第50話:常在戦場
コンコン、と重厚な木目調のドアがノックされた。
「失礼いたします」という秘書の涼やかな声に続いて応接室に姿を現したのは、サンライズマート本部のグロサリー部門を統括する高橋バイヤーだった。
橘咲の顔が一瞬にして強張る。
第一課の引継ぎトラブルのせいで激怒し、取引を完全に白紙に戻した張本人。
彼からすれば、青葉飲料の人間など今は顔も見たくないはずだ。
しかし、その凍りつくような空気を破ったのは、健介だった。
「初めまして。青葉飲料の沢村と申します。本日は急なお時間をいただき、誠にありがとうございます」
健介は、いつもの少し猫背で気の抜けた歩き方ではなく、ピンと背筋を伸ばし、洗練された一流のビジネスマンのオーラを纏って高橋バイヤーの前へと進み出た。
名刺の出し方、お辞儀の角度、そして相手の目を見る間の取り方。
そのすべてが、まさに「一分の隙もない」身のこなしだった。
普段の姿とはまるで違う鮮やかな所作に、咲は一瞬目を見張った。
だが、今はそんな健介のギャップに驚いている暇はない。
「お、お久しぶりです……!」
咲も慌てて立ち上がり、高橋バイヤーに向かって深く頭を下げた。
高橋バイヤーは、もともと愛想が良くフレンドリーなタイプの男ではない。
常に数字とデータに基づき、シビアに損益を計算する実務の鬼だ。
高橋バイヤーは健介と名刺交換を済ませた後、咲を一瞥し、丸山社長の前であるにもかかわらず、ひどく冷たく、事務的な声で言った。
「社長から『もう一度だけ彼女の話を聞いてやれ』と言われたので来ましたけど。……それで? 今日はわざわざ、何の用件ですか」
ピシャリと撥ね付けるような、容赦のない言葉。
8ヶ月間、雨の日も風の日も通い詰め、門前払いされながらも少しずつ築き上げてきたはずの信頼関係。
それがリセットされ、振り出しよりも遥か後方のマイナス地点に突き落とされている。
その圧倒的な迫力と凍てつくような空気に、咲は思わずたじろぎ、一歩後ずさりそうになった。
(だめだ。ここで引いちゃだめだ……!)
咲はギュッと拳を握りしめ、足を踏ん張った。
今の自分は、一人ではない。
会社で心配してくれている大橋雅子や中川留美たち、そして何より、自分のために自らの首を差し出し、この雲の上の商談の席を強引に用意してくれた隣の男がいる。
そのすべてを無駄にしないために。
「本日は、先般ご提案するはずだった『特大イベント企画』の最終提案書をお持ちいたしました。……どうか、ご覧ください」
咲はバッグから、この数日間、健介の的確なアドバイスのもとで徹底的にブラッシュアップを重ねた渾身の企画書を取り出し、テーブルの上に広げた。
声の震えを必死に抑え込み、咲はサンライズマートの客層、売り場の動線、そして青葉飲料の商品の強みを掛け合わせた、緻密で泥臭い提案を丁寧に説明し始めた。
応接室は、異常なほどの静寂に包まれていた。
丸山社長は、深くソファに腰掛け、腕を組んだまま微動だにしない。
鋭い眼光で咲の言葉を品定めするように聞いている。
健介もまた、腕こそ組まないものの、いつものようなのんびりとした表情を消し、静かに咲のプレゼンを見守っていた。
そして、咲が語りかける相手である高橋バイヤーも、書面に並んだ数字と企画のデータに見入っているだけで、相槌一つ打とうとはしなかった。
ただ、咲の声だけが、重厚な空間に響き渡る。
プレッシャーで胃がせり上がり、口の中はカラカラに渇き、冷や汗が背中を伝う。
それでも咲は、自分がこの8ヶ月間で集めたサンライズマートへの想いのすべてを、その企画書に乗せて語り続けた。
約20分。
「……以上でございます。ご清聴、ありがとうございました」
咲が深く頭を下げて話を終えると、応接室には再び、重く息苦しい沈黙が降りた。
誰からも言葉が出ない。
高橋バイヤーは企画書を見つめたまま動かず、丸山社長も目を閉じている。
(だめ、だったのかな……)
咲の心臓が、絶望的な予感に激しく脈打った、その時だった。
「……なるほどな」
静寂を破り、はじめに声を出したのは丸山社長だった。
社長はゆっくりと目を開け、感心したように深く頷いた。
それに続くように、高橋バイヤーが顔を上げ、丸山社長の方を向いて言った。
「どうですか、社長。……私の見立ては、間違っていなかったと思いますが」
「いいんじゃないか。青葉飲料の商品の強みも活かしているし、何より現場の売り場のことをよく分かっている。素晴らしい提案だ」
丸山社長は豪快に笑い、隣に座る健介の肩をバンバンと叩いた。
「けどな、俺と沢村君が若かった頃は、もっとエグくて凄かったぞ! はっはっは!」
「それは、これからですよ社長」と、高橋バイヤーが眼鏡の奥の目を細めて続ける。
「え……?」
咲は、目の前で急に和やかな雰囲気になり始めた二人の意図が分からず、困惑して健介の方を見つめた。
健介は「やれやれ」といった様子で、静かに、そしてどこか誇らしげに笑っている。
「あ、あの……それで、提案はどうだったのでしょうか……?」
耐えきれずに咲が恐る恐る問うと、高橋バイヤーは企画書をトントンと揃えながら、あっさりと答えた。
「この前の、粗削りな資料が出てきた時点でほぼ決まってましたけど。これはさらにいい企画ですね。文句はありません」
「へっ……?」
決まっていた? 何が?
咲が間の抜けた声を出して固まっていると、丸山社長が身を乗り出して口を開いた。
「さっき私は、『時間は金なんだよ』と言ったじゃないか。……橘君。もし君が今日、この場に『今日はアポイントだけ取って、次までに最高の提案を持ってきます』なんて甘いことを言って、手ぶらで来ていたら」
丸山社長の目が、一瞬だけ鋭い経営者のそれへと変わった。
「ここから叩き出していたところだったよ」
「――えっ」
咲の背筋に、氷のような悪寒が走った。
もし今日、ただの謝罪だけで来ていたら。
あるいは、企画書が間に合わずに言い訳をしていたら。
本当にすべてが「終わり」だったのだ。
健介が、穏やかな声で補足するように言った。
「つまり、どんな状況であっても、最善の準備をしてこない者とは一緒に仕事はやれない、ということだよ。……ほら、あそこの額縁にも書いてあるよね。『常在戦場』と」
健介が指差した先。
応接室の壁には、達筆な筆文字で書かれた『常在戦場』の額縁が掲げられていた。
丸山社長は深く頷き、咲を見据えた。
「橘君。我々は、商売という戦場にいるんだ。少しでも気を抜けば、あっという間にお客様の支持を失っていく。そしてもっと怖いのは、商売の戦争は、本当の戦争と違って、気づかないうちにじわじわと始まっているということだ」
丸山社長の言葉には、数千億円の企業を背負うトップとしての重みがあった。
「だから、いつでも戦場にいるつもりで最善を尽くせ。……常在戦場を、私は社是としているんだ」
「……僕も昔、丸山社長には随分と勉強させてもらったよ」と健介が笑うと、丸山社長は「何を言う」と呆れたように鼻を鳴らした。
「最初にそれを私に言ったのは、君じゃないか」
「あれ、そうでしたっけ?」と健介が頭を掻く。
若き日の健介が、丸山社長に叩き込んだ営業の神髄。
それが今、この巨大企業の社是にまでなっているのだ。
咲は改めて、隣に座る男のスケールの大きさにめまいすら覚えた。
続けて、高橋バイヤーが少しだけ表情を和らげて言った。
「橘さんの提案が、うちの店舗のことを真剣に考えて作ってあるのは、あの手書きのラフ案を見た時からとっくに知っている。そして、君のあの足繁く通ってくる粘りもね。……だから、君を信用して本契約にしたんだ」
高橋バイヤーは小さくため息をつき、眼鏡を押し上げた。
「しかし、もしこの場に『また次があります』なんていう甘い考えで君が来ていたら……もう本当に、青葉飲料との取引は終わりだったよ」
「……そう、でしたか」
咲は、震える声でそう呟いた。
そして、心の中で、昨日健介から言われた言葉が何度も何度も響き渡っていた。
定食屋で翌日の17時に訪問すると決まった際、健介から念を押された、たった一つの指示。
『今作っている企画書を、徹夜してでも最高の状態に仕上げて持ってきてくれ』
どうして白紙になった相手に企画書を持っていかなければならないのかと、あの時は疑問に思っていた。
しかし、これを見越してのことだったのだ。
丸山社長やサンライズマートの『常在戦場』の精神を熟知した健介は、この場が「本番のプレゼン」になることまで読んでいたのだろう。
咲にはようやく、あの指示の意味が分かった。
(沢村さん……あなたがいなかったら、私、本当に終わってた……)
咲の想いとは別に、高橋バイヤーの話は続いた。
彼の顔には、明確な不快感と苛立ちが浮かんでいた。
「それに比べて、君の後任たち……第一課の連中はなんなんだろうね」
「え……」
「橘さんと引継ぎの商談をしたあと、彼らは1週間もうちを放置したんだ。ようやく連絡が来たと思ったら、『御社のためにもっと市場リサーチをしてから、改めて提案させてもらう』という、どうでも良い御用聞きのような商談内容だった」
高橋バイヤーの口から語られる内容は、昨日、健介が定食屋で見せてくれた内部文書に書かれていた第一課の怠慢の記録と、寸分違わず合致していた。
「そして、満を持して彼らが持ってきた提案は、君が最初に作ってくれた現場目線の提案とはかけ離れたものだった。彼らの都合の良い条件提示と、数量ありきの年間契約のプランのみ。……うちの売り場のことなど、何一つ見ていない、ただの数字合わせの紙切れだよ」
エリート意識に凝り固まり、現場の泥臭さを忘れた第一課の営業スタイル。
それが、現場第一主義のサンライズマートの逆鱗に触れたのだ。
「いまさらそんな提案、飲めるはずがないと突っぱねたら、彼らはどうしたと思う? 『再考するので、さらに2週間時間をくれ』と言ったんだ」
高橋バイヤーは呆れ果てたように首を横に振った。
「常在戦場が社是のこの会社で、スピード感もなく、準備もできていない。……あとはもう、知っての通りだよ。即刻、契約は白紙だ」
高橋バイヤーはそう言い捨てると、少しだけ同情するような視線を咲に向けた。
「もっとも、社長から聞いた話だと……社内では、橘さんが不満を漏らしたせいで契約が白紙になったと、悪者にされているそうじゃないか」
「……」
咲は何も言わなかった。
健介が昨日、アポイントを取るために丸山社長に連絡を入れた際に、話してくれていたのだろう。
第一課の横暴も、咲が理不尽な処分を受けようとしていることも、すべて。
「そんな理不尽な話があるか。……安心しなさい、橘さん。うちとの本契約は、君が担当するという条件で、正式に復活させるから」
その高橋バイヤーの決定的な言葉を聞いた瞬間。
咲の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「あ、ありが……とうございます……っ」
極度の緊張からの解放と、理不尽に奪われた契約が自分の手元に戻ってきたという安堵。
咲の大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「すみません……っ、うっ……」と、必死にスーツの袖で涙を拭うが、一度堰を切った感情は止まらなかった。
その後のやり取りは、泣きじゃくる咲の耳にはあまり届いていなかった。
ただ、高橋バイヤーが一つ懸念を口にしていた。
「契約を戻しても、橘さんがそのまま担当に戻れるとは限らないでしょう。青葉飲料の『会社の方針』と言われてしまえば、担当人事まではうちも口出しできませんから」
確かにその通りだ。
大企業の決定は、現場のバイヤーの希望だけで覆るものではない。
だが、そこで丸山社長が「大丈夫だ」と鷹揚に笑って手を振った。
「彼はなんといったかな、今の営業のトップは。難しい名前の……」
「御厨ですよ」と、健介がのんびりと答える。
咲は涙を拭いながら、「なんで、営業本部長の名前が……?」と驚いた。
「そう、御厨君だ。昔、沢村君の上司だった男だろ。……私から、彼に直接言っておくよ」
丸山社長はそう言うと、「そろそろ次の予定が入っているんでな」と立ち上がり、颯爽と応接室を退席していった。
高橋バイヤーも「正式な書面が決まりましたら、またご連絡します」と言い、健介と咲の二人をエレベーターホールまで案内して戻っていった。
◇
昔話やプレゼンをしている間に、1階の受付もすでに閉まっていた。
本社ビルから外へ出ると、時計の針は20時を優に過ぎていた。
「いや〜、疲れた。長かったね。……それにしても、丸山社長も、元気そうで何よりだったよ」
健介は、巨大企業とのヒリヒリするような交渉を終えた直後だというのに、とても疲れているとは思えないような軽いノリで歩いていた。
ネクタイを少し緩め、夜の空気を大きく吸い込む。
「さて。これから帰りの電車で、美味しいビールでも飲めればいいんだけどね」
健介が「ははっ」と気の抜けた笑い声を上げる。
帰り道の高崎の街は、昼間よりもますます雨が強くなり、冷たい風が吹き付けていた。
だが、咲の心は、絶望に支配されて高崎へ向かっていた時とは打って変わって、澄み切った青空のように晴れ渡っていた。




