第41話:異例の引継ぎ
橘咲が悔し涙を流しながらオフィスを飛び出していった後、第三課のフロアには、重苦しい沈黙が取り残されていた。
誰もがノートパソコンのモニターに視線を固定したまま、カタカタと虚しいタイピング音だけを響かせている。
理不尽だと分かっていても、巨大な会社組織の決定には逆らえない。
その無力感が、オフィス全体を分厚い雲のように覆っていた。
そんな中、健介のノートパソコンの画面の隅で、社内チャットの通知アイコンが静かに点滅した。
『沢村さん、あれ、どうにもならないんですかね……』
『咲さん、あんなに頑張ってたのに。あんまりです』
別々のチャットウィンドウに、佐々木澪と星野佳奈から、それぞれメッセージが届いていた。
健介を頼るような、すがるような短いメッセージ。
健介は小さく息を吐き出すと、二人のやるせない気持ちに優しく寄り添うように、それぞれのチャットへ同じ内容の返信を打ち込んだ。
『悔しい気持ちは、痛いほどよくわかるよ。橘さんの努力は、みんながちゃんと見ている』
『でも、こればかりは僕たち現場の人間ではどうにもならないんだ』
健介は少し手を止め、現実を冷静に伝えるための言葉を選んだ。
『サンライズマートのような全国展開の巨大チェーンを相手にするには、これから莫大な人員と予算が必要になってくる。悔しいけれど、わずか9名しかいない第三課では、いずれ橘さん一人を潰してしまうことになりかねない。年間取引見込額が50億円以上の案件を原則として第一課が担当するのは、会社の方針として間違ってはいないんだよ』
健介がそれぞれにメッセージを送信すると、二つのウィンドウに『既読』がついた。
しばらくして、『頭ではわかってるんですけど……』『やっぱり、悔しいです』と、しゅんとしたような返信が届く。
健介は『今はそっとしておいてあげよう。僕たちがしっかり自分の仕事をすることが、今の橘さんへの一番の応援になる』とそれぞれに返し、二つのチャットウィンドウを閉じた。
彼女たちに伝えた通り、大型案件を人員と予算が潤沢な第一課へ移管すること自体は正しい。
しかし――健介が抱いていた本当の「違和感」は、そこではなかった。
(……おかしい。いくらなんでも、やり方が異例すぎる)
営業本部の表も裏も知っている健介だからこそ、この決定に潜む「異常性」がはっきりと見えていたのだ。
通常、第三課のような新規開拓メインの部署が巨大な案件を釣り上げた場合、会社のルールとして第一課に引き継ぐのは珍しくない。
だが、そのプロセスには細心の注意が払われる。
クライアントとの人間関係を構築してきた元の担当者と、引継ぎ先の第一課の担当者が、数ヶ月単位で同行訪問を重ねるのだ。
本来なら、最初は咲がメインで話を進め、徐々に第一課の担当者にバトンを渡していく。
ある程度の期間をかけて軌道に乗せ、先方の不安を取り除き、信頼を損なわないよう緩やかに担当を移行させる。
それが「せっかくの契約を潰さない」ための絶対的なセオリーだ。
だが今回、第一課は本契約締結とほぼ同時に、有無を言わさず担当を奪い取った。
咲が激怒するのは当然として、これではクライアントの心証を損ね、上手くいっていた取引が初動で頓挫する可能性すらある。
第一課のベテラン連中が、そんな初歩的なリスクを知らないはずがないのだ。
しかも、課長の霧島玲奈ですら、社長決裁が下りるまでその事実を全く知らされていなかったという。
(根回しの期間すら惜しんだ? ……いや、誰かが意図的に情報を遮断して、社長決裁まで一気に押し通したんだ。一体なぜ、第一課はそこまで焦る必要がある?)
手柄を焦った誰かの策謀か。
あるいは、強引にでも数字を欲しがる別の理由があるのか。
健介が静かに思考を巡らせていると、課長席の電話が鳴った。
受話器を取った玲奈の顔が、わずかに強張るのが見えた。
「……はい。すぐに向かいます」
玲奈は短く応え、受話器を置いた。
そして、立ち上がりながら誰に言うでもなく呟いた。
「営業本部長からの呼び出しよ。本部に行ってくるわ」
玲奈はジャケットを羽織り、ヒールを鳴らしてオフィスを出て行った。
その細い背中は、見えない重圧に一人で耐えようと気を張っているように見えた。
◇
広域営業部のフロアは、第三課のある東日本営業部とは空気が違う。
青葉飲料の営業本部において第一課を擁するこの部署は、まさにエリートの巣窟であり、社内政治の中心地でもあった。
すれ違う社員たちの目つきにも、どこか特権意識のようなものが滲んでいる。
玲奈は本部長に指定された応接室の前に立ち、小さく深呼吸をしてから、重厚なドアをノックして開けた。
「失礼いたします。東日本営業部、第三課の霧島です」
しかし、部屋の中を見て、玲奈は一瞬だけ歩みを止めた。
そこに、呼び出しの主であるはずの営業本部長の姿はなかった。
代わりにソファに陣取り、待ち構えていたのは3人の人物だった。
広域営業部長の榊原浩一。
51歳。
そして、第一課の担当課長の安西智之と、同じく担当課長の黒木沙耶。
安西は42歳、沙耶は38歳だ。
完全に「騙し討ち」だった。
玲奈が静かにドアを閉めて入室すると、安西がソファにふんぞり返ったまま、値踏みするような、そして明確な侮蔑を含んだ視線を向けてきた。
「霧島君。今朝は随分と賑やかだったね。君のところの橘が、うちに怒鳴り込んできたよ」
安西の言葉に、玲奈は表情を崩さずに深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。担当変更の件、本人への事前の情報共有がなく、感情的になってしまったようで」
安西の隣で、榊原部長が不機嫌そうに眉をひそめた。
「情報共有だと? 教育がなってないんじゃないか」
「第三課が所属する東日本営業部の吉岡部長には、本部の決定として既に話は通してあるはずだ。下への伝達が遅れたのはそっちの落ち度だろう。自分の部下くらい、しっかり手綱を握っておけ」
(吉岡部長が……?)
玲奈は、頭を下げたまま奥歯を強く噛み締めた。
直属の上司である東日本営業部長の吉岡正臣は、事なかれ主義で他部署との摩擦を極端に嫌う男だ。
おそらく第一課の強引な横取りに抗議することもなく、あっさりとハンコを押したのだろう。
そして、面倒な報告を自分に伝えるのを意図的に先延ばしにしたのではないか。
そう考えると、咲が第一課へ怒鳴り込むまで何もできなかった自分が、なおさら惨めに思えた。
「……承知いたしました。しっかりと指導いたします」
玲奈は屈辱に耐え、ただその言葉を絞り出すしかなかった。
巨大な組織の歯車の中では、自分を守ってくれない上司のもとで働く第三課の課長という肩書きなど、何の力も持たないことをまざまざと見せつけられていた。
「わかればいい」
榊原部長と安西は、用は済んだとばかりに立ち上がり、そそくさと応接室を出て行った。
あとに残されたのは、玲奈と、第一課の担当課長である沙耶の二人だけだった。
「玲奈、お疲れ様。安西さん、少し言い方がキツいから気にしないでね」
パタン、とドアが閉まった瞬間、沙耶が気遣うような、ひどく甘い声を出した。
玲奈と同い年で、新卒入社の同期でもある彼女は、柔和な笑みを浮かべてソファに優雅に腰掛けていた。
「……気にしてないわ。沙耶も、第一課の課長なんて大変ね」
「ふふっ、やりがいはあるわよ。サンライズマートの件は残念だったけど、第一課の総力を挙げて必ず成功させるから、安心して」
表面上は、互いの苦労を労い合う、美しき同期の絆。
しかし、玲奈は沙耶の笑顔の奥にある「優越感」を見逃さなかった。
(……勝ち誇ってるつもり? 役員に媚びを売って、美味しい案件だけをかすめ取って第一課に潜り込んだくせに)
玲奈の胸の中で、黒い感情が渦巻く。
入社以来、営業成績では常に玲奈が圧倒していた。
誰よりも泥臭く現場を回り、数字を作り上げ、先に課長に昇進したのも玲奈だ。
しかし、沙耶は上層部へのアピールと派閥の立ち回りに長けていた。
結果として、沙耶は「会社の要」である第一課の担当課長に抜擢され、玲奈は新規開拓という泥臭い第三課の課長に甘んじている。
沙耶の笑みには、こちらを見下すような、ひどく刺々しいものが滲んで見えた。
(自分は第一課だって、そんなに誇らしい? いずれ私を部下にでもするつもりなのかしら)
「それじゃ、私戻るわね。部下の子のメンタルケア、頑張って」
「ええ。ありがとう」
二人はそつのない営業スマイルを交わし、応接室を後にした。
別れ際、玲奈は肌を刺すような緊張を覚えた。
◇
それから、2週間の時が流れた。
第三課のオフィスは、相変わらずの日常を取り戻しつつあった。
咲は露骨に口数が減り、どこか影を落としたままではあったが、持ち前の気力で新たな開拓先へ飛び込み営業を再開していた。
時に無理をして明るく振る舞う彼女を見ると、健介も胸が痛んだ。だが、理不尽に耐え、泥水をすすりながらでも前を向くしかない。
それがサラリーマンの宿命だ。
健介もまた、いつも通り飄々とした態度で『窓際族』を演じながら、第一課の動向を密かに注視していた。
だが、恐れていたようなトラブルの話は聞こえてこない。
(僕の考えすぎだったか……? 案外、第一課のベテランたちがうまく引継ぎを進めているのかもしれないな)
健介が手元のExcelシートに視線を落とし、そう結論付けようとした、その時だった。
ジリリリリリリッ!!
静かなフロアに響き渡った内線電話の音に、第三課のメンバーがビクッと肩を揺らす。
受話器を取った玲奈の顔色が一瞬にして青ざめ、オフィス全体の空気が凍りついた。
「……え? い、いえ……そんなはずは……!」
玲奈の焦燥しきった声。
受話器から、漏れ聞こえるほどの怒鳴り声が返ってくる。
声からすると、電話の主は第一課の安西らしかった。
「一体、どういうことだ! なんてことをしてくれたんだ! 今すぐ橘を連れて第一課に来いッ!」
サンライズマートの案件で、何かが起きた。
それも、取り返しのつかない最悪の事態が。
健介はゆっくりと顔を上げ、青ざめて立ち尽くす玲奈と、事態を飲み込めず目を丸くしている咲を、静かに見つめた。
嵐の前の静けさは終わりを告げ、巨大な組織の歪みが、いよいよ第三課に牙を剥こうとしていた。




