第42話:濡れ衣
広域営業部のフロアは、東日本営業部のそれとは規模が全く違う。
人員80名超を誇る第一課と、30名の第二課。
100名以上の精鋭たちがひしめき合う巨大なフロアには、常に電話のベルと活気に満ちた声が飛び交い、フロア全体が青葉飲料の心臓部たる威圧感を放っていた。
そのフロアの最奥。
窓を背にした広域営業部長の榊原浩一の席の前に、課長の霧島玲奈と橘咲の二人が立たされていた。
周囲には第一課と第二課のエリートたちが集まり、興味本位と冷笑の入り混じった視線を二人に突き刺している。
まさに、巨大組織における公開処刑の場だった。
「……それで? 一体どういうつもりで、あんな真似をしたんだ」
榊原部長が、低い、地を這うような声で凄んだ。
その隣では、第一課の担当課長の安西智之が、腕を組みながら咲を憎々しげに睨みつけている。
「どういうつもり、とは……何のことでしょうか」
咲は戸惑いながらも、真っ直ぐに安西の目を見返した。
「とぼけるな! サンライズマートの高橋バイヤーだよ! 先方から突然、今回の契約を白紙に戻したいと連絡が入ったんだ!」
安西の怒号がフロアに響き渡る。
咲の肩がビクッと跳ねた。
白紙に戻す。
あの時、あんなに前向きに「これから一緒に頑張りましょう」と言ってくれていた高橋バイヤーが、そんなことを言い出すなんて。
「……私には、何のことか全く心当たりがありません」
「嘘をつけ!」
安西はバンッと榊原部長のデスクを叩き、咲に詰め寄った。
「うちの第一課の部下たちが、2週間前の引継ぎを踏まえて万全の提案書を準備し、今朝ようやく本格的な提案に伺ったんだ。だが、高橋バイヤーは最初からろくに話も聞かず、こちらの提案をすべて却下した。そして挙句の果てにこう言ったそうだ。『担当を橘さんに戻さないなら、今回の契約は全面見直しにする。つまり、白紙だ』とな!」
「えっ……」
咲は目を丸くした。
「お前、高橋バイヤーに何を吹き込んだ。本当は担当を離れたくなかったが、会社の命令で無理やり外された、とでも言って、会社への不平不満を並べ立てたんだろう!」
「そんなこと、一言も言ってません!」
咲は必死に首を振った。
「あの……第一課との引継ぎのあと、せめて私個人からも、これまでのお礼とお詫びを直接お伝えしなければ失礼だと思って、後日、単独で一度だけお伺いしました」
「その時に、あることないこと吹き込んだんだろうが!」
「違います! 高橋バイヤーから、どうして担当が変わるのかと聞かれたので、『これまで良くしていただいたことに報いられず残念ですが、これも会社員の定めですので。また機会がありましたら、よろしくお願いします』と……それしか、本当にそれしか言っていません!」
咲は、営業としての最低限の誠意と礼儀を尽くしただけだった。
不満を漏らすことなど、決してしていない。
それなのに、第一課はその挨拶を、今回の白紙撤回騒動の原因にしようとしている。
咲には、そうとしか思えなかった。
「そんな言い訳が通用するか! そもそも、なぜ第一課の引継ぎの場以外で、勝手に単独で先方に会いに行ってるんだ!」
「それは、私が開拓したお客様に、直接感謝を伝えるためで……」
「感謝だと? 笑わせるな」
安西は鼻で笑い、咲を頭の先から足の先まで舐め回すように見た。
そして、周囲に聞こえるような声で、極めて下劣な言葉を吐き捨てた。
「お前、もしかして高橋バイヤーと何かあったんじゃないだろうな。だから先方も、ここまでお前に固執するんじゃないのか?」
「――っ!」
咲の顔から、スッと血の気が引いた。
同時に、マグマのような怒りが全身を駆け巡る。
自分が8ヶ月間、雨の日も雪の日も泥水をすすって通い詰め、ようやく勝ち取った純粋な信頼を、これ以上ないほど汚い言葉で踏みにじられたのだ。
「そんな事実はありません!! その発言、セクハラになりますよ!?」
咲が激昂して食ってかかろうとした、その時だった。
「セクハラで訴えるなら、それもいいだろう」
安西に任せて黙っていた榊原部長が、冷ややかな声で咲の言葉を遮った。
「だがな。お前のその『自分勝手な誠意』とやらが、会社に莫大な損害を与えようとしていることは事実だ。第三課が東都リテールや帝王フーズの件で、少しばかり成果を出したつもりだろうがな。サンライズマートは規模が違う。もしこのまま契約が失われれば、年間で100億近い損失になる。その責任はすべて橘、お前に取ってもらう。……もちろん、上司である霧島、君にもだ」
榊原部長の冷酷な宣告。
二人を取り囲む社員たちからの、蔑むような視線。
それは、第三課という弱小部署の人間を完全に社会的に抹殺し、トカゲの尻尾切りにするという、絶対的な権力者からの恫喝だった。
「……っ」
玲奈は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
自分の一言で、ここまでこじれるはずはない。
第一課の引継ぎで何かあったのではないかと、咲は疑わずにいられなかった。
それをすべて第三課の「余計な挨拶」のせいにしているのではないか。
理不尽だ。
あまりにも卑劣だ。
ここで反論すれば、第三課は営業本部内で孤立し、潰される。
課長は、そう恐れているのだろうか。
「……大変、申し訳ありませんでした」
玲奈は屈辱に震えながら、深く、深く頭を下げた。
「か、課長!? どうして謝るんですか! 私たちは何も悪いことなんて――」
「黙りなさいッ!!」
玲奈の口から、今まで聞いたこともないような、悲痛で甲高い怒鳴り声が弾けた。
咲はビクッと肩を震わせ、信じられないという目で玲奈を見た。
「あなたのその自分勝手な態度が、今のこの事態を引き起こしたのよ! 組織の決定に従えないなら、営業を辞めなさい!」
玲奈の怒号が、フロアの空気を裂いた。
咲はショックのあまり言葉を失い、目からポロポロと大粒の涙をこぼした。
玲奈は、頭を下げたまま、身体の脇で指の関節が白くなるほど両手を強く握りしめていた。
その拳は、かすかに震えていた。
咲には、玲奈が何を堪えているのか分からなかった。
「……騒々しいな。何事だ」
その時、二人を囲む人垣の向こうから、低く威厳のある声が響いた。
モーセの十戒のように人垣が割れ、一人の初老の男が姿を現す。
営業本部長の御厨隆史。
55歳。
青葉飲料の営業部門のトップに君臨する男だ。
御厨本部長が現れた瞬間、榊原部長も安西も、一斉に姿勢を正した。
「本部長。申し訳ありません。第三課の不始末で、少しトラブルがありまして……」
榊原部長が言い訳をしようとしたが、御厨本部長は片手でそれを制した。
「事情はだいたい聞いている。だが、フロアのど真ん中で大声を出して騒ぐことではない。見苦しいぞ」
御厨本部長は冷ややかに言い放つと、涙を流す咲と、頭を下げる玲奈に一瞥をくれた。
「サンライズマートの件は、まだ完全に契約が切れたわけではないだろう。第一課は早急に立て直しを図れ。第三課の二人は、自席に戻りなさい。……とりあえず、今日は散会だ」
トップの鶴の一声で、公開処刑の場は強制的に解散となった。
玲奈は「失礼いたしました」と短く頭を下げ、泣きじゃくる咲の腕を引いて、逃げるように広域営業部のフロアを後にした。
◇
第三課のオフィスに戻ると、咲はそのまま給湯室へ駆け込み、声を上げて泣き崩れた。
他のメンバーたちは何事かと青ざめ、オフィスの空気は凍りついていた。
玲奈は自席に座り、ひどい頭痛に耐えるように額を押さえた。
御厨本部長が仲裁に入ってくれたことで、最悪の事態は免れた。
なんとか穏便に収まるかもしれない。
そう希望的観測を抱こうとした、その時だった。
ジリリリリリリッ!
玲奈のデスクの電話が鳴った。
表示された内線番号は、玲奈の直属の上司である、東日本営業部長の吉岡正臣のものだった。
「……はい、霧島です」
「霧島君か。広域営業部での騒ぎ、聞いたよ」
吉岡部長の声は、相変わらず事なかれ主義特有の、感情の起伏がない平坦なものだった。
「サンライズマートの件、本部長から正式に指示が下りた。君と橘の二人には、今回の越権行為と契約妨害に関する顛末書を提出してもらう」
「……顛末書、ですか」
「ああ。それと、念のため、二人分の始末書も用意しておくように」
「――っ!?」
玲奈は息を呑んだ。
始末書。
事実の経緯を報告する顛末書とは違い、こちらの責任を認めて正式な記録に残す書類だ。
人事評価や懲戒判断の材料に使われる恐れがある。
第一課が引継ぎで失敗した責任を、第三課になすりつける口実にするつもりなのではないか。
玲奈の背筋が冷えた。
「お待ちください、部長! それはあまりにも理不尽です! 橘は営業としての誠意を見せただけで、会社批判など一切しておりません! 第一課のミスを私たちが被るなんて――」
「決まったことだ」
吉岡部長は、玲奈の必死の訴えを氷のように冷たく突き放した。
「本部長からの命令だ。他部署と波風を立てるような真似はするな。……嫌なら、始末書ではなく退職願になるな」
ガチャリ。
一方的に電話が切られる音が、玲奈の耳元で虚しく響いた。
「……っ」
玲奈は受話器を持ったまま、完全に言葉を失い、その場に固まった。
守ってくれるはずの直属の上司にすら、あっさりと切り捨てられた。
組織の壁は、自分たち第三課を押し潰そうとしていた。
フロアは、死んだように静まり返っていた。
いつもなら空気を読まずにカタカタと響き続けている、『データ職人』の藤本雫のタイピング音すら、今はぴたりと止まっている。
全員が息を潜め、絶望的な沈黙だけが、第三課のオフィスを重く、冷たく支配していた。




