第48話:最後のピース
「なっ……! あいつら……ッ!!」
定食屋の周囲から死角になった一番奥のテーブル席。
食後のコーヒーカップの横に置かれた1枚の紙。
そこに印字された第一課の怠慢とミスの全貌を読んだ橘咲は、今にも席を蹴り立てて飛び出していきそうな勢いだった。
「沢村さん! これですよ、これ! これを第一課のフロアに叩きつけて、あいつらのミスと怠慢を全部暴露してやりましょうよ! 私たちに責任をなすりつけようとしたことを、全社に向けて糾弾するんです!!」
『特攻隊長』の目に、強烈な闘志と怒りの炎が宿る。
これさえあれば、自分たちの無実を証明し、第一課の連中を社内的に抹殺できる。
そう確信して息巻く咲に対し。
「……無理かな」
健介は、手元のホットコーヒーを一口すすり、極めて冷静な、氷のような声で一刀両断した。
「え……? どうしてですか! 証拠ならここに――」
「こんな紙切れ1枚、あの第一課の安西課長や広域営業部の榊原部長が、素直に認めるわけがないだろう? 『第三課の人間が、自分たちの処分を逃れるために捏造した文書だ』と言いがかりをつけられて、逆に名誉毀損でこちらが首を絞められるのがオチだ」
「――っ」
健介の冷徹な正論に、咲は言葉を詰まらせた。
確かに、この紙切れに会社の公式なハンコが押されているわけではない。
ただの内部情報のテキストだ。
権力を持った第一課が「捏造だ」と言い張れば、弱小の第三課がそれを覆す術はない。
「と、ところで……沢村さん、これ、一体誰が書いたんですか?」
咲が不審そうに尋ねると、健介は少しだけ視線を逸らし、のんびりとした口調で答えた。
「昔の部下……今は同僚か。まあ、少し頼み事をして調べてもらったんだよ」
「昔の部下って……」
咲はハッとした。
今まで、この『冴えないおじさん』がどこから左遷されてきたのかなど、興味もなく、気にも留めていなかった。
しかし、第一課の内部事情をここまで詳細に、しかもわずか数日で調べ上げられる人脈を持っているとすれば。
「沢村さんは……もしかして、第一課の出身だったんですか?」
咲が驚いて尋ねると、健介は「まあ、そこも元いた場所の一つだね」とだけ言って、短く濁した。
「そこも……? じゃあ、あとは……」
咲に思い当たるのは、営業本部の中枢しかない。
まさか、あの絶対的な権力を持つ中枢に、この目の前で気の抜けた顔をしてコーヒーを飲んでいる男がいたというのか。
咲は驚愕に息を呑んだ。
(まさか……この人、本当に何者なの……?)
営業本部の中枢で、全社の営業数字を見渡していた人なのだろうか。
この会社の組織の力学を、どこまで知っているのか。
咲にはまだ、想像もつかなかった。
「でも、沢村さん! リーク元が第一課の内部の人なら、その人に直接証言してもらえばいいじゃないですか!」
咲は食い下がるように身を乗り出した。
しかし、健介は静かに首を横に振った。
「それはだめだ。……当然だろう? 第一課の厳重な情報統制を潜り抜けて、リスクを冒してこれをリークしてくれた人間に、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない」
「っ……それは……」
咲はぐっと言葉に詰まった。
健介の言う通りだ。
内部告発者を矢面に立たせれば、その人は間違いなく第一課の中で報復を受け、会社にいられなくなる。
自分たちの保身のために、関係のない誰かを犠牲にすることは許されない。
「そんな……じゃあ、これが使えないなら、こんな情報意味ないじゃないですか……っ!」
咲の瞳に、再び悔し涙が滲み始めた。
せっかくの証拠が出てきたのに、何もできない。
理不尽な現状は何も変わらない。
その絶望感に押し潰されそうになる。
すると、健介はコーヒーカップをコトリと置き、真っ直ぐに咲の目を見つめた。
「橘さん。……君が今、本当に力を注ぐべき相手は、第一課じゃない。サンライズマートだ」
「え……?」
「我々は、青葉飲料の営業だ」
健介の声は、怒鳴っているわけでもなく、ただの静かなトーンだった。
しかし、その言葉には、咲が今まで聞いたどんな上司の言葉よりも、確かな「重み」があった。
「第一課のやり方に思うところがあっても、彼らもまた、同じ会社の人間だ。我々が目指すべき最終的な目的は、生活者へ良いものを提供すること、そして会社の利益だ。それを忘れちゃいけない」
「生活者、会社の利益……」
「内輪で戦って、せっかくの大型契約を潰してしまっては本末転倒だ。もし、君がこの文書を使って第一課だけを目の敵にし、彼らを蹴落とすことだけを考えるなら……やっていることは、君の成果を横取りしようとした彼らと大差ないよ」
「――っ」
咲の胸に、その言葉が鋭く、しかし温かく突き刺さった。
自分の手柄を取り戻したい。
理不尽な処分を撤回させたい。
第一課に復讐したい。
咲の頭の中には、それしかなかった。
しかし、咲には、目の前の男がそんな派閥争いをとうに見限り、もっと高い場所から「営業としての本質」を見つめているように思えた。
「じゃあ……どうして沢村さんは、私にこんなものを見せたんですか?」
咲が震える声で尋ねると、健介はふっと柔らかく微笑んだ。
「情報を集めるのは、営業の基本だよ」
健介は、テーブルの上に置かれた1枚の紙を指差した。
「事実を積み上げ、そこから仮説を立て、計画し、動く。……PDCAサイクルなんて言葉があるけど、何も企画を進めることだけがPDCAじゃないよ」
健介は言葉を続けた。
「つまり、今僕らがやるべきことは、急いで事実を積み上げ、サンライズマートがなぜ激怒しているのか、その『本当の状況』を把握することだ。この文書は、そのためのパーツの一つに過ぎないんだよ。……まあ、完全に心を折られていた君に、奮起してもらいたかったから最初に見せたっていう、僕の個人的な考えもあるけどね」
咲は、顔から火が出るほど自分の考えの浅はかさを恥じた。
自分は、もうすぐ主任になるかもしれないという手応えから、どこかで「自分は一人前の営業だ」と思い上がっていたのではないか。
営業として泥水をすすって築いてきた自信とプライドがあった。
しかし、目の前の健介のスケールの大きさと、本質を見抜く深さを前にして、己のあまりの未熟さに何も言えなくなってしまった。
(……なんなの、この人。いったい、なんなの)
咲は答えの出ない問いを胸の中で繰り返した。
定食屋の片隅で、目の前の男を呆然と見つめながら。
「さて。話はここまでにして、反撃の準備を始めようか」
健介の言葉を合図に、定食屋の奥のテーブルは、二人の「分析スペース」へと変わった。
健介は、昨日の秘密会議で大橋雅子たちに指示して集めさせていた、サンライズマートに関する売上情報や企業データの資料を広げた。
さらに、咲が自分のバッグから、使い込まれた分厚いシステム手帳を取り出してテーブルに置く。
「沢村さん、私がこれまでに集めてきた情報です」
健介がその手帳を開き、ページをめくっていく。
そこには、サンライズマートの高橋バイヤーの性格、趣味、好きな食べ物、休日の過ごし方が並んでいた。
さらには奥さんの誕生日から子供の進学先、他の幹部のことまで、あらゆる情報がびっしりと手書きで書き込まれている。
それは、咲が8ヶ月間、足繁く通い、門前払いされながらも食らいついて集めた、血と汗と涙の結晶だった。
「……素晴らしい」
健介は、手帳のページを愛おしそうに撫でながら、心からの感嘆の声を漏らした。
「これが、『営業の神髄』ってやつだよ。よくここまで一人で調べ上げたね、橘さん」
「え……あ、いえ、それほどでも……」
『窓際のおじさん』だと見下していた男からの、手放しの絶賛。
咲は不意に胸の奥が熱くなり、少しだけ頬を染めて視線を逸らした。
「第一課のミスが記されたこの文書と、企業データ。……そして、この君の手帳こそが、今回の絶望的な事態を解決するための、最後のピースになる」
健介は自信に満ちた声でそう断言した。
「もしかして……本当に、助かるんですか?」
咲は、すがるような思いで尋ねた。
健介は「たぶんね」と笑顔を見せた。
その瞬間、咲は胸の奥から、これまでに感じたことのない奇妙な感情が湧き出してくるのを感じた。
第一線の営業として、常に気を張り、弱みを見せずに戦い続けてきた。
社内の男性営業たちには負けたくないと、虚勢を張ってきた。
でも。
(なんだろう……この人の前にいると、凄く、安心する)
どんなに絶望的な状況でも、決して取り乱さず、揺るぎない自信とロジックで光を見せてくれる。
その包容力に、強がっていた『特攻隊長』の心が、少しずつ、しかし確実に溶かされていくのを感じていた。
その間、資料や手帳の記述を素早い視線で追いかけていた健介は、やがてフッと満足そうに笑った。
「よし、大丈夫だ。もう、安心していいよ」
「……へっ?」
健介の突然の宣言に、咲は間の抜けた声を出してしまった。
「サンライズマートの本社は、群馬の高崎だったね。明日は水曜日だ……うん、タイミングとしてはちょうどいい。明日の午後、高崎を訪ねよう」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
咲は慌てて身を乗り出した。
「本社は高崎ですけど、商談のメインとなる本部機能は東京にあるんですよ!? 高橋バイヤーもほとんど東京のオフィスにいますから、高崎の本社に行ったって誰もいませんし、意味はないはずです!」
それに、と咲は口ごもった。
「そもそも、向こうは『担当が第一課になるなら白紙に戻す』という勢いで激怒して言ってきたんです。今さら私が電話して、アポイントが取れる自信がありません……」
自分から会いに行きたいのは山々だが、完全に拒絶されている今、まともに話を聞いてもらえるとは思えなかった。
咲の不安を聞いて、健介は「そうだね」とのんびりと同意した。
「だから、そこは僕が持っている『ピース』を使うよ」
「ピース? なんですか、それ」
「それは……明日のお楽しみ、ということで」
健介は人差し指を口元に当てて、悪戯っぽく濁した。
「その舞台は、明日の17時だ。……君はそれまでに、一つだけ準備しておいてほしいことがある」
健介が耳打ちした指示に、咲は「えっ……本当に、そんなことでいいんですか?」と目を丸くしたが、健介は「それが一番重要なんだ」と笑って頷いた。
定食屋を出る頃には、すっかり西日が傾いていた。
明日の17時。
本当に、この『冴えないおじさん』の言う通りに動いて、あのサンライズマートの激怒を鎮められるのだろうか。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、咲の心の中はずっとざわついていた。
この不安よりも大きな、胸の高鳴り。
この男についていけば大丈夫だという、絶対的な信頼。
(この気持ちがなんなのか……それを知るためにも、彼についていくしかない)
咲は、夕陽に照らされた健介の広い背中を見つめながら、強く、固く決意していた。




