次いで、コンビニエンスストアや全国の自動販売機網など、単一で巨大なインフラを担当するのが営業第二課。


こちらも人員は30名と多い。


対して、営業第三課は、首都圏での新規開拓を中心に担う、わずか9名の部署だ。


かつての販売部時代は、500名を超える営業マンがひしめき合い、一人一人が自由に様々な企業へとアタックをかけていた。


しかし、小売業界の激しい淘汰と統廃合が進み、少数の巨大企業が市場の大半を握るようになると、会社もそれに対応すべく人員を大幅に削減・再編した。


その結果、巨大案件を担う第一課や第二課に対し、第三課は難易度が高すぎて誰も手を出さない荒野を開拓させられる――咲には、それが残酷なカースト制度に思えてならなかった。


サンライズマートも、今回の年間取引見込額では第一課への移管基準を超えていた。


しかし、過去に第一課の営業マンが先方の逆鱗に触れるような致命的なミスを犯し、完全に取引を断絶されてしまったのだ。


第一課の誰もが匙を投げ、長年「出入り禁止」のブラックリストとして放置されていた案件。


それを「新規開拓リスト」のゴミの山から拾い上げ、たった一人で挑み続けたのが咲だった。


「……どうして、事前に一言も教えてくれなかったんですか」


咲の怒りの矛先が、再び玲奈へと向けられる。


「私、8ヶ月間も通い詰めたんですよ……! 門前払いされても、雨の日に外で何時間も出待ちしても、怒鳴られてカタログを投げ捨てられても! 諦めずに何度も何度も提案書を書き直して、やっと……先週の金曜日、やっと本契約のハンコをもらえたのに……!」


「……」


「課長、知ってたんですよね? なんで、私の案件が第一課に奪われるのを黙ってたんですか!」


咲の声が、静かなオフィスに響く。


オフィスにいる誰もが息を潜めていた。


咲には、玲奈が何を考えているのか分からなかった。


机の下に隠れた手の動きまでは見えない。


「……私にとっても、寝耳に水だったのよ」


沈黙を破り、玲奈が低く、絞り出すような声で言った。


「先週の金曜日の夕方、突然営業本部長から呼び出されたわ。そして、この決定を通達されたの」


「っ……! じゃあ、課長は反対してくれなかったんですか!?」


「サンライズマートは、規模が大きすぎるわ。口座が開いた以上、あとは莫大な予算と人員を割いて全社的に取り組むべき巨大プロジェクトになる。わずか9名しかいない私たち第三課だけで対応できる規模じゃない。だから、人員の豊富な第一課へ移管する……それが、営業本部の下した『決定』よ」


玲奈は冷徹な事実だけを並べた。


咲は絶望に顔を歪め、「そんな……」と力なく呟いた。


「課長として、営業本部の決定に逆らうことはできない。それに、この担当変更申請は、すでに社長決裁まで終わっているわ。……もう、どうしようもないのよ」


社長決裁。


その言葉が出た瞬間、これがただの部署間の揉め事ではなく、会社組織全体としての決定事項であることが確定した。


咲には、周到に手を回されていたとしか思えなかった。


第一課の連中は、咲が泥水すすって本契約を取ってくるのを高みの見物を決め込みながら待ち構え、決まった瞬間に本部長や社長を丸め込んで横取りしたのではないか。


派閥の力。


組織の論理。


現場で泥水をすする人間の感情など一切考慮しない、巨大な歯車の暴力だ。


玲奈は、決して部下を切り捨てるような冷酷な人間ではないと、咲は思っていた。


仕事に対して異常なほど真摯で、不器用なだけだ。


彼女とて、手塩にかけた部下の手柄を奪われて、悔しくないはずがない。


絞り出すような声には、無念ささえ滲んでいる気がした。


それでも、強大な派閥の力と組織の決定には、彼女の力ではどうやっても抗えないというのか。


「……諦めなさい、橘さん」


玲奈は、氷のように冷たい声で言い放った。


「サンライズマートの件は、もう第一課のものよ。引継ぎの資料をまとめて、明日のミーティングに出なさい。そして、あなたはまた今日から、新しい開拓先の企業リストを回りなさい」


「……諦める?」


咲の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


怒りではない。


それは、自分のすべてを注ぎ込んだ仕事と、そこにあった人間と人間の繋がりを無惨に踏みにじられたことへの、深すぎる悲しみだった。


「理屈は……頭では分かります。会社組織なんだから、大きい部署が担当する方が効率がいいことも……」


咲はボロボロと涙を流しながら、声を震わせて訴えた。


「でも、納得できない……! できないですよ……っ! 私はただ数字が欲しかったんじゃない! あの気難しかった高橋バイヤーが、先週、最後に私の手を握って笑ってくれたんです! 『君の熱意に負けたよ。これから一緒に頑張りましょう、橘さん』って……そう言ってくれたんです!」


人と人がぶつかり合い、最後に心が通じ合った瞬間の、営業担当としての無上の喜び。


それを、会社の都合という紙切れ1枚で、「はい、今日から担当は別の人間です」と切り捨てられる。


バイヤーの気持ちを裏切るような真似が、咲にはどうしても許せなかったのだ。


「これじゃあ、私がただハンコをもらうためだけに近づいたみたいじゃないですか……っ。あのお客さんの信頼を、私が裏切ることになるんですよ……!」


むせび泣く咲の姿に、オフィスにいる星野佳奈や佐々木澪、そして他のメンバーたちも皆、下を向いた。


しかし、玲奈は感情の読めない声で、淡々と告げた。


「あの巨大なサンライズマートの口座を開拓したという事実は消えない。手柄として、あなたの今期の成績と評価にはしっかり反映されるよう、私から本部に口添えしておくわ。……それで納得しなさい」


「成績の話なんかしてないッ!!」


咲が叫ぶ。


だが、玲奈はそれ以上咲と目を合わせることなく、ノートパソコンのモニターへと視線を戻した。


「……佐々木さん、星野さん」


玲奈は、まるで今泣き叫んでいる咲がそこに見えないかのように、極めてクールな、事務的なトーンで別のメンバーに指示を出し始めた。


「先日の帝王フーズの追加提案の件と、東都リテールのデータ集計。今日の午後イチまでに私のところに上げてちょうだい。それと藤本さん、午後の会議の資料は――」


日常の、冷徹な業務の再開。


それは咲に対する「これ以上騒ぐな」という、上司としての明確なシャットアウトだった。


「……っ」


咲はギリッと歯を食いしばり、涙を乱暴にスーツの袖で拭い去った。


「私の……これまでの努力は、なんだったんですか!!」


オフィスに響き渡る、やり場のない叫び。


咲はデスクに叩きつけた書類をひったくるように掴むと、自分のバッグを肩に引っかけ、ヒールを激しく鳴らしてオフィスの出口へと向かった。


「外回り、行ってきます!!」


バンッ!! と、ドアが壊れるほどの勢いで閉められ、咲の姿がオフィスから消えた。



◇



健介の耳に残ったのは、キーボードを叩く乾いた音だけだった。


重く、息が詰まるような静寂に、誰も言葉を発しようとしない。


佳奈は泣きそうな顔でノートパソコンの画面を見つめ、澪も苛立ちを隠せないようにマウスを強く握りしめている。


視線の先では、玲奈がモニターを睨みつけながら、ただ黙々と、機械のようにタイピングを続けていた。


これが、会社という組織の現実だ。


熱意や誠実さなど、巨大なシステムの前では何の力も持たない。


泣きながら飛び出していった『特攻隊長』の無念を晴らす術など、この理不尽な組織のルールには、何一つ用意されていないように思えた。

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