第44話:限界
その日の夜。
健介は自宅マンションのリビングで、ローテーブルの上に置いたスマートフォンと向き合っていた。
画面には、大橋雅子からのLINEのメッセージが表示されている。
『第三課、大変なことになっちゃったみたい。今、大丈夫?』
健介が『大丈夫だ。何があったのか詳しく聞かせてくれ』と返信すると、すぐに通話の着信が入った。
それも、音声通話ではなくビデオ通話での着信だった。
健介が通話ボタンを押し、画面に映し出された映像を見て、思わず目を丸くした。
「……雅子?」
「こんばんは、健介さん」
スマートフォンの画面の向こう側。
雅子は自室のベッドの上に寝転がりながら、上目遣いでこちらを見つめていた。
問題は、彼女の格好だった。
オフィスでのきっちりとセットされた姿とは全く違う、少し乱れた髪。
そして、艶めかしい大人の肌を惜しげもなく晒した、黒のレースの下着姿だったのだ。
谷間が強調され、豊かな胸の膨らみが画面いっぱいに映し出されている。
「……なんて格好で電話してるんだ。何かあったのかと心配したじゃないか」
健介が呆れたように言うと、雅子はクスクスと悪戯っぽく笑った。
「ふふっ。ごめんなさい。でも、健介さんが私のこんな姿を見たら、少しは私を欲しくなってくれるかなって思って。……わざとですよ」
(たぶん、本音だろうな)
健介は内心でそう思いながらも、「からかうなよ」とたしなめるような野暮なことは言わなかった。
彼女は彼女なりに、沈み切った気持ちを紛らわせるために、健介に大人の甘え方をしているのだと感じていたからだ。
「それで、一体何があったんだ? 俺が外回りに出た後、オフィスで」
健介が表情を引き締め、本題を切り出すと、雅子も画面越しに真剣な顔つきへと戻った。
そして、雅子と柚木結衣が放心状態の橘咲を連れてオフィスを出た直後に起きた、決定的な惨劇について語り始めた。
「……中川さんが、課長をビンタしたって?」
「いいえ、逆です。課長が、中川さんを平手打ちにしたんです。さっき、残っていた藤本さんから私に連絡があって……。とんでもないことになってしまったって、彼女もひどくうろたえていました」
雅子の報告に、健介は小さく息を吐き出した。
あの氷の女王である課長の霧島玲奈が、感情を爆発させて部下に手を上げた。
それほどまでに、彼女も限界まで追い詰められていたということだろう。
「中川さんは『わかりました』とだけ言って、そのまま外回りに出たそうです。……でも、彼女のことだから、明日から会社に来なくなるなんてことはないと思いますけど」
雅子の推測に、健介も頷いた。
第三課には、役職者として主任の肩書きを持つ人間が3人いる。
雅子、藤本雫、そして中川留美だ。
最年長の雅子は、すでに課長への昇進コースからは外れており、本人もその気はなさそうだ。
だが、『データ職人』の雫と、ドライで堅実な仕事をする留美には、将来的に課長へと昇進する道が残されている。
まだ数年はかかるだろうが。
「中川さんの今日の発言……『なんのための管理職ですか』っていう言葉は、ただの反抗じゃない。彼女なりの、課長に対する強い期待と、裏切られたことへの絶望の裏返しだよ」
健介は静かに分析した。
本当にドライで他人に無関心な人間なら、上司に食って掛かるようなリスクは冒さない。
留美は、第三課の次期リーダー候補としての強い責任感があったからこそ、部下を守ろうとしない玲奈の態度が許せなかったのだろう。
「その場にいたのが第三課のメンバーだけなら、中川さんが騒ぎ立てない限り、大事にはならないだろう。……問題は、橘さんの方だ」
健介が核心を突くと、画面越しの雅子の顔が、沈痛なものへと変わった。
「……ええ。まさか、あの状態の咲ちゃんを電車で帰すわけにもいかなくて。私と柚木さんで、タクシーで彼女のマンションまで送っていったんです」
「様子は?」
「終始無言でした。涙も枯れ果てて、ただ一点を見つめたまま、完全な放心状態。……マンションの部屋に送り届けた時も、なんて声をかけていいか分からなくて。『しっかりご飯食べてね』『何かあったらすぐに連絡してね』って、そんなありきたりなことしか言えませんでした」
雅子は悔しそうに唇を噛んだ。
「あの子は、誰よりも元気で、誰よりも真っ直ぐに営業の仕事に向き合ってた。……その『特攻隊長』が、完全に心を折られちゃったんです。あんな姿、初めて見ました。……正直、立ち直るのは難しいと思います」
雅子の言葉は重かった。
手塩にかけた大型案件。
次回の人事での主任昇格の切符。
それを、会社の論理という見えない暴力によって、何から何まで理不尽に奪われたのだ。
営業担当としての魂を完全に殺されたに等しい。
「……わかった。教えてくれてありがとう、雅子。ゆっくり休んでくれ」
「はい。健介さんも……おやすみなさい」
ビデオ通話が切れ、健介は深く息を吐き出した。
スマートフォンでLINEを開くと、星野佳奈と佐々木澪から、スクロールしなければならないほどの長文のメッセージが何件も溜まっていた。
当然、書かれている内容は雅子の報告と同じ、オフィスでの惨劇について。
そして、「この先、第三課はどうなってしまうのか」「私たちはどうすればいいのか」という、痛切な不安と混乱の吐露だった。
健介はソファに深く腰掛け、二人のトークルームにそれぞれ、短く返信を打った。
『何はともあれ、まずは橘さんが立ち直らないことには、第三課は本当に崩壊してしまう。それだけ、今の部署において彼女の存在と影響力は大きいんだ』と。
送信すると、すぐに二人から、『どうすれば、咲さんは立ち直れるんでしょうか?』という趣旨の返信が来た。
雅子も、通話の中で同じことを案じていた。
健介はその答えを知っている。
営業マンが、理不尽に誇りと成果を奪われ、完全に心を折られた時。
そこから立ち直るための方法は、上司の慰めでも、同僚の同情でも、十分な休息でもない。
『立ち直る方法は、一つしかない』
健介はそう打ち込んだ。
しかし、その先はあえて入力しなかった。
『自分たちの立場になって考えてみれば、すぐに分かるはずだ』
健介はそれだけを告げて、スマートフォンを伏せた。
これは、彼女たち自身が気づき、自ら動かなければ意味がないことなのだ。
◇
それから、1週間の時が流れた。
玲奈は、沈み切ったオフィスで日々を過ごしていた。
第三課の『特攻隊長』、咲は、一度も出社しなかった。
多少の熱があろうと、這ってでもクライアントへ向かっていたあの彼女が、無断欠勤に近い形で完全に音信不通になってしまったのだ。
オフィスの空気は、まるで鉛のように重かった。
誰も咲の不在について触れようとはしない。
玲奈も何も言わず、他のメンバーたちも、ただ目の前の仕事へ逃げ込むように手を動かしていた。
キーボードを叩く音だけが虚しく響く。
全員が心ここにあらずのように、玲奈には見えた。
あの留美でさえ、どこか上の空でミスを連発している。
ただ一つ、奇妙なことがあった。
咲と玲奈に課せられていたはずの、顛末書と始末書に関する督促が、一切来ないのだ。
咲が休んでいるという報告を受けて、本人が出てくるのを待っているだけなのか。
それとも、咲が精神的に追い詰められて労働基準監督署に駆け込んだり、逆ギレして会社と徹底抗戦に出たりすることを恐れたのか。
「面倒なことになりそうだ」と判断して、手を引いたのかもしれない。
東日本営業部長の吉岡正臣からも、広域営業部長の榊原浩一や第一課からも、この1週間、不気味なほど何も連絡がなかった。
玲奈は自席で、一人で顛末書の草案だけは作成していた。
しかし、彼女自身も今回の処分には全く納得していなかったため、自ら進んでそれを提出しようとはしなかった。
(……このまま、何事もなかったかのようにフェードアウトしてくれれば)
玲奈は、そんな叶うはずのない甘い期待すら抱き始めていた。
しかし、大企業の組織の論理は、そんな生易しいものではなかった。
週明けの月曜日。
出社した玲奈のデスクの電話が鳴った。
東日本営業部の吉岡部長から、部長室への呼び出しだった。
「……失礼いたします」
玲奈が緊張した面持ちで部長室に入ると、吉岡部長はデスクに肘を突いていた。
いつもの事なかれ主義の温厚な顔は消え失せ、冷徹な目が玲奈を睨みつけている。
「霧島君。……いつまで顛末書と始末書を出さないつもりだ」
「え……」
「1週間も放置するとは、どういうつもりだ。これは立派な職務怠慢であり、業務命令違反だぞ」
低く、威圧的な吉岡部長の叱責。
玲奈は血の気が引き、慌てて弁明した。
「も、申し訳ありません! しかし、当事者である橘が、あの日からずっと体調不良で欠勤しておりまして。彼女からのヒアリングができない状態では、正確な顛末書は書けません。それに、提出の正式な締め切りについても、まだお伺いしておりませんでしたので……」
「言い訳をするな!」
ドンッ! と、吉岡部長がデスクを強く叩いた。
「顛末書や始末書などというものは、事態が発生した即日に、自ら進んで最優先で書き上げるのが社会人の常識だろうが! 締め切りなど、いちいちこちらから指定する必要があるのか! 本人が休んでいるなら、上司である君がすべて調べて、君の責任で書き上げればいいだけのことだ!」
「――っ」
玲奈は息を呑み、言葉を失った。
これまでののらりくらりとした吉岡部長の態度とは、あまりにも違いすぎる。
他部署との波風を嫌い、自分の保身しか考えていない彼が、ここまで強硬な態度で一人の課長を追い詰めるなど、普通ではあり得ない。
(……間違いない。吉岡部長の意志じゃない。これは、別のところからの「圧力」だ)
玲奈は直感した。
第一課の担当課長である安西智之か、あるいは広域営業部の榊原部長が、吉岡部長に圧力をかけたのではないか。
玲奈には、そう思えてならなかった。
だから吉岡部長は、ここまで必死になって自分を脅してくるのではないか。
組織の巨大な闇。
派閥の力。
絶対に抗えない、理不尽な上からの圧力。
(ああ……もう、ダメだ)
玲奈の中で、最後に残っていた何かが、プツンと切れる音がした。
「……わかりました。すぐに、書いて提出いたします」
玲奈は感情の消え失せた声でそれだけを言い残し、深く頭を下げて部長室を後にした。
◇
第三課のオフィスに戻った玲奈は、自席に座るなり、狂ったように固定電話の受話器を取り、力任せにボタンをプッシュし始めた。
プルルルルルッ……プルルルルルッ……
耳障りなコール音が鳴り響くが、相手は一向に出る気配がない。
「どうして……どうして出ないのよッ!!」
玲奈はヒステリックな声を上げ、ガチャン! と乱暴に受話器を叩きつけた。
そして、すぐにまた受話器を取り、同じ番号に執拗にリダイヤルを繰り返す。
その異常な光景に、オフィスにいた雅子や留美、雫たちが、青ざめた顔で一斉に玲奈を見た。
「課長……どこに電話をかけているんですか」
見かねた雅子が立ち上がり、恐る恐る声をかけた。
玲奈は血走った目で雅子を睨みつけ、叫んだ。
「決まってるでしょう! 橘よ!!」
「え……っ」
「今すぐ彼女に出てきてもらわないと、始末書が書けないの! このままじゃ、彼女の処分どころか、私まで業務命令違反で処分される! そうなれば、この営業第三課は本当に終わるのよ!!」
第三課を守らなければ。
自分まで立場を失えば、もう何もできない。
責任感も、上層部への恐怖も、自分を守りたい気持ちも、玲奈の中で絡まり、焦りばかりが膨らんでいた。
「課長、それは無茶です! 咲ちゃんは今、そんな状態じゃ……」
「そうですよ! 彼女は精神的に追い詰められてるんです、今はそっとしておくべきです!」
雅子だけでなく、留美も立ち上がって制止に入った。
しかし、玲奈は二人の言葉を鼻で笑い、目からボロボロと大粒の涙をこぼしながら絶叫した。
「そっとしておく!? そんな甘いことを言っているから、第三課はこんなバラバラな状態なのよ!! あなたたちに何が分かるの! 私が、どれだけこの課を守るために、身を粉にして上層部と戦ってきたか……っ! 私だって、限界なのよ!!」
誰にも理解されない。
もう味方はいない。
玲奈は、巨大な組織の重圧を一人で背負っている気がしていた。
玲奈は涙を拭おうともせず、再び震える手で受話器を掴み、ダイヤルボタンに指を伸ばそうとした。
今すぐ咲と話さなければ。
その焦りに、受話器を置くことができなかった。
――その時だった。
スッ、と。
横から伸びてきた男の大きな手が、固定電話のフックを、静かに、だが強い力で押し込んだ。
「――え?」
ツーツーツーという無機質な電子音だけが響く。
玲奈が驚いて顔を上げると、そこには、いつもの気の抜けた姿のまま、沢村健介が立っていた。
「……落ち着いてください」
低く、穏やかな声だった。
「な……あなたに、何が分かるのッ! 黙ってて!!」
玲奈は半狂乱になりながら、健介の手を振り払おうとした。
しかし、健介はピクリとも動かず、もう一度、深く、フロア全体に響き渡るような声で言い放った。
「落ち着け」
ビクッ、と。
玲奈の身体が、雷に打たれたように硬直した。
それは、玲奈が初めて耳にする沢村健介の声だった。




