第51話:二人っきりの夜
前を少し猫背で歩く健介の広い背中を見つめ、橘咲は小走りで並んだ。
「沢村さん!」
「ん? なんだい」
「さっき、『これから帰りの電車で、美味しいビールでも飲めればいいんだけどね』って言ってましたけど。高崎線の中でビールはだめですよ」
咲が悪戯っぽく笑いかけると、健介は「おっと、確かにそれはマナー違反だね」と苦笑して頭を掻いた。
「私、急にすごくお腹が空いちゃいました。……もしよかったら、高崎でご飯食べてから帰りませんか?」
「そうだね。僕もビールがいい加減飲みたい頃合いだ」
「ふふっ。私も飲みたいです!」
昨日の定食屋でようやく笑えた時とは違う。
今は大きな仕事をやり遂げた喜びを、二人で分かち合っていた。
二人は高崎駅前の喧騒の中にある、赤提灯が下がる大衆居酒屋へと入った。
平日とはいえ、店内は仕事帰りのサラリーマンたちで適度に賑わっている。
奥のテーブル席に腰を下ろし、群馬名物のもつ煮込み定食と、生ビールを2つ頼んだ。
「お疲れ様。……本当によく頑張ったね、橘さん」
「……はいっ! ありがとうございます!」
カチン、とジョッキが触れ合う音が響く。
冷たいビールが極度の緊張で乾ききった喉を潤し、咲は「ぷはぁっ!」と最高の笑顔を見せた。
運ばれてきた熱々のもつ煮込みをつつきながら、話題は当然、先ほどのサンライズマートの商談のことになった。
丸山社長のオーラ、高橋バイヤーのプレッシャー、そして第一課の傲慢なやり方。
すべてを乗り越え、自分の手元に本契約が戻ってきた。
その事実を反芻するたびに、咲の胸にはじんわりとした温かいものが広がっていく。
そして、咲はジョッキを傾けながら、自分が漠然と感じていたある感情が、どんどん明確な「形」になっていくのを実感していた。
(私……たぶん、この人に惹かれ始めている)
最初は、絶望の淵から自分を救い出してくれた恩義だと思っていた。
もちろん、それは事実だ。
だが、隣でビールを飲みながらのんびりと微笑む彼から感じる、この絶対的な安心感と心地良さは、ただの恩義や尊敬だけでは到底説明がつかなかった。
もっと一緒に居たい。
そして、誰も知らないこの人の本当の姿を、もっと知りたい。
咲がそんな想いを抱き始めた、その時だった。
「さて、そろそろ出ないとね」
健介がジョッキを置き、スッと立ち上がった。
終電にはまだ十分に時間がある。
だが、健介の表情はどこか大人の理性を保っていた。
「明日も仕事はあるからね。それに、君みたいな若い子と二人きりでこんな時間まで飲んでいるのが会社の人に知られたら、また何を言われるか分からない」
「え……」
「行こうか。お会計は済ませてあるよ」
「えっ!? い、いつの間に……! ここは私が払います! こんなにお世話になったんですから!」
咲が慌てて財布を出そうとする間もなく、健介は「いいからいいから」と咲の背中を押し、スマートに店を出てしまった。
夜風に当たりながら駅へと向かう道すがら、咲の心臓は先ほどの商談の時とは全く違う理由で、激しく早鐘を打っていた。
(そういえば、高橋バイヤーに名刺を出す時も、信じられないくらい綺麗で無駄のない所作だった……)
普段は窓際で気配を消しているおじさんが、ふとした瞬間に見せる、隙のない『大人の男』としての振る舞い。
そして、後輩の女性に気を使わせないスマートな会計。
胸が高鳴る。
頬が熱い。
この気持ちは、もはや勘違いではない。
(私、この人のことが――)
(……どうしよう。こんな気持ちになるなんて)
咲は戸惑いながら、健介の隣を歩いた。
しかし、運命はさらに咲を試そうとしていた。
「あれ。……まいったな」
高崎駅の構内に入った瞬間、健介が足を止め、改札前の電光掲示板を見上げた。
「どうしたんですか?」
「見てごらん、あれ」
咲が視線を向けると、そこには絶望的な案内がスクロールしていた。
『強い雨の影響による架線故障のため、現在全線で運転を見合わせております。復旧の目処は立っておりません』
「ええっ!?」
健介が改札にいる駅員に事情を聞きに行き、すぐに困った顔で戻ってきた。
「大雨で、鉄道が広い範囲で乱れているらしい。別の路線も確認したけど、今夜中に電車で東京へ戻れる現実的な経路はないそうだ」
「そ、そんな……どうしよう」
「とりあえずタクシーかな」
健介はそう言い、すぐに駅前のタクシー乗り場へと向かった。
しかし、大雨と電車ストップの影響で、乗り場には長蛇の列ができている。
二人は列に並んで順番を待った。
ようやく来たタクシーの運転手と、健介が何やら話し込んでいる。
「だめだ。東京まで行ってくれと頼んだけど、この時間からこの雨の中じゃ無理だって断られた」
「そりゃそうですよね……」
さすがの健介も、腕を組んで思案顔になった。
自然災害と交通インフラの停止だけは、いくら彼でもコントロールできない。
「……こうなったら、今夜はここに泊まって、明日の朝一番の電車で帰るしかないね」
健介の提案に、咲も「そうですね」と同意し、スマートフォンで近くのビジネスホテルを検索し始めた。
しかし、結果は非情だった。
「……だめです。駅周辺のビジネスホテル、どこも満室です。みんな考えることは同じみたいですね……」
咲は絶望的な声を出した。
もはや、この冷たい雨が降る駅の構内で、硬いベンチに座って夜を明かすという最悪の選択肢しか残されていないのか。
「……もう一度タクシーに並んで、運転手さんに聞いてみよう。少し離れていてもいいから、どこか泊まれるホテルがないか」
健介と咲は再び列に並び、順番が来ると、別の運転手に泊まれるホテルを尋ねた。
すると、運転手は「あー、一つだけ心当たりがあるよ」と言い、二人を乗せてくれた。
タクシーに揺られること十数分。
車は、市街地から少し外れた暗いバイパス沿いで停車した。
「ここなら、たぶん空いてると思うよ。じゃあね」
運転手はそう言い残し、足早に走り去っていった。
雨の中、取り残された二人が見上げた先にある建物。
「――」
咲は、顔から一気に火が出るのを感じた。
艶やかなネオン管が屋上でチカチカと光り、入り口は目隠しのように薄暗くなっている。
どう見ても、それは典型的なラブホテルだった。
「……さすがに、ここはまずいな」
健介は深いあくびを噛み殺しながら、困ったように頭を掻いた。
「別のところを探そう。でも、ここから歩いて移動するとなると時間もかかるし、他のホテルが空いている保証もない……」
雨は激しさを増し、健介のスーツの肩を濡らし始めている。
彼も今日一日、大きな勝負を終えて疲労困憊のはずだ。
その時だった。
「……私は、ここで平気ですから」
咲の口から、無意識のうちにそんな言葉が飛び出していた。
「え?」
「雨、ひどいですし……もう疲れたから、早く休みたいです」
健介は驚いたように咲を見た。
咲は、雨と暗がりが頬の赤みを隠してくれた気がした。
健介は小さくため息をつき、「……分かった。仕方ないね」と妥協した。
二人は足早に、ネオンが光る建物へと入っていった。
空室を確認すると、今夜泊まれる部屋は1室だけだった。
◇
案内された部屋の扉を開けると、そこには「当たり前です」と言わんばかりの空間が広がっていた。
暗くムーディーな間接照明。
そして、部屋の中央を陣取る、無駄に大きなキングサイズのベッド。
「……まいったな」
健介はスーツのジャケットを脱ぎながら、本当に困ったという顔をした。
その姿を見て、咲はハッと我に返った。
職場の先輩である男性を、こんな密室に誘い込んでしまったような状況だ。
「さ、沢村さんには今日のこと、本当に感謝してますけど……! わ、私はそういうのは無理ですからね!」
咲は腕をクロスさせて身構え、牽制するように言った。
健介は「ははっ」と気の抜けた笑い声を上げた。
「大丈夫だよ、何もするつもりはない。ただの雨宿りだ。……僕はそこのソファで寝るから、橘さんはベッドで休んでくれ」
健介が指差した先には、革張りのソファがあった。
しかし、それは普通の椅子に少しだけ角度がついたような形状だった。
横になって寝るというよりは、寄りかかって座るための代物だ。
「そんな……あんなところで寝たら、体痛くなっちゃいますよ」
「気にしないで。僕はどこでも寝られるタチなんだ」
「でも……ベッド、こんなに広いですし。両端で寝れば……」
咲がボソリと提案すると、健介はピシャリとそれを拒んだ。
「ありがたいけど、それは色々と問題があるね。大人の男として、それはできない」
健介の固い意志に、咲はそれ以上踏み込むことができなかった。
とりあえず、商談でかいた冷や汗と、雨に濡れた体を流すため、交代で風呂に入ることにした。
最初は咲だった。
「絶対に見ないでくださいね!」と念を押し、ガラス張りの浴室へ向かう。
健介は「わかってるよ」と、浴室に背を向けて座ってくれた。
熱いシャワーを浴びながら、咲の心臓はずっとバクバクと鳴り続けていた。
(……私、なんでベッドで一緒に寝よう、なんて言っちゃったんだろう)
だが、咲の心の奥底には、一つの明確な『覚悟』が芽生えていた。
もし、この後何かあったとしても。
彼が求めてくるなら、それを咎めることは絶対にしない。
そう思ってしまっている自分に、咲は激しく戸惑っていた。
やがて咲がバスローブ姿で風呂から上がり、ベッドに入ったのを確認してから、今度は健介が風呂へ向かった。
シャワーの音が聞こえる間、咲はベッドの中でシーツをギュッと握りしめていた。
数十分後。
健介がシャワーを終え、バスローブ姿で出てきた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、彼は宣言通り、硬そうなソファへと腰を下ろした。
「ふぅ……。腰は痛くなりそうだけど、とりあえず寝れそうだ」
健介が目を閉じ、腕を組んだ、その時だった。
咲はベッドを出てソファへ歩み寄り、健介の腕をグイッと引っ張った。
「……やっぱり、ベッドで寝てください」
健介が顔を上げた。
咲は、その目を真っ直ぐに見つめた。
「私がここで寝ますから、沢村さんはベッドを使ってください」
「おいおい、橘さん。女性にそんな硬いソファで寝かせるわけにはいかないよ。僕はここでいいから……」
「じゃあ、私も寝ません」
咲は頑なだった。
今日、自分の人生と営業担当としての誇りを救ってくれた最大の恩人を、こんな窮屈な場所で寝かせることなど、彼女の気が許さなかったのだ。
「……」
健介は小さく息を吐き出し、負けたというように苦笑した。
「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えて」
健介は立ち上がり、キングサイズのベッドの、咲とは反対側の端に横になった。
「本当に、何もしないでくださいね」
「大丈夫、もう寝そうだよ……ふぁ」
健介は大きなあくびをして、目を閉じた。
部屋は間接照明だけが薄暗く点いており、窓の外から雨音が微かに聞こえてくる。
「……沢村さん」
「ん?」
「せっかくなので、サンライズマートのこと、少し聞いてもいいですか? もうちょっとだけ、起きててください」
咲は、どうしても聞いておきたいことがあった。
健介は目を閉じたまま、「いいよ」と短く答えた。
「沢村さんは……今日の商談が、こうなることがわかってたんですか?」
丸山社長が出てくること。
そして、あの場で『常在戦場』を試されるような究極のプレゼンになること。
健介は、まるで未来を見てきたかのように、すべてを読み切っていた。
「……そうだね。だいたい予定通りだったよ」
「どうして、そんな予測ができるんですか?」
咲が不思議そうに尋ねると、健介は静かに語り始めた。
「僕はね、昔から兵法書とか、戦の話が好きでね。学生の頃は色々と読み漁っていたんだよ」
「兵法、ですか」
「うん。そこでわかったことがある。……何事も偶然ではなく、必然で動いている。そして、それを手繰り寄せるのは、すべて自分自身の行動だっていうこと」
健介の声は、暗い部屋の中で低く、しかし心地よく響いた。
「『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』っていう有名な言葉があるだろう? あれは、ただ相手の弱点を探すって意味じゃない。自分の置かれている状況も含め、すべての情報を集めて、そして『最善の準備』をするということなんだ」
「最善の準備……」
「それは、何も条件提示だったり、綺麗な企画書を作ることだけじゃない。相手の性格、家族構成、好きなもの、休日の過ごし方。そのすべてが、なんらかの形でビジネスの決断に関わっている。……君の手帳が『最後のピース』だと言ったのも、それなんだよ」
健介はゆっくりと目を開け、天井を見つめた。
「君の手帳の記録を見て分かったんだ。高橋バイヤーだけじゃなく、他のバイヤーや幹部たちも、全く同じような思考と行動のパターンを持っていた。現場至上主義で、泥臭くて、徹底的に義理堅い。……あの会社は、丸山社長の『常在戦場』の薫陶が、末端まで生きている会社だと分かったんだよ」
「……」
「だから、丸山さんだったら必ず力になってくれると確信して、僕も動けた」
咲は息を呑んだ。
自分がただ無我夢中で書き留めていた情報から、相手の企業の「理念」と「組織構造」を読み解き、トップに直談判するための材料に昇華させていたのだ。
「……じゃあ、始末書のことも、その時から考えていたんですか?」
「猶予をもらう交渉は、その前だよ。君の手帳を見る前から勝てる見込みはあった。手帳を読んで、その確信がさらに強まったんだ」
健介は再び目を閉じ、ふふっと笑った。
「あのサンライズマートが、なぜ僕が担当から外れてから取引停止になったか。その理由は、大体知っていたんだ。ただ裏付けがなかったから、それを確信に変えるために、昔の同僚を使って情報を集めたっていうことかな」
「えっ……それはつまり、最初から自分の始末書なんて、書くつもりはなかったってことですか?」
1週間以内に解決できなければ、自分も一緒に始末書を書く。
あの無謀とも言える取引は、失敗する可能性すら考慮していなかったというのか。
「今回はね」
健介は事もなげに言った。
「一か八かのギャンブルみたいな勝負も嫌いじゃないけど、やっぱり負けるのは嫌だからね。勝つための準備を徹底的にして、そして実行する。……もうこの時点で、実行というより『検証』ってことになるんだけどね」
「実行ではなく、検証……」
すべてを準備し、結果が分かっている数式に数字を当てはめるだけの作業。
それが、かつて販売部のトップに君臨した『青葉の沢村』の、圧倒的な知略と営業哲学だった。
咲は、背筋が震えるほどの感動を覚えていた。
この人は、本当にすごい。
営業という仕事の深さも、スケールの大きさも、自分とは比べ物にならない高みにいる。
「……けど、予想外のことも起きるものだと思ったよ」
健介がぽつりと呟いた。
「予想外のこと?」
「ああ。それは……」
健介は少しだけ寝返りを打ち、咲の方へ顔を向けた。
「ここでこうして、君と同じベッドにいることだよ」
「――っ」
咲の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
暗闇の中で、二人の視線が交差する。
もし今、彼が手を伸ばしてきたら。
(私は、絶対に拒めない)
(いや、拒みたくない)
咲は息を止め、身を固くして次の言葉を待った。
「……ごめん。そろそろ、本当に眠気が……」
しかし、健介から発せられたのは、そんな間の抜けた言葉だった。
「え……?」と咲が拍子抜けしている間に、健介は再び反対側を向き、すうすうと規則正しい寝息を立て始めた。
やがて、グゥ、という、おじさんらしい小さないびきが聞こえてきた。
「……」
咲はぽかんとした後、「ふふっ」と小さく吹き出した。
「本当に、何もしないで寝ちゃう男の人っているんだ……」
咲はベッドの端で丸くなる健介の背中を見つめながら、優しく微笑んだ。
そして、今日一日の彼の見事な仕事ぶりと、この無防備な背中のギャップを愛おしく感じながら、心の中で思った。
(こんなかっこいい人を、『窓際のおじさん』なんて見下していた自分は……なんて未熟なんだろう)
咲は、静かに目を閉じた。
(沢村さん。私を救ってくれて、本当にありがとうございました)
この恩に報いるために、そして、彼のような本物の営業担当になるために。
(明日からは、どんなことがあっても全力で沢村さんをサポートしよう)
咲はそう強く決心し、雨音と健介のいびきを子守唄にして、深い、安心に満ちた眠りへと落ちていった。




