第43話:崩壊する第三課
東日本営業部長の吉岡正臣からの一方的な電話が切れた後、課長の霧島玲奈はしばらくの間、受話器を持ったまま微動だにできなかった。
(何が、『花形部署』の第三課よ……)
心の中で、自嘲気味な呟きが漏れる。
東日本営業部の最前線、新規開拓を担う精鋭部隊。
今の玲奈には、そんなものはネーミングだけをかっこよく取り繕った虚像にしか思えなかった。
第一課という巨大な本流が美味しい果実を独占し、第三課は彼らが手を付けない荒野を開拓させられるだけの存在。
そして、いざ第三課が巨大な獲物を仕留めれば、会社の論理であっさりと横取りされる。
おまけに、第一課が勝手に引き起こしたトラブルの責任まで、すべて押し付けられるのだ。
(体のいい、使い走り……)
口には出さなかったが、玲奈は巨大な組織における自分たちの立ち位置の低さを、今更ながらに痛感させられていた。
「……少し、席を外します」
玲奈は絞り出すようにそう言うと、足早にオフィスを飛び出した。
給湯室を通り過ぎ、誰も使っていない小さなミーティングルームに逃げ込む。
ドアを閉めた瞬間、これまで必死に張り詰めていた氷の女王としての糸が、プツンと音を立てて切れた。
「うっ……くっ、あぁっ……」
椅子に座り、両手で顔を覆う。
冷徹な課長としての仮面が崩れ落ち、一人の無力な女性としての嗚咽が、小さな部屋の中に虚しく響き渡った。
◇
課長の玲奈と、『特攻隊長』の橘咲が不在となった第三課のオフィスで、健介は息の詰まる沈黙に包まれていた。
誰も言葉を発しない。
その凍りついた空気を破ったのは、第三課の『裏ボス』こと、大橋雅子だった。
「……辛いし、咲ちゃんのことが心配なのは分かるわ」
雅子はキーボードを叩く手を止め、静かに、しかしよく通る声でフロアのメンバーに語りかけた。
「でも、自分たちの仕事を疎かにはできない。こういう時こそ、しっかり手を動かして、頭を働かせましょう」
女性陣の最年長としての落ち着いた、そして包容力のある言葉。
それに呼応するように、中堅の中川留美がふうっと息を吐き出して顔を上げた。
「……さすが大橋さんですね。こんな絶望的な時に頼りになるのは、やっぱり長年の『経験』がある人だけです。どこかの誰かさんとは違って」
留美の言葉は、明らかに斜め前の席に座る健介に向けられた、露骨な非難だった。
留美には、自分が『窓際族』として日々サボり続け、こんな異常事態にも一切関与しようとしない中年男に見えているのだろう。
ただの給料泥棒の『役立たず』。
そんな声が、その視線からも伝わってくる。
(やれやれ。まあ、今はそう思われても仕方ないな)
健介は留美の棘のある言葉をさらりと受け流し、内心で小さくため息をついた。
ここで自分がしゃしゃり出たところで、すぐに事態が好転するわけではない。
周囲の冷ややかな視線を浴びながらも、健介はふと、正面に座る佐々木澪と、自分の隣の星野佳奈へ目をやった。
彼女たちは、留美の言葉に同調することなく、黙ったままだった。
澪は、まだ何かを期待するような目で健介を見つめている。
佳奈からも、すがるような視線が向けられていた。
二人とも、留美とは全く違う瞳で健介を見ていた。
自分なら、こんな理不尽な状況もひっくり返せると信じてくれているらしい。
健介には、その期待の重さが痛いほど伝わってきた。
健介は二人の視線に気づかないふりをして、ゆっくりと立ち上がった。
「……それじゃあ、僕は自分の担当企業との約束がありますので。外回りに行ってきます」
健介はノートパソコンを閉じ、ビジネスバッグを手に取って、そそくさとオフィスを出て行った。
「……っ、ほんと、役立たず」
ドアが閉まる間際、留美の舌打ちが健介の耳に届いた。
◇
咲がオフィスに帰ってきた時、玲奈はすでに自席に戻っていた。
咲が席を外してから、30分ほどが経っていた。
メイクは直してきたが、目の赤みまでは隠しきれなかった。
ふと顔を上げると、玲奈の目も微かに赤みを帯びていた。
「……橘さん」
玲奈が、重苦しい声で咲を呼んだ。
咲は力なく立ち上がり、玲奈のデスクの前へと進み出た。
「吉岡部長から、正式な指示が下りたわ。……あなたと私で、今回の件の顛末書を作成する。それと、念のため、始末書も用意しておくようにとのことよ」
「――っ!!」
咲は息を呑み、目を見開いた。
顛末書だけではない。
始末書。
こちらの責任を認め、正式な記録に残す書類。
人事評価や懲戒の材料にされたら、どうなるのか。
咲はその先を考えずにいられなかった。
「ふざけないでくださいッ!!」
バンッ!! と、咲は玲奈のデスクを両手で強く叩き、フロア中に響き渡る声で叫んだ。
「私が何をしたっていうんですか!? 泥水すすって、足繁く通って、やっとサンライズマートの口座を開拓したんですよ!? 褒められるどころか、どうして第一課のせいで、私が処分されなきゃいけないんですか!!」
咲の悲痛な叫びに、オフィスの全員が息を呑んだ。
咲には、このサンライズマートの案件に懸ける並々ならぬ想いがあった。
次回の人事で主任への昇格が濃厚だという話を、咲も耳にしていた。
サンライズマートの大型契約は、その昇格を確実なものにするための、ダメ押しともいうべき最大の手柄になるはずだった。
それが、理不尽に横取りされた挙句、白紙撤回の責任まで被らされようとしている。
このまま始末書を出せば、昇格見送りどころの話ではない。
一般社員としての社内等級すら下げられ、これまでの努力が水泡に帰し、今後のキャリアが完全に閉ざされてしまうかもしれないのだ。
「納得できません……! 絶対に、絶対に嫌です……っ!!」
咲は理不尽な運命に対する怒りを叫んだ後、ついに膝から崩れ落ち、玲奈のデスクの前で子どものように声を上げて泣きじゃくった。
「あああぁぁっ……ひぐっ……うあぁぁっ……!」
玲奈は何も言わず、唇を噛み締めて俯いていた。
「……課長」
見かねた雅子が、静かに立ち上がって玲奈の元へ歩み寄った。
「今の橘さんを、これ以上オフィスに置いておくのは酷です。……今日はもう、彼女を帰宅させましょう」
玲奈はただ力なく頷き、雅子の提案を受け入れた。
咲は放心状態で、自力で歩くこともままならなかった。
雅子は事務担当の柚木結衣に声をかけ、二人で咲の両脇を抱えるようにして、彼女をオフィスから連れ出していった。
◇
雅子たち3人が出て行き、さらに人数が減った第三課のオフィスを、玲奈は呆然と見渡した。
残されたのは、玲奈、留美、藤本雫、澪、佳奈の5人だけだった。
「……課長」
静寂を破り、留美がゆっくりと立ち上がった。
普段はドライで、他人のトラブルには深入りしない彼女の瞳に、明確な怒りの炎が宿っていた。
彼女は真っ直ぐに玲奈のデスクの前に立ち、冷徹な声で詰め寄った。
「誰がどう考えたって、第一課の連中が自分たちの不始末を咲のせいにしているだけじゃないですか。咲は、いくら自分の功績を横取りされたからって、会社の不利益になるような真似をする人間じゃありません」
「……」
「実際、咲はこの2週間、いつまでも落ち込んではいられないって、次の新規開拓のターゲット企業について、私や藤本さんに熱心に相談してきていたんですよ! 前を向いて頑張っていた彼女を、どうして守ってあげられないんですか!」
留美の正論。
それは、玲奈の心を最も深く抉るナイフだった。
「……そんなこと、私が知らないとでも思ってるのッ!!」
バンッ! と、玲奈がデスクを両手で叩き、ヒステリックな声を上げた。
いつもは氷のように冷静で、感情を乱すことのない玲奈が、別人のように顔を真っ赤にして怒鳴り返したのだ。
「私だって、橘さんが真面目に頑張っていたことくらい分かってるわよ! でも、本部長からの決定事項なの! 組織の決定なのよ!」
売り言葉に買い言葉。
玲奈の絶叫に近い反論を受けても、留美は一歩も引かなかった。
「……だったら、どうしてもっと上層部と戦ってくれないんですか」
留美の声は、ひどく淡々としていた。
その平坦なトーンに滲む失望と怒気が、玲奈に突き刺さった。
「……っ!」
「私だって、会社組織の理屈くらい分かってます。でも、理不尽に部下が切り捨てられようとしている時に、身体を張って上と喧嘩するのが、管理職の仕事じゃないんですか?」
「あなたに何が分かるの!!」
玲奈は立ち上がり、留美を睨みつけた。
「私だって戦いたいわよ! でも、私がここで本部長や第一課に食って掛かれば、第三課そのものが完全に孤立して、予算も人員も削られて、部署ごと潰されるの! そうなれば、橘さんだけじゃなく、あなたたちの居場所だってなくなるのよ!!」
「居場所? こんな理不尽がまかり通る部署に、居場所としての価値なんてあるんですか」
しばらくの間、二人の間で激しい言葉の応酬と怒号が飛び交った。
そして、ついに留美が、決定的なとどめの一言を口にした。
「……部下一人守れないで、なんのための管理職ですか。そんなの、いらないじゃないですか」
――パァンッ!!
乾いた、ひどく暴力的な音が、フロアに響き渡った。
玲奈の右手が、留美の頬を思い切り平手打ちしていたのだ。
「あ……っ」
玲奈はハッとして自分の震える右手を見つめた。
やってはいけない一線を、感情に任せて完全に越えてしまった。
留美は、打たれた顔を横に向けたまま、ピクリとも動かなかった。
頬には、くっきりと赤い手形が浮かび上がっている。
「……中川さん、ごめんなさい、私……っ」
玲奈が青ざめて手を伸ばそうとしたが、留美はそれを冷たく言葉で遮った。
「……わかりました」
留美は感情の一切消え失せた声でそう呟くと、自席に戻ってビジネスバッグを掴み取った。
「外回りに行ってきます。……今日はもう、直帰しますので」
留美は玲奈の方を一度も振り返ることなく、早足でオフィスを出て行った。
バタン、と重いドアが閉まる音が、絶望的な響きを伴ってフロアに落ちた。
◇
残されたオフィスは、完全に崩壊していた。
『データ職人』の雫は、目の前で起きた惨劇から逃避するように、モニターだけを見つめている。
何も見えない、何も聞こえないという風を装って、機械のようにキーボードを叩き続けていた。
カタ、カタ、という無機質なタイピング音だけが虚しく響く。
新人の佳奈は自席で肩を震わせ、ポロポロと涙をこぼしていた。
エースの澪は、ノートパソコンのマウスを握りしめたまま、画面の数字をぼんやりと見つめていた。
その姿を見て、玲奈は思った。
(……ああ。この第三課は、もう終わったのかもしれない)
『特攻隊長』は心を折られ、頼れる中堅は、自分に打たれて去っていった。
組織としての機能は、死んだのだ。
玲奈は、椅子に力なく座り込んだ。
誰も自分を見ようとしない。
玲奈は窓の外の、灰色の東京のビル群へと視線を向けた。
「……っ、うっ……」
きれいに整えられていたはずのメイクを、とめどなく溢れる涙がツーッと伝い落ちていく。
部下を守りたかった。
部署を守りたかった。
なのに、自分の未熟さと組織の巨大な理不尽さに押し潰され、結果として自らの手で部下を傷つけ、すべてを破壊してしまった。
営業第三課は、取り返しのつかない絶望的な沈黙と涙の中に、沈んでいった。




