第45話:空白の30分
「落ち着け」
その低く、地の底から響くような男の声に。
営業第三課のオフィスは、まるで時間が凍りついたかのようにしんと静まり返った。
受話器を握りしめたまま半狂乱になっていた課長の霧島玲奈も。
それを必死に止めようとしていた中川留美も、大橋雅子も。
そして、少し離れた席で一部始終を見ていた星野佳奈や佐々木澪でさえも、その声の持つ絶対的な「重圧」に、ビクッと肩を震わせて息を呑んだ。
ただの窓際社員だと、玲奈が思っていた中年男の、本気の声。
それは、誰も逆らうことができないような、圧倒的な強者のオーラを放っていた。
「……あ……」
玲奈が言葉を失い、震える手から受話器を取り落としそうになった、その時だった。
「いやぁ、ごめんごめん。大きな声出しちゃって」
健介は玲奈の持つ受話器をそっと受け取り、元の位置に戻した。
いつもの少し猫背の、気の抜けたようなのんびりとしたおじさんの顔に戻っている。
つい数秒前までフロアを支配していたあの威圧感は、跡形もなく霧散している。
「橘さんに電話するのは止めないけど……かけるのは、少しだけ待ってほしい」
健介がニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて言うと、玲奈はまだ動揺が抜けきらない顔で、反射的に聞き返した。
「ま、待つって……どれくらい……」
「そうだね。2時間……いや、1時間もあれば十分かな」
「1時間……?」
「ああ。それだけ待ってくれればいい」
健介のあまりにも平坦な、日常会話のようなトーン。
玲奈は、彼が何をしようとしているのか全く理解できなかった。
だが、先ほどの声の余韻と、彼の瞳の奥にある「何か」に気圧され、無意識のうちにコクンと頷いてしまっていた。
「ありがとう」
玲奈が承諾したのを見ると、健介は「ちょっと外の空気吸ってくるよ」とだけ言い残した。
スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、飄々とした足取りでオフィスを出て行く。
バタン、とドアが閉まる。
残された第三課のメンバーたちは、ただ呆然と、彼が出て行ったドアを見つめていることしかできなかった。
◇
それから、30分もしないうちのことだった。
「いやぁ、今日の東京は風が冷たいねぇ」と、相変わらずの緩い空気を纏った健介がオフィスに戻ってきた。
彼が自分のデスクの椅子に腰を下ろしたのと、ほぼ同じタイミングだった。
ジリリリリリリッ!!
静まり返っていたオフィスに、けたたましい内線電話の音が鳴り響いた。
課長席の電話だった。
玲奈がビクッと肩を跳ねさせ、恐る恐る受話器を取る。
「……はい、霧島です」
「あー、霧島君か。吉岡だ」
電話の主は、東日本営業部長の吉岡正臣だった。
つい先ほど玲奈を部長室に呼び出し、顛末書と始末書を出せと怒鳴り散らしたばかりの男だ。
玲奈は顔を青ざめさせ、ギュッと目をつむった。
また、あの理不尽な急かしの電話だ。
「ぶ、部長。顛末書の件ですが、今すぐ橘に連絡を……」
「ああ、その件だがな」
吉岡部長の声は、なぜかひどく歯切れが悪く、焦燥感をはらんでいた。
「さっきは、少しばかり急ぎすぎた。……顛末書と始末書の件は、一旦1週間保留にする。提出は、来週の月曜でよいから、とりあえず本人が落ち着いて出社してくるのを待ってやってくれ」
「――え?」
玲奈は、自分の耳を疑った。
即日提出が社会人の常識だと、机を叩いてまで脅してきたあの吉岡部長が。
急に「1週間保留にする」と言い出したのだ。
「あの、部長? それは一体、どういう……第一課や広域営業部からの圧力は……」
「いいから! とにかく、来週まで保留だ。いいな!」
ガチャリ、と。
逃げるように電話が切られた。
ツー、ツー、という電子音が、玲奈の耳元で虚しく響く。
玲奈は受話器を持ったまま、その場に固まった。
一体、何が起きたというのか。
あの保身の塊である吉岡部長が、上層部からの圧力を突っぱねてまで、提出期限を1週間も延ばすことなどあり得ない。
誰かが、吉岡部長に圧力をかけている広域営業部側か、さらに上の営業本部の中枢へ働きかけ、提出を止めたのではないか。
玲奈には、そんな考えが浮かんだ。
玲奈はゆっくりと受話器を置き、フロアを見回した。
留美も、雅子も、藤本雫たちも、何事かと玲奈を見つめている。
玲奈の視線が、最後に、斜め前でノートパソコンを開いている健介の横顔へと向けられた。
(……この人が、何かをしたの?)
そうでなければ、絶対に説明がつかない。
彼がオフィスを出てからの、わずか30分の間に。
この巨大な会社の、強固な派閥の意思決定を、彼はたった一人でねじ曲げてみせたというのか。
「……沢村さん」
玲奈はフラフラと立ち上がり、健介のデスクへと歩み寄った。
「あなた……一体、何をしたの」
詰め寄る玲奈に対し、健介はキーボードを叩く手を止め、のんびりとした顔で振り返った。
「何って、外の空気を吸ってきただけですよ。……それより、課長。顛末書の件、少しは時間が稼げたんでしょう?」
その言葉で、玲奈は彼がすべてを理解し、その上で動いたのだと確信した。
「……ええ。1週間、保留になりました。でも……」
「なら、そんなことより、まずは橘さんだ」
健介は玲奈の言葉を遮り、スッと立ち上がって第三課のメンバーたちを見回した。
「誰か、どうにかして橘さんと会えないかな。今の彼女の状態を、直接この目で確かめたいんだ」
健介の問いかけに、オフィスは沈黙した。
先週、橘咲を家まで送り届けた雅子は、厳しい顔をして黙っていた。
普通の仕事の連絡には出ないだろう。
それは玲奈にも、分かりきっていた。
◇
「……私なら、プライベートの番号を知っています」
重い沈黙に耐えかね、留美は口を開いた。
ドライな性格の彼女だが、年齢の近い咲とは、第三課の次期リーダー候補同士として、よくランチに行ったり、個人的な相談に乗ったりする間柄だった。
「もしかすると、私用のスマートフォンからなら、出てくれるかもしれません」
「そうか。悪いけど、頼む」
健介は真っ直ぐに留美の目を見て、深く、丁寧に頭を下げた。
「え……っ」
留美は一瞬、息を呑んだ。
彼女は、健介のことを、給料泥棒の『役立たず』として、明確に嫌い、見下していた。
だが、一回りも年上の男に、これほど真っ直ぐに、後輩を救うためだけに頭を下げられれば。
そして何より、たった30分で巨大な組織の決定を覆してみせた彼の底知れない力を目の当たりにしてしまっては、やらないわけにはいかなかった。
「……分かりました。かけてみます」
留美がスマートフォンを取り出そうとすると、健介は「あ、ちょっと待って」と呼び止めた。
「電話する時、僕のことは絶対に伝えないでほしい。中川さんと、もう一人仲のいい女性メンバーだけで会いにいきたいと言って誘い出してくれないか」
「沢村さんのことを、隠すんですか?」
「ああ。騙すようで悪いんだけど、僕がいくら心配したところで、彼女からは『窓際のおじさん』として相手にもされていないからね。僕の名前を出したら、かえって警戒して出てこないだろう」
健介が自嘲気味に笑うと、留美は少しバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。
確かに、咲も自分と同じように、健介を『役立たず』だと思っているのだろう。
それなら、健介の言う通りだ。
「分かりました。……それなら、大橋さん。一緒に行っていただけますか?」
「ええ、もちろんよ」
雅子が即座に頷いた。
作戦は決まった。
留美は自分のデスクに戻り、スマートフォンから咲のプライベート番号へと発信した。
最初は、やはり出なかった。
2回、3回とかけても、コール音が虚しく響くだけだった。
だが、少し時間を空けて、もう夕方になろうかという時間帯にかけた4回目のコール。
「……はい」
かすれた、ひどく力の無い声。
咲が出たのだ。
留美は健介に言われた通り、仕事の話は一切出さず、「大橋さんと二人で、少し顔が見たい」とだけ伝えた。
最初は渋っていた咲だったが、面倒見のいい先輩二人の押しに負けたのか、最後には「……わかりました」と、しぶしぶ応じた。
指定した場所は、留美と咲が外回りの途中でよく使っている、都内の落ち着いたレトロな喫茶店だった。
◇
夕暮れ時の、オレンジ色の光が差し込む喫茶店の奥のボックス席。
雅子は留美と二人、コーヒーを前に待っていた。
ドアが開き、一人の女性が入ってくる。
「……咲」
留美が声をかけると、その女性は重い足取りで二人のテーブルへと近づいてきた。
その姿を見て、留美はもちろん、雅子も息を呑んで絶句した。
「咲、ちゃん……?」
現れた咲は、普段のオフィスで見せる姿とはまるで別人だった。
いつもはスーツをパリッと着こなし、ポニーテールで髪を高く結い上げ、生命力に満ち溢れていた『特攻隊長』の面影はどこにもない。
髪はボサボサに下ろしたままで、ノーメイク。
着ているのは、近所のコンビニにでも行くような、グレーのスウェットの上下だった。
全体からひどく気怠く、だらしないオーラが漂っている。
「……お疲れ様です、大橋さん、中川さん。わざわざ、すみません」
咲は二人の向かいの席に、どさりと崩れるように座った。
留美も目を見開いたまま、すっかり生気を失った咲を見つめている。
雅子は、その痛々しい姿を見て、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
(……昔の、私と同じだわ)
かつて、ヤマシタという取引先を自分の嘘で怒らせ、会社に莫大な損害を与えそうになった若き日の自分。
絶望し、部屋に引きこもり、すべてを投げ出して会社を辞めようとしていたあの時の自分と、今の咲がぴたりと重なって見えたのだ。
ウェイトレスが来て、咲がブラックコーヒーを頼む。
軽い挨拶を交わした後、留美が意を決して本題を切り出した。
「……咲。これから、どうしようと思ってるの?」
留美は、「どうしていた」とは聞かなかった。
落ち窪んだ目元を見れば、まともに食事も取れず、伏せっていたことは雅子にも察しがついた。
咲は運ばれてきたコーヒーカップを両手で包み込み、薄く、自嘲的な笑みを浮かべた。
「もう……どうでも良くなってきちゃいました」
「どうでもいいって……」
「だって、頑張ったところで報われないじゃないですか。泥水すすって、足にマメ作って、何十回も断られて。やっと取れた大型契約は、会社の都合であっさり奪われる。それどころか、理不尽に責任を押し付けられて、処分までされるんですよ? ……こんな会社で、これ以上必死に頑張って、何の意味があるんですか?」
咲の言葉は、ただの愚痴ではなかった。
すべてを諦め、魂が折れてしまった人間の、空虚な言葉だった。
「さっさと会社辞めて、地元に帰って、結婚でもしようかなって思ってます。……まあ、だからって彼氏もいないし、まずはそこから相手探さなきゃいけないんですけどね。あはは……」
カラカラと、乾いた声で笑う咲。
だが、その目には、一切の笑みが浮かんでいなかった。
留美は唇を噛み締め、俯いた。
雅子にも、かける言葉が見つからない。
正論を言えば、「そんなことで逃げるな」と叱咤することもできるだろう。
だが、咲がどれほどの情熱と労力をあの案件に注ぎ込んでいたかを知っているからこそ、そんな無責任な励ましは残酷でしかなかった。
(私たちじゃ……もう、無理だ)
雅子は、自分たちの手には負えない絶望の深さを痛感していた。
「……咲ちゃん。実はね」
雅子が、静かに口を開いた。
「今日は、もう一人来ているの」
「え?」
咲が怪訝そうに顔を上げる。
「まさか……」と、咲の目に一瞬だけ、怯えと怒りのような感情が閃いた。
「まさか、課長じゃないですよね? 私、顛末書なんて絶対に書きませんからね!」
咲が少しだけ声を荒らげ、席を立とうとする。
「違うわよ、課長じゃないわ」と留美がバツの悪そうな顔でなだめようとしたが、咲の警戒心は解けない。
しかし、雅子は急に落ち着き払い、柔らかな大人の微笑みを浮かべて言った。
「大丈夫よ、咲ちゃん。……きっと、悪いようにはならないから」
その言葉に、留美は「何を言っているんですか?」という顔で雅子を見た。
この場を用意させたのは、あの『冴えないおじさん』の健介だ。
彼が出てきたところで、咲をどうにかできるのか。
留美の顔には、そんな疑いがありありと浮かんでいる。
それでも雅子は、健介ならばと思わずにいられなかった。
◇
その時だった。
スッ、と。
咲たちのすぐ後ろのボックス席から、一人の男性が立ち上がった。
そして、ゆっくりと振り返り、咲たちのテーブルの横へと歩み寄ってくる。
「……は?」
咲は、その人物を見て、信じられないというように目を丸くした。
「なんで……あんたが、ここにいるんですか」
咲の口から、無意識のうちに失礼な言葉が飛び出した。
それも無理はない。
第一線から外され、毎日オフィスでのらりくらりとサボっているだけの『窓際族』。
自分が最も嫌悪し、反面教師にしていた男が、なぜ最初から自分たちの背後の席に座っていたのか。
「なんの用ですか」
咲は苛立ちを露わにして突っかかった。
ただ、今の彼女には怒鳴り散らすような気力すら残っておらず、その声はひどく低く、弱々しいものだった。
留美が咲の隣へ席を移ると、健介は向かい側の通路側、雅子の隣に静かに腰を下ろした。
そして、ウェイトレスにお冷だけを頼むと、咲の荒んだ姿を一度だけ見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……こんなおじさんの回りくどい話も面倒だろうから。結論だけ言うよ」
「はぁ?」
「橘さんには……立ち直ってもらう」
それは、いつもの気の抜けた、のんびりとした口調だった。
しかし、その目には、咲がこれまで見たことのないような力強い光が宿っていた。




