第47話:特攻隊長の帰還
翌朝。
健介は、ほのかに甘いルームフレグランスの香りが漂う見覚えのあるベッドの上で目を覚ました。
大橋雅子のマンションの寝室だった。
昨夜、橘咲たちとの秘密会議を終えた後。
雅子は、健介の底知れない実力と、自らの首を差し出す行動に驚いた後、再び彼へ強い熱情を向けてきた。
自分を求める気持ちは、その眼差しからも伝わってきた。
その強烈な想いに当てられ、健介もまた、彼女の誘いを断ることはできなかった。
今回の逆転の糸口は、雅子が、健介を追い出そうとしている人間がいると教えてくれたからこそ掴めたものだ。
だからといって、そのお礼や形式的な意味合いで抱いたわけではない。
彼女自身が放つ、43歳という大人の女のむせ返るような魅力と、何よりも健介に対する18年分の重く、純粋な想いの強さ。
それに強く惹かれたからこそ、二人は求め合い、激しく一夜を共にしたのだった。
「……あなた、起きて」
耳元で優しく囁く声。
健介が重い瞼を開けると、そこにはすでに身支度を整え、その上にエプロンを身につけた雅子が、ベッドの脇に座って彼を覗き込んでいた。
「ん……雅子」
「おはよう、あなた」
「ああ、おはよう。……って、あなたって」
健介が苦笑いしながら身を起こすと、雅子は「ふふっ」と少女のように悪戯っぽく笑った。
「夫婦って、こんな感じなのかなって思って。……ダメでした?」
「いや、いいんじゃないかな」
(やれやれ……本当に可愛い人だ)
健介は内心でそう思いながら、ふと、大阪に単身赴任している妻・麻由美との新婚時代を思い出した。
あの頃は確かにこんな感じだった。
「ほら、着替え用意してあるから。早く起きてくださいね」
雅子に促されてベッドから出た健介は、サイドテーブルに置かれた衣類を見て、思わず目を丸くした。
綺麗に折り畳まれたワイシャツ、アンダーシャツ、さらには新品のトランクスと靴下まで。
それも、すべて健介のサイズに合致しているものだった。
昨日、このマンションへ向かう前。
健介が「着替えがないから、コンビニで少し買っていくよ」と言った際、雅子は「大丈夫ですよ。何もいりません」と自信満々に制止したのだ。
その「大丈夫」の答えが、これだった。
(……俺がまた泊まりに来ると信じて、あらかじめ全部買い揃えて用意していたってことか)
健介は、彼女の愛の深さに、改めて「この人には敵わない」と背筋が伸びる思いだった。
シャワーを浴びて新しいシャツに袖を通し、ダイニングに向かうと、テーブルにはすでに朝食が並べられていた。
焼きたてのパンの香り、色鮮やかなサラダ、ベーコンエッグ、そして温かいポタージュスープ。
普段、健介はテレビのニュースを見ながら食パンをかじって野菜ジュースで流し込むか、納豆と味噌汁だけの味気ない朝食で済ませている。
それとは比較にならないほど豪華で、何よりも「誰かが自分のために作ってくれた」という安らぎに満ちた朝食だった。
昨夜の激しい情事で失われた健介の体力が、みるみるうちに回復していくようだった。
「本当は、このまま一緒に出社したいところですけど……そうもいかないわね」
雅子は向かいの席でコーヒーをすすりながら、少しだけ残念そうに微笑んだ。
「そうだね」
健介が笑って返すと、雅子は嬉しそうに目を細めた。
二人は朝食を済ませ、駅までは並んで歩いた。
そして、会社の最寄り駅の少し手前で別れ、疑われないように時間差をつけてオフィスビルへと向かった。
◇
健介が第三課のフロアに到着した時、時刻は8時30分を回ったところだった。
オフィスのメンバーはパラパラと出社し始めていたが、咲の姿はまだなかった。
健介はビジネスバッグを自席に置き、いつものように給湯室横の自動販売機へと向かった。
微糖の缶コーヒーのボタンを押し、ガコンと缶が落ちてきたタイミングで、背後からスッと気配が近づいてきた。
「おはよう、沢村さん」
振り返ると、そこにはエースの佐々木澪が立っていた。
周囲に人がいないことを確認して、彼女は声を潜めて尋ねてきた。
「……昨日は、どうだったの?」
健介は昨日、中川留美たちと咲に会いに行くため、定時前にオフィスを出ていた。
澪からのLINEが夜に届いていたことは知っていたが、雅子と一緒にいたため、怪しまれないようにあえて既読にはしていなかったのだ。
「ああ、ごめん。スマートフォンの調子が悪いのか、通知が来たのが今朝でね」
健介が適当な言い訳をすると、澪は「ふぅん」と少し疑わしげな目を向けたが、追及はしてこなかった。
「連絡のことはいいよ。それより、咲さんはどうなの?」
「とりあえず、今日出社してくるよ。あとは彼女次第だ」
健介がそう答えると、てっきり「よかった!」と喜ぶかと思った澪が、なぜか不機嫌そうに眉をひそめた。
「どうしたんだい?」
「……沢村さん。なんだかいつもと違う匂いがする」
「えっ」
「甘い、女の人の香水みたいな……それも、知ってる匂いがするんだけど」
(――っ!)
健介の背筋に、氷のような冷や汗が流れた。
朝、雅子の部屋でシャワーを浴びて彼女の用意したシャツを着てきたが、ジャケットとスラックスは昨日のままだ。
そこに、雅子の部屋のルームフレグランスや、彼女自身の香水の匂いが移ってしまっていたらしい。
しかも、澪はオフィスで常に雅子と一緒に働いているのだ。
その匂いの主が誰かに気づかれるのは時間の問題だ。
「昨日、橘さんと話す間、大橋さんがずっと隣に座っていたから、それでスーツに匂いが移ったのかもしれない」
健介が百戦錬磨のポーカーフェイスで淡々と事実を述べるように言い訳を繰り出すと、澪はジト目で健介のスーツをじろじろと眺めた。
「ふぅん。……ていうか沢村さん、なんで毎日スーツ変えないの?」
「ああ、クリーニングに出して、取りに行くの忘れててね。今日はこれしかなくてさ」
「だらしないなぁ」
澪は小さくため息をつき、少しだけ顔を近づけて、上目遣いで健介を見つめた。
「一人暮らしだから、大変なんだね。……やっぱり私が、時々家に行って色々とお手伝いしようか?」
「いや、俺は既婚者だからね。それはまずいだろう」
「別にいいじゃない。どうせ家に奥さんいないんでしょ? 部屋の掃除とか、洗濯とか……あと、料理だって結構自信あるんだよ。それに夜だって」
胸を突き出すようにする仕草は、完全に肉食女子のそれだった。
周囲に人がいないとはいえ、オフィスの中で普通にこんな大胆な提案をしてのける彼女に、健介は「やれやれ……」と内心で天を仰いだ。
「気持ちだけ受け取っておくよ。さ、仕事の時間だ」
健介がそそくさと自席に戻り、ノートパソコンを立ち上げると。
数分も経たないうちに、画面の右下で社内チャットのウィンドウが点滅した。
隣の席の星野佳奈からだった。
『おはようございます! 昨日は橘さんのこと、どうだったか聞きたかったんですけど……』
『それより沢村さん、なんで大橋さんと同じ匂いさせてるんですか?(怒)』
(……こっちもか!)
健介はキーボードの上に突っ伏しそうになった。
女性の匂いに対する感度と記憶力は、本当に侮れない。
恐るべき嗅覚だ。
健介は冷や汗をかきながら、澪に言ったのと全く同じ「隣に座っていたから」「クリーニングを忘れて同じスーツを着ているから」という言い訳を打ち込んで送信した。
すると、すぐに佳奈から返信が来た。
『そうなんですね』
『もしよければ、私がお家に行ってお世話しましょうか? ご飯も作りますし、アイロンがけも得意ですよ!』
澪と全く同じ反応だった。
これは最近の若い子の傾向なのだろうか、それともこの部署の女性陣が肉食気味なのだろうか。
健介は「自分でやるから大丈夫だよ、ありがとう」と苦笑いしながら返信を打った。
そうこうしているうちに、時計の針が9時を指そうとしていた。
朝礼が始まる直前。
バンッ!
オフィスのドアが勢いよく開き、一人の女性が飛び込んできた。
「おはようございます! すみません、電車が遅れちゃってギリギリになりました!」
大きな、よく通る声。
そこに立っていたのは、昨日まで死んだ魚のような目をしていた咲だった。
顔にはまだ少しやつれた疲労の色が残っているが、メイクはきちんと施され、髪はいつものようにポニーテールで高く結い上げられている。
何より、声のトーンと纏っている空気が、完全にいつもの『特攻隊長』のそれだった。
咲は自分のデスクにバッグを放り投げると、すぐさま一番奥にある、課長の霧島玲奈の席へとツカツカと歩み寄った。
「課長、お休みいただいてすみませんでした! 顛末書と始末書は、正式期限の来週月曜より前に、課内の目標として金曜日までに必ず提出します! それと、私が休んでいる間に別の取引先からも督促が来ているみたいなので、準備を終え次第、すぐ外回りに行ってきます!」
一気にそれだけをまくし立てると、咲は玲奈が返事をする暇も与えずに自席に戻り、ものすごい勢いでノートパソコンを立ち上げてタイピングを始めた。
そのあまりの豹変ぶりに、健介と雅子以外の全員が目を丸くして固まっていた。
留美は目を見開き、咲の姿を追っていた。
昨日、咲と別れるまで一緒にいた留美にも、この変わりようは予想以上だったのかもしれない。
見た目は本調子ではなくても、あの声の張りは、決して無理をしている「空元気」ではない。
彼女の内に、明確な「戦う意志」が宿っている証拠だった。
留美は一瞬だけ、斜め前で気の抜けた顔をしてコーヒーをすすっている健介に目をやり、すぐに気にしない素振りで自分のモニターへと視線を戻した。
咲はその宣言通り、午前中のうちに猛烈なスピードで資料の準備を終わらせ、昼前には「行ってきます!」と風のようにオフィスを飛び出していった。
健介もまた、昼食のタイミングで立ち上がり、「午後から担当企業のフォローに回るので、今日はそのまま直帰します」と玲奈に伝えてオフィスを出た。
◇
咲は、オフィス街の少し入り組んだ裏路地にある小さな定食屋の前で、健介を待っていた。
暖簾には「大衆食堂・よしだ」とある。
少し離れた電柱の陰に立っていると、健介がこちらへ歩いてきた。
「なんだ、中に入って待ってればよかったのに」
「お疲れ様です……。いや、本当にここで合ってるか分からなかったし、こういう渋いお店、一人じゃ入ったことなくて……」
咲は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「それより沢村さん! 本当にこんなことしてて間に合うんですか!? 課内の提出目標は金曜日なんですよ!?」
「まあまあ、焦らない。戦の基本は、まずは腹ごしらえからだよ。中に入ろう」
健介は不安そうな咲を促し、暖簾をくぐって店に入った。
大将が健介の顔を見て「おお、いらっしゃい。今日は奥の席、空けといたよ」と声をかけてくれる。
周囲から死角になる一番奥のテーブル席に腰掛けると、健介は迷うことなく注文した。
「大将、今日は景気づけだ。とんかつ定食、大盛りで2人前お願い」
「あいよっ!」
しばらくして、揚げたての分厚いとんかつと、山盛りのご飯が運ばれてきた。
「さあ、冷めないうちに。ここのとんかつは絶品だからね」
健介がソースをかけて一切れ口に運ぶ。
サクッという良い音がする。
健介は、うまそうにとんかつを頬張っていた。
咲は「確かに腹は空いてるんですけど……」と気が進まない様子だったが、促されるままにとんかつを一口かじった。
「っ……!」
その瞬間、咲の目が大きく見開かれた。
極限までストレスに晒され、まともに食事を摂っていなかった身体に、揚げたての肉の旨味と白米の甘さが暴力的なまでに染み渡っていく。
「美味しい……!」
そこからの咲の食べっぷりは見事だった。
まるで何かに取り憑かれたように無心でとんかつを頬張り、大盛りのご飯をあっという間に平らげてしまったのだ。
「ふぅ……ごちそうさまでした!」
「ははっ、見事な食べっぷりだ。さすが若いね」
「そんなこと言って。おじさ、んんっ、沢村さんだって、おかわりまでしてたじゃないですか」
咲は口元を拭いながら、この数週間で初めて、心からの笑顔を見せた。
美味しいものを食べて、身体の内側からエネルギーが湧き上がってくるのを感じる。
「別におじさんと呼んでくれていいよ、事実だからね」
「ふふっ、変な人ですね」
二人の間にあった見えない壁が取り払われ、ようやく本当の意味で「バディ」として打ち解けた気がした。
だが、問題はこれからだ。
課内の提出目標である金曜日までに、あの強大な第一課を相手に、本当にサンライズマートの件をひっくり返さなければならない。
もし失敗すれば、咲だけでなく、目の前で笑っているこの男まで道連れにして地獄に落ちることになる。
「沢村さん。……それで、どうするんですか?」
咲が真剣な表情に戻り、身を乗り出した。
健介は全く焦った様子もなく、食後のホットコーヒーをすすっている。
そして、ビジネスバッグからクリアファイルに入った1枚の紙をスッと取り出し、テーブルの上に置いた。
そこに印字されている内容を目で追った瞬間。
咲の顔が、みるみるうちに怒りで真っ赤に染まっていった。
「なっ……! あいつら……ッ!!」
咲がギリッと拳を握りしめ、低く唸り声を上げる。
そこには。
なぜサンライズマートの高橋バイヤーが激怒し、取引が白紙になったのか。
その第一課の信じられないような怠慢とミスの全貌が、日付と担当者名入りで、極めて詳細に記された文書があったのだ。




