第49話:社長の名刺
水曜日の朝。
出社するなり、健介は課長席の前に立ち、静かに告げた。
「課長。今日は午後から、橘さんと群馬の高崎へ出掛けてきます」
課長の霧島玲奈は、ノートパソコンに向けられていた視線をゆっくりと健介へ移した。
橘咲と玲奈の顛末書・始末書の正式期限は、来週の月曜日。
そこまでに使える今週の営業日は、今日を含めてあと3日しかない。
窓際社員の健介が、この火急の事態に何の関係もない高崎へ行くなどと言い出したのだ。
いつもの玲奈なら、「ふざけないでください」と烈火の如く怒鳴りつけていたはずだ。
しかし、現在の彼女の目には、かつての氷の女王のような鋭い精気は微塵もなかった。
「……分かりました。気をつけて」
ただ一言、機械のようにそれだけを呟き、再びノートパソコンのモニターへと視線を落としてしまった。
(……相当、参っているな)
健介は内心で小さく息を吐いた。
上層部からの理不尽な圧力に板挟みにされ、孤立無援で追い詰められている玲奈のことを、健介も心配はしている。
以前、大橋雅子から聞いたハニートラップの件もそうだ。
彼女はギリギリのところで踏みとどまっているが、心が完全に折れるのは時間の問題だろう。
だが、今は彼女にかかりきりになっている暇はない。
まずは、目の前の巨大な問題――サンライズマートの件を片付け、第一課の鼻を明かさなければ、第三課は本当に崩壊してしまう。
健介が自席に戻ると、斜め前では咲が猛烈なスピードでキーボードを叩いていた。
早出してまで彼女が必死に準備しているのは、本来であれば先週、サンライズマートの高橋バイヤーに提案するはずだった『特大イベント企画』の資料だ。
健介の的確なアドバイスに沿って、さらにデータを肉付けし、徹底的にブラッシュアップを図っている。
そんな『特攻隊長』の熱気とは対照的に。
健介は相変わらず、自動販売機で買った安っぽい微糖の缶コーヒーをすすっている。
カメのようなスピードで、人差し指でキーボードをポチポチと叩きながら、のらりくらりと時間までノートパソコンと向き合っていた。
健介に向けられる視線のいくつかには、こんな状況で何を呑気にしているのか、という呆れが滲んでいるようだった。
その一方で、健介のもとには応援の言葉も届いていた。
ピコンッ。
画面の隅で、それぞれの個別チャットの通知が点滅する。
『沢村さん、いよいよですね。どうか橘さんのこと、よろしくお願いします』
『沢村さん、頑張ってください! 第一課の連中なんか、ぶっ飛ばしてきてくださいね!』
『沢村さんなら絶対に大丈夫です! 応援してます!』
雅子、佐々木澪、星野佳奈。
第三課の女性陣の中でも中核をなす3人の共犯者たちからの、熱烈なエールだった。
健介は周囲に気づかれないように薄く微笑み、『ありがとう。行ってくるよ』と、相変わらず人差し指でゆっくりとそれぞれに返事を打ち込んでいた。
◇
昼を過ぎた頃。
健介と咲は都内で軽く食事を済ませた後、JRの高崎線に乗り込み、群馬県高崎市へと向かっていた。
出発した時には降っていなかった雨が、いつの間にか窓ガラスを激しく叩いていた。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、ただでさえ重い咲の心をさらに不安にさせる。
(こんな時に、よりによって雨なんて……)
これから絶望的な状況をひっくり返そうという大一番だというのに、まるで天に見放されているような気がしてならない。
咲が不安に駆られて隣を見ると、健介は腕を組み、目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。
「……えっ、寝てる?」
咲は信じられない思いで健介の横顔を見つめた。
今日がどれだけ重要な日か分かっているのだろうか。
それとも、これがこの男の「肝が据わっている」ということなのか。
不安がさらに大きくなる咲だったが、もうここまで来たら後戻りはできない。
(もう、どうとでもなれ……!)
咲はギュッと拳を握りしめ、自分自身に気合いを入れるように覚悟を決めた。
そして、電車が高崎駅に到着した時。
約束の17時まではまだ時間があるということで、二人は駅前の静かな喫茶店に入り、時間を潰すことになった。
「いやぁ、ここのコーヒーはうまいね」
健介は全く緊張する様子もなく、クラシックが流れる店内でくつろいでいる。
しかし咲は、コーヒーを前にして一つの大きな疑問に取り憑かれていた。
(サンライズマートの本社に行くのは分かる。でも……そもそも私たちは、誰に会いに行くつもりなんだろう?)
咲が健介から「準備しておいてほしい」と言われたのは、渾身のイベント企画書だ。
企画書を持っていくということは、当然、相手は決裁権を持つ高橋バイヤーのはずだ。
しかし、サンライズマートの商談のメインである本部機能は東京にあり、高橋バイヤーも普段は東京のオフィスにいる。
もしかして、今日が本社会議の日で、高橋バイヤーが高崎にいることを健介は知っていたのだろうか? あるいは、群馬エリアの店舗巡回のタイミングを見計らったのだろうか。
だが、8ヶ月間サンライズマートを知り尽くすまで通い詰めた咲には、それはどう考えても違っているように思えた。
巡回はいつも土曜日だし、本社会議があったとしても、今はネット会議が主流だ。
わざわざ高橋バイヤーが平日の夕方に高崎本社にいるとは考えにくい。
(いったい、沢村さんが持っている『ピース』ってなんなの……?)
咲が悶々と考えを巡らせていると、やがて健介がスッと時計を見た。
「さて、30分前だし、行こうか」
健介の言葉に促され、二人は喫茶店を出た。
駅前から歩いて約10分。
雨に濡れたアスファルトの先に、サンライズマートの巨大な自社ビルがそびえ立っていた。
本社に到着すると、健介は迷うことなく1階の受付へと向かい、慣れた様子でアポイントを告げた。
咲も過去に何度か、挨拶回りでこの本社に来たことがある。
高橋バイヤー以外の地方担当者との商談などは、たいてい1階にいくつかあるガラス張りの応接室か、簡素なミーティングルームに通されるのが常だった。
今回も当然そこだろうと咲が待っていると。
「……お待ちしておりました。ご案内いたします」
受付嬢がカウンターの内側から外へ出てきて、深々と頭を下げ、案内を始めたのだ。
いつもなら「あちらのブースでお待ちください」と丁寧だが機械的な対応をされるだけなのに、今日は明らかに雰囲気が違った。
そして、受付嬢はそのままエレベーターホールへと二人を導き、自らもエレベーターに乗り込んだ。
行き先ボタンが押された階数を見て、咲は息を呑んだ。
『7階』。
8階建てのこの本社の、7階。
そこは、一般の営業マンが決して立ち入ることのない、役員や社長の執務室がある特別なフロアだったはずだ。
チーン、と静かな音を立ててエレベーターの扉が開く。
そこに広がっていたのは、今まで入ったことのある1階の簡素な部屋とは、まるで別世界だった。
ふかふかの分厚い絨毯、壁に飾られた高価そうな絵画、そして重厚な木目調のドアが並ぶ静寂の廊下。
「こちらへどうぞ」
通されたのは、革張りの巨大なソファと、大理石のテーブルが置かれた最高級の応接室だった。
「少々お待ちくださいませ」
受付嬢が深く一礼して出ていく。
しばらくして、今度は秘書のようなスーツ姿の女性が現れ、高級そうな陶器のカップでコーヒーを運んできた。
「大変申し訳ございません。丸山は前の会議が押しておりまして、少し遅れるとのことです」
「いやいや、構いませんよ。相変わらずお忙しそうですね」
健介はのんびりとした声で返し、コーヒーに口をつけた。
(丸山……? 社長と同じ名字だけど、まさか……)
咲の頭の中に疑問が浮かんだ。
サンライズマートの企業データを隅から隅まで手帳に書き込み、頭に叩き込んでいる咲は、当然、社長の名前も知っている。
しかし、自分は第一線の現場で泥水をすする一介のヒラ営業だ。
よもや雲の上の存在である本社のトップに会うことになっているなどとは、この時点では想像すらできなかったのだ。
それよりも、この7階という異常な空間の放つプレッシャーに、咲は胃がキリキリと痛むのを感じていた。
そこから、なんと1時間以上。
二人はその重厚な応接室で待たされることになった。
ただでさえ緊張する空間で、刻一刻と時計の針だけが進んでいく。
咲は口の中がカラカラに渇き、何度も時計を見ては冷や汗を流していた。
しかし、隣に座る健介は「うん、このコーヒーもなかなかだ」などと言いながら、全く動じることなくくつろいでいる。
そして、約束の時間を1時間も過ぎた頃。
コンコン、と重厚なドアがノックされた。
先ほどの秘書が現れ、それに続いて、パリッとした仕立ての良いオーダースーツを着こなした、白髪の初老の男性が現れた。
その鋭い眼光と、纏っている圧倒的なオーラは、一目でただ者ではないと分かるものだった。
健介が静かに立ち上がり、咲も慌ててそれに続いた。
「いやぁ、ごめんごめん! うちの若い者たちの話を聞いていたら、つい熱くなってしまってね。気づいたら1時間も話し続けてしまったよ、はっはっは!」
初老の男性は、威厳のある見た目とは裏腹に、豪快に笑いながら部屋に入ってきた。
「あ、私にもコーヒーを。それと、二人にもおかわりを持ってきてあげてくれ」
秘書が「かしこまりました」と一礼して出ていくのを見計らい、健介は咲の方を手で示した。
「紹介します。うちの橘です」
「青葉飲料の、営業第三課の橘咲と申します! 本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます!」
咲は慌てて名刺入れを取り出し、きっちり90度の角度で頭を下げて両手で名刺を差し出した。
「おっ、元気がいいね。よろしく」
初老の男性はニコニコと笑いながら名刺を受け取り、自らの名刺を咲へと差し出した。
そして、あっさりと告げた。
「サンライズマートの丸山です」
「――っ!?」
咲の身体が、雷に打たれたように硬直した。
受け取った高級和紙の名刺。
そこに印字されている『代表取締役社長 丸山茂雄』の文字。
丸山社長。
さきほど秘書が言っていた遅れてくるという人物。
まさか、同姓の別の担当者ではなく、社長本人だったなんて。
「しゃ、社長、様……っ」
咲の口から、かすれたような間抜けな声が漏れた。
まさか。
嘘でしょう。
売上高数千億円を誇る、全国チェーンの巨大スーパーのトップ。
そんな雲の上の存在に、一介のヒラ営業が直接会えるはずがない。
咲が白目を剥きそうになっていると、丸山社長は健介の方を向いて苦笑した。
「なんだ沢村君。お嬢さんに、私が誰か言ってなかったのかい?」
「あれ? そうでしたっけ?」
健介は頭を掻きながら、全く悪びれる様子もなく笑った。
その、超巨大企業の社長に対するあまりにも軽い態度。
(……なんなの、この人。いったいなんなの!?)
咲はもう、今日だけで何度目になるか分からない驚愕に脳の処理が追いつかず、ただ呆然と健介の横顔を見つめることしかできなかった。
新しいコーヒーが運ばれてきて、丸山社長が一口飲んで喉を潤した。
そして、深くソファに腰掛け、懐かしそうに目を細めた。
「もう何年になるかな。君と最後に会ったのは」
「13年……いや、14年ですかね」
「そうか。お互い、歳をとったもんだ」
旧知の親友のような、穏やかな会話。
咲は恐る恐る、震える声で尋ねた。
「あ、あの……お二人は、お知り合いだったんですか……?」
咲の問いに、丸山社長は「おや」という顔をした。
「そうか、それも言ってないのか」
丸山社長が呆れたように言うと、健介がのんびりとした口調で口を挟んだ。
「この丸山社長にはね、僕がまだ君と同じくらいの頃から、ずいぶんといじめられたんだよ」
「ちょっと沢村君。女性の前でその言い方は酷いな」
丸山社長が苦笑して肩をすくめると、健介も「ははっ」とおかしそうに笑った。
「それにしても、御社の社風は昔と全然変わっていませんね。相変わらず、情け容赦がないというか」
健介がチクリと皮肉めいたことを言うと、丸山社長も負けじと言い返す。
「よく言うよ。当時『青葉の沢村』に、うちがどれだけ在庫の山を築いたか」
「それでもグロサリー部門はすべてさばききって、当時の最高益を上げてましたよね」と健介が笑う。
「まぁな。あのときの君の提案がなかったら、私もバイヤーから部長になってなかったかもしれない。当然、社長にもな」
「おおげさですね」と健介は笑った。
過去の激しい商談の駆け引きを、まるで昨日のことのように笑い合う二人。
咲は、目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。
あの『青葉の沢村』という伝説は、噂だけではなかったのだ。
サンライズマートのトップと対等に、いや、それ以上に渡り合い、強固な信頼関係を築き上げていた。
そして、ひとしきり昔話を終えたところで、丸山社長の目つきが、スッと経営者のそれに変わった。
場の空気が、一瞬にしてピンと張り詰める。
「……高橋から、話は聞いているよ」
丸山社長は咲を見据え、低く静かな声で言った。
「青葉飲料の第一課が、ふざけた真似をしてくれたそうだな。そして……最初にうちと契約をしようとして、第一課の連中に担当を横取りされたお嬢さんが、君なんだね」
「……はい」
咲は緊張で喉を鳴らしながら、真っ直ぐに丸山社長の目を見返した。
「ふむ。確かに、気の強そうな顔をしている。泥水すすってきた営業担当の顔だ」
丸山社長はそう言って、再びフッと口元を緩めた。
いくらフランクな雰囲気とはいえ、「気の強そうな顔」などと初対面の若い女性に言うのは、今の時代なら即座にコンプライアンス違反と言われかねない発言だ。
しかし、ここは圧倒的な権力を持つ社長の応接室だ。
「それはハラスメントですよ」などと口答えできるはずもなく、咲はただ黙って聞いていた。
そんな咲の様子を見つめ、丸山社長は深く頷いた。
「いいよ。他ならぬ、沢村君からの直々の願いだ。……君に、もう一度チャンスをやろう」
「本当ですか!?」
咲の顔がパッと輝いた。
奇跡だ。
あの第一課のせいで完全に白紙になった巨大案件が、健介のコネクションによって、社長の鶴の一声で復活したのだ。
「ありがとうございます! それでは、改めて当社との本契約を――」
咲が勢い込んで身を乗り出した、その直後だった。
「待ちなさい、橘さん」
横から、健介の静かな、しかし有無を言わさぬ声が飛んだ。
「えっ……沢村さん?」
健介は腕を組み、冷徹な目で咲を見つめていた。
「君は、勘違いしている。丸山社長も、サンライズマートさんも、そんな甘い人たちじゃない」
「……どういうことですか?」
「社長は、『もう一度チャンスをやる』と言ってくれただけだ。第一課のミスで完全に失墜した青葉飲料の信頼が、僕の昔の顔馴染みだからというだけの理由で回復するわけがないだろう。……これはただ、『君になら、もう一度商談の席についてもいいよ』と言ってくれただけだ」
健介の厳しい言葉に、咲はハッとして丸山社長を見た。
社長は、笑っていなかった。
ただ静かに、試すような目で咲を見据えている。
「その通りだ。本当の商談は、ここからだよ」
丸山社長の言葉に、咲はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「分かりました。……それでは、商談はいつ行わせていただけますでしょうか」
咲が気を取り直し、手帳を開こうとした時。
「時間は金なんだよ、橘君」
丸山社長が、重厚な大理石のテーブルをトン、と指で叩いた。
「いつ、じゃない。……今からだよ」
「えっ!?」
「高橋も、本社で会議に出るよう呼んであるんだ。もうすぐここへ来る」
咲の心臓が、激しく早鐘を打った。
まさか、こんな急展開になるとは思っていなかった。
今、この場で、サンライズマートの社長と、激怒している高橋バイヤーを相手に、あの第一課のミスを覆すほどの「究極のプレゼン」をしなければならないのだ。
(これが……沢村さんの言っていた、あのピース……!)
社長という最強のカードを使って、強引にこじ開けた「商談の席」。
咲はバッグの中に入っている、血と汗と涙の結晶である企画書と手帳の重みを感じながら、覚悟を決めるように、深く、静かに息を吸い込んだ。




