第46話:反撃の狼煙
「……」
健介の真っ直ぐな眼光に気圧され、橘咲は言葉を失い、思わず息を呑んだ。
普段の『特攻隊長』の咲であれば、「窓際の分際で何偉そうなこと言ってるんですか」と噛みついていただろう。
しかし、魂が折れ、生命力を失っている今の彼女には、その力強い視線を跳ね返すだけの気力すら残っていなかった。
「……立ち直るって。私に、このまま諦めて始末書を書いて、会社に従えってことですか」
咲は視線を落とし、自嘲するように弱々しく呟いた。
健介は咲をじっと見つめ、わずかに眉を寄せた。
彼は少しだけ語気を和らげ、諭すように、優しく問いかけた。
「立ち直ってもらうと言っても、僕や大橋さんたちが、君の代わりに何かをしてあげられるわけじゃないんだ。……それに、仮に僕らが会社に直談判して君を助けたとしても、君は心の底からは納得できないはずだ。ましてや、僕みたいな『窓際のおじさん』に同情で助けられたなんてことになれば、余計に惨めだろう?」
図星を突かれ、咲はギュッと唇を噛み締めて黙り込んだ。
健介の言う通りだ。
自分がすべてを懸けて泥水をすすってきた案件なのだ。
誰かに助け舟を出されて収まるような、安いプライドで仕事をしてきたわけではない。
「本当に自分を助け、その折れた誇りを取り戻すことができるのは、自分自身だけだ。……橘さんも、頭では分かってるだろう?」
「分かってますよ……! そんなこと、分かってます……っ」
健介の静かな言葉に、咲はポロポロと涙をこぼし、震える声で訴えた。
「それが分かってるのに、どうすることもできないから……理不尽に全部奪われて、組織の力に押し潰されて、自分じゃもうどうしようもないから……っ。だから、こんなになってるんじゃないですか!」
すべてを諦めたような虚無感から、少しずつ咲の中に「悔しさ」という感情が蘇り始めていた。
健介はそれを確かめるように、さらに一歩踏み込んだ。
「できるかできないかは、今はどうでもいい。……君は、どうなったらこの件に『納得』できるんだい?」
「どうなったら、って……」
咲は涙を拭い、目の前のコーヒーカップを両手で強く握りしめた。
「それは……サンライズマートの担当をもう一度やらせてもらうこと。それだけです」
「それだけかい?」
「……それだけです」
健介は小さく息を吐き、呆れたように肩をすくめた。
「なら、どうしてさっき、課長が来たと思ってあんなに反応したんだい? 中川さんが『違うわよ、課長じゃないわ』って言っていただろう。『顛末書なんて絶対に書きませんからね』って、君は言ったよね」
「っ、それは……嫌に決まってるじゃないですか! 私、何も悪いことしてないのに!」
「つまり、橘さんが本当に救われるのは、サンライズマートの担当を取り戻し、かつ、理不尽に要求されている顛末書と始末書を白紙撤回させること。……それだね?」
健介がロジカルに彼女の望みを整理すると、咲は「……それができたら苦労しないですよ」と、再び投げやりに呟いた。
「意外と欲がないんだな」
「……は?」
「どういう意味ですか」と、咲が顔を上げて食って掛かる。
健介はふっと笑い、まるで世間話でもするかのような軽いトーンで、とんでもないことを言い放った。
「僕だったら、それだけじゃ納得しない。自分の成果を横取りして、挙句の果てに責任まで押し付けてきた第一課の奴らにも、多少は痛い目を見てもらう。……それでやっと『納得』というレベルだよ」
「――なっ」
咲はもちろん、隣で聞いていた中川留美も、向かいの大橋雅子も絶句した。
サンライズマートを取り戻すだけでも不可能なのに、会社の中枢であり、絶対的な権力を持つ第一課に「痛い目を見せる」だと?
「そんな……夢みたいなこと、いまさらできるわけないじゃないですか」
咲が呆れたように言うと、健介はニヤリと口角を上げた。
「じゃあ、その夢を実現しようじゃないか」
「はぁ!?」
あまりにも現実離れした健介の言葉に、咲の中にくすぶっていた苛立ちが、ついに明確な「怒り」へと変わった。
「いい加減にしてください! 他人事だからって、無責任に簡単に言わないでください!」
咲がバンッとテーブルを叩いてはっきりと怒りを露わにすると、隣の留美も同調するように冷ややかな声で追い打ちをかけた。
「沢村さん。提出を待ってもらえたのは分かります。でも、担当を取り戻して第一課に痛い目まで見せるなんて、本当にできるんですか? 無責任な夢物語で、咲をまた傷つけることにはなりませんか?」
留美の厳しい非難。
しかし、健介は全く動じることなく、二人の抗議をひとしきり聞いてから、のんびりとした口調で答えた。
「他人事、か。……まあ、そう言われるのも無理はないけど。もう僕も、この件に関しては『他人事』じゃないんだよ」
「何言ってるんですか」と、咲と留美が怪訝な顔を揃える。
健介は「いやぁ、実はね」と、まるでゴルフのスコアでも報告するような気楽さで笑いながら言った。
「僕も一緒にサンライズマートをなんとかするから、顛末書と始末書の提出は1週間待ってくれ、って上に直談判してきたんだ。……もし1週間以内に事態を好転させられなかったら、橘さんたちと一緒に、僕も責任を取って始末書を書くから、とね」
「――っ!?」
「こんなおじさんの始末書なんて、価値がない、いらないって言われるかと思ったけど。言ってみるもんだね、見事に1週間の猶予がもらえたよ」
健介がカラカラと笑うと、喫茶店のボックス席に、信じられないほどの重い沈黙が落ちた。
咲は健介が何を言っているのか理解できず、思考が停止していた。
隣の留美も、目を見開いたまま固まっている。
始末書。
責任を認め、処分の材料にもされ得る正式な書類だ。
今の咲には、死刑宣告を自分で用意するようにさえ思える。
それを、全く関係のない『窓際族』の健介が、自らの首も追加で差し出す条件で提出期限を延ばしたというのか。
最初に正気を取り戻したのは、雅子だった。
「さ、沢村さん……! なんで、そんな無茶なことするの!」
雅子が本気で顔を青ざめさせて身を乗り出すと、咲も留美もハッとして、「バカじゃないの!?」と声を揃えた。
「そうですよ! 沢村さんには関係ないじゃないですか!」
「どうしてあなたまで始末書を書くなんて言うんですか! もしダメだったら、沢村さんまで巻き添えで処分されるんですよ!?」
3人の女性たちからの一斉の非難と心配。
健介は「ははっ」と笑い、後頭部を掻いた。
「確かにバカかもしれないけど。でも、これで時間は1週間稼げたから、まあよかったじゃないか」
「よくないですよ!!」
咲が、今日一番の大きな声で絶叫した。
スウェット姿で、ノーメイクのまま。
しかし、先ほどまでの死んだような虚無感は、もうどこにもなかった。
胸の中には、健介の無謀な行動に対する強烈な怒りと、理不尽に立ち向かおうとする熱い感情が、はっきりと蘇っていた。
健介はさらに言葉を続ける。
「あ、それと。このことは、霧島課長には絶対に内緒ね。もし僕が勝手にこんな取引をしたってバレたら、課長に何言われるか分からないからね。怖い怖い」
わざとらしくブルッと震えて怯えるふりをする健介。
そのあまりにも能天気で、危機感のない態度に、咲の堪忍袋の緒がついに切れた。
「ふざけないでよッ!! あんたがクビになったら、私がもっと惨めになるじゃない!!」
咲が立ち上がり、身を乗り出して健介に怒鳴りつけた。
喫茶店の他の客が驚いてこちらを振り返るほどの大声だった。
その瞬間。
健介はピタリと笑いを止め、スッと目を細めた。
「……よし。それだよ」
「え……?」
「その気迫が欲しかった」
健介の声が、一瞬にして「気の抜けたおじさん」から、獲物を狙う肉食獣のような、低く鋭いトーンへと変わった。
「――」
咲は息を呑み、そのままの姿勢で固まった。
留美も雅子も、目の前の男から放たれる空気に、言葉を失っていた。
健介はゆっくりと身を乗り出し、3人の女性の顔を順に見回して、静かに告げた。
「いいかい。ここからの話は、極秘事項だ。このテーブルにいる4人以外には、絶対に口外しないこと。……第一課の鼻を明かし、橘さんの誇りを取り戻すための、反撃の作戦会議を始める」
そこから約30分間。
健介の口から語られた作戦の内容に、咲は終始信じられないというように目を丸くしていた。
留美も息を詰めて聞き入っていた。
大企業のルールを逆手に取る、その恐ろしく難易度の高い計画に。
当然、雅子もだ。
だが、不可能ではない。
この男の指示通りに動けば、本当に第一課の鼻を明かし、すべてをひっくり返せるかもしれない。
咲の胸の奥で、消えかけていた営業担当としての炎が、再び轟々と音を立てて燃え上がり始めていた。
◇
すっかり日が落ち、夜の帳が下りた東京の街。
秘密会議を終えた後、留美は「私が咲をマンションまで送っていきます」と言って、咲と共に喫茶店に残った。
気力を取り戻した咲は、「明日、絶対に出社しますから」と、健介に向かって力強く宣言していた。
健介は「ああ、待ってるよ」とだけ返し、雅子と共に喫茶店を後にした。
会社から離れた見知らぬ街の、駅へと続く舗道。
夜風が冷たく吹き抜ける中、雅子は健介のすぐ隣を、肩が触れそうなほどに寄り添って歩いていた。
「……健介さん」
雅子が上目遣いで、心配そうに声をかける。
「本当に、大丈夫なの? ……もし、さっきの作戦が失敗してサンライズマートがダメになったら、健介さんまで本当に始末書を書かされることになっちゃうじゃない」
『窓際族』として静かに生きてきた彼が、なぜここまでのリスクを背負ってまで、若手のトラブルに首を突っ込むのか。
雅子にはそれが心配でならなかった。
すると健介は、歩きながらふっと柔らかく微笑み、雅子を見た。
「何を言ってるんだ。君がいたおかげで、この逆転のチャンスができたんじゃないか。感謝してるよ」
「……え? 私が?」
雅子は足を止め、怪訝な顔をした。
自分が何かチャンスを作った覚えなど、全くない。
健介も立ち止まり、夜の街灯に照らされながら、静かに種明かしを始めた。
「俺の足を引っ張りたくて、ミスを待っている『誰かさん』がいるんだろう?」
「あっ……」
雅子はハッとした。
先日、自分が健介に伝えた話だ。
課長の霧島玲奈の背後で、健介を追い出そうと圧力をかけている黒幕の存在。
「だから、広域営業部の榊原部長を通して、それをチラつかせてやったんだよ。『沢村の始末書が取れるなら、それ以外はどうでもいい』という連中の心理を逆手に取ってね」
「……どういうこと?」
「雅子が教えてくれただろう? 俺のミスを待っている奴がいると。……ただ、それは広域営業部の榊原部長とは別にいるんじゃないかと思う。もし彼自身が黒幕なら、今回の橘さんのトラブルを利用して、もっと直接的に俺にも責任を被せようとするはずだからね。第一課や広域営業部の連中も、誰かに使われているのかもしれない」
健介の冷徹な分析に、雅子は息を呑んだ。
たったそれだけの情報から、巨大な組織の力関係と、見えざる敵の立ち位置まで読もうとしていたというのか。
「けど、広域の部長クラスともなれば、その上の『誰か』から、『沢村健介を排除しろ』という何らかの指示か、あるいは噂くらいは聞いているはずだ。……そこに、俺が自分から飛び込んでいったのさ」
健介はポケットに両手を突っ込み、少し楽しそうに笑った。
「『橘の処分を1週間待ってくれ。もしダメなら、橘と霧島課長だけでなく、私も一緒に責任を取って始末書を書く』とね。広域の榊原部長からすれば、橘たちに加えて、上の人間が欲しがっている『沢村健介の首』までおまけで手に入るかもしれない。最高に美味しい取引だ」
ようやく雅子にも、健介がどんな読みで動いたのかが見えてきた。
広域営業部長の榊原浩一に差し出した条件が、どこかで健介を排除したがっている相手の耳に届いたのではないか。
それが健介の読みなのだろう。
そして、健介の責任を認める始末書が手に入る可能性を残すために、東日本営業部長の吉岡正臣からの催促が止まった。
そんな筋書きは考えられる。
だが、誰が誰へ話を通したのかまでは、雅子には分からなかった。
「……もうちょっと時間かかると思ったけど。あんなに早く吉岡部長から課長へ処分保留の電話が来るとはね。俺もよっぽど嫌われたもんだ」
健介はカラカラと笑いながら、再び駅へと向かって歩き出した。
雅子は、その広い背中を呆然と見つめていた。
健介が凄い営業マンであることは、昔から知っていた。
しかし、与えられた数少ないピースから組織の思惑を読み、自らを餌にして、上位の権力者たちを動かそうとするとは。
(……なんて恐ろしい人なの)
雅子は改めて、隣で少し猫背になってだるそうに歩く男の、その器の大きさと恐ろしさに驚嘆していた。
「ほら、雅子。置いていくよ」
健介が振り返り、優しく微笑みかける。
その大人の男の余裕と、彼が自分を信頼して秘密を共有してくれたという事実が、雅子の胸を強く打った。
「……待ってよ、健介さん」
雅子は小走りで健介に追いつくと、たまらず彼の腕に自分の腕を絡ませ、豊かな胸を押し付けた。
「おっと。雅子、会社の人に見られたら……」
「いいじゃない。夜なんだから」
雅子は上目遣いで健介を見つめ、甘い吐息を漏らした。
驚嘆と尊敬。
そしてそれと同時に、雅子は一人の女として、身体の奥が激しく熱くなるのを感じていた。




