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46歳のおじさん、左遷後に人生最大のモテ期到来  作者: とん汁ごはん
第4章:橘咲

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第52話:私には沢村さんがいる

翌朝。


分厚い雨雲はすっかり通り過ぎ、高崎駅のホームには清々しい朝日が差し込んでいた。


「……ごめんなさい、沢村さん。私、朝が弱くて……」


スーツ姿の橘咲は、ホームのベンチに座り、ひどく申し訳なさそうに身を縮めていた。


昨夜は「朝一番の電車で帰る」という予定だった。


しかし、早朝に手配したタクシーの到着が、思ったよりも遅れたこと。


さらに、咲が寝坊した上に、メイクなどの身支度に手間取ってしまったことが重なり、予定していた始発にはとうてい間に合わなかったのだ。


「いいんだよ。出社時間には十分に間に合うから心配しないで」


隣に座る健介が、缶コーヒーを飲みながらのんびりと笑った。


本当は、始発で戻り、お互いに一旦自分の家に帰ってスーツを着替えてから出社するつもりだったのだ。


だが、この時間になってしまっては、家に戻る余裕はない。


そのまま会社へ直行するしかなかった。


周到な検証と準備を信条とする健介にとっても、この「女性の朝の準備時間」という不確定要素だけは読み切れなかったらしい。


「本当に、予想外のことはあるものだね」


健介が一人でクスクスと笑うと、咲は「うぅ……」と恥ずかしそうに顔を赤くして俯いた。


結局、二人が青葉飲料のオフィスに到着したのは、始業時間のギリギリだった。


昨日と全く同じ服装。


そして、同時出社。


もう、社内の人間に怪しまれるのは避けられない。


隠してもかえって不自然になるだけだと割り切り、健介と咲は、課長の霧島玲奈のもとへ報告に向かった。


「……というわけで、昨夜の雨による架線トラブルで電車が止まり、高崎のビジネスホテルでそれぞれ夜を明かしました。事後報告となり、申し訳ありません」


健介は、電車が止まって泊まった事情を説明し、宿と部屋については取り繕った。


もちろん、「一つしかない部屋の、しかもラブホテルで一夜を過ごした」という事実だけは、綺麗に隠蔽して。


玲奈はノートパソコンのモニターから視線を外し、二人を冷ややかに見上げた。


同じ服装で現れた二人を見れば、普通の人間なら「まさか……」と邪推の一つでもしそうなものだ。


しかし、玲奈は全く驚く様子もなく、ただ無表情のままだった。


「……そうですか。ご苦労様でした」


「は、はい……」


「橘さん。顛末書と始末書の正式期限は来週の月曜日ですが、課内の提出目標は明日です。遅れないようにしなさい」


玲奈から発せられたのは、部下の体調や苦労を労う言葉ではなく、冷徹な業務命令だけだった。


「……はい、承知いたしました」


咲の顔からも、スッと表情が抜け落ちた。


あの日、あれほど自分の無念を訴え、涙を流したというのに。


この人は、結局何もしてくれず、組織の命令をただの伝書鳩のように伝えてくるだけだ。


(もう、課長に期待したって、どうにもならないんだ……)


咲が諦めの境地で深くお辞儀をして自席へと戻る中。


健介だけは、少しだけ曇った表情を見せていた。


健介の視線は、生気を失った玲奈に向けられていた。


何かを言いかけたようにも見えたが、その口は開かなかった。


健介も静かに、自分の席へと戻っていった。



◇



自席に着いた健介の斜め前で、中川留美の声がした。


「……咲。昨日はどうだったの?」


咲がノートパソコンを立ち上げていると、二つ先の席の留美が声を潜めて話しかけたのだ。


先日までの咲の荒れた様子を、まだ心配しているのだろう。


「うん。……まだはっきりとは分からないけど、たぶん、大丈夫かな」


咲が少し照れたように笑ってみせると、留美は怪訝な顔をした。


「たぶんって……本当に大丈夫なの? 始末書を書かされるかもしれないんだよ?」


「大丈夫!」


咲は、全く迷いのない、晴れやかな笑顔で、決定的な一言を放った。


「私には、沢村さんがいるから!」


「――は?」


留美の口から、素っ頓狂な声が漏れた。


留美は、咲と健介を交互に見た。


仕事の腕への驚きとは違う戸惑いが、その顔には浮かんでいた。


咲の晴れやかな言い方に、留美は言葉を失っている。


しかし。


その言葉に留美以上に強烈な反応を示したのは、周囲の席にいた健介の『共犯者』である3人だった。


(あちゃ〜……)


聞き耳を立てていた健介は、心の中で頭を抱え、3人の方を見ないようにノートパソコンのモニターへと視線を固定した。


しかし、そんな他人事を許すほど、第三課の女性陣は甘くない。


ピコンッ、ピコンッ、ピコンッ!


立ち上げたばかりの健介のモニターの右下で、社内チャットのアイコンが一斉に真っ赤に点滅し始めたのだ。


『どういうことですか!?』


『昨日の夜、咲さんと何かあったんですね(怒)』


佐々木澪からのチャットは、文字面だけでもその不機嫌さが伝わってくるような短く鋭いものだった。


そして隣の星野佳奈も、キーボードをぶっ壊すのではないかという猛烈なタイピング音を響かせて、鋭い追及をしてくる。


『沢村さん! ホテルでそれぞれ夜を明かしたって、本当ですか!? もしかして一緒だったんじゃないですか!?』


(やれやれ……一難去ってまた一難、とはこのことか)


健介は冷や汗を拭いながら、のんびりとしたフリをして『本当に何もないよ。課長に話したことがすべてだから』と返信を打った。


もちろん、肉体的な関係は何もなかった。


ただ、ラブホテルの同室だったことは、都合よく頭の隅へ追いやった。


しかし、佳奈も澪も『あの咲さんがあんな乙女みたいな顔で言うなんて、絶対おかしいです!』という趣旨のメッセージを送ってきて、全く許してくれる気配がない。


(『予想外のこともある』とか偉そうなことを言っておきながら、橘さんに口止めしておくのをすっかり忘れていたとはね……)


健介が自分の詰めの甘さを自嘲していると、さらに輪をかけて、とどめのチャットが飛んできた。


『あ〜あ。これで4人も食べちゃって。もうこれは、麻由美に報告するしかないわね(笑)』


『裏ボス』、大橋雅子からのチャットだった。


健介が背伸びをするふりをして、柚木結衣に気づかれないようにそっと横目で見ると。


雅子は自分のデスクでノートパソコンに向かいながら、ふっくらとした唇を人差し指で撫で、こちらを見てニッコリと微笑んでいた。


(……あれは、絶対に怒っている顔だ)


健介の長年の勘が、そう告げていた。


慌てて『言い訳に聞こえるかもしれないけど、本当に何もない! 指一本触れてないから!』と弁明のチャットを送信する。


数秒後。


『冗談よ。……けど、あの咲ちゃんがあそこまで言うなんて、よっぽどあなたのことが好きになったのね』


というメッセージと共に、怒りのマークと笑顔のマークが入り混じった、なんとも恐ろしいスタンプが送られてきた。


「ふぅ……」


健介は深い、深いため息をついた。


ここは一度、給湯室にコーヒーでも買いに行って、物理的に距離を置いて気分を変えよう。


そう思って席を立とうとした、その時だった。


ジリリリリリリッ!


オフィスの静寂を破り、玲奈のデスクの電話が鳴り響いた。


玲奈が気怠そうに受話器を取った、次の瞬間。


「……っ! は、はい! はい、承知いたしました!」


玲奈が、弾かれたように起立し、直立不動の姿勢で電話の向こうの声を聞き始めたのだ。


そして、ガチャリと受話器を置くや否や。


「少し、本部長席に行ってきますので」


玲奈は血相を変え、慌ててジャケットを羽織ってオフィスを飛び出していった。


その尋常ではない姿に、第三課のメンバーたちは声を止め、不安そうに顔を見合わせた。


「……ねえ、咲。本部長からの呼び出しって……」


留美が、不安そうに咲を見た。


「大丈夫だよ」と、咲は小さく答えた。


雅子も、佳奈も、澪も、不安そうな顔をしていた。


健介への追及も止まり、3人の視線は玲奈が出ていった方に向けられている。


それは、事情を知らない『データ職人』の藤本雫や、事務の結衣も同じだった。


ただ。


健介は咲と視線を交わした。


その表情に、自分と同じ期待があるように思えた。


約10分後、玲奈がオフィスに戻ってきた。



◇



「……橘さん。ちょっと」


自席に戻った玲奈が、ひどく複雑な、しかしどこか安堵したような表情で咲を呼んだ。


咲が立ち上がり、玲奈のデスクの前へと進み出る。


玲奈は、フロアの全員に聞こえるような、ハッキリとした声で告げた。


「サンライズマートの件。……正式に、あなたの担当に戻ることになったから」


「――えっ」


「それに伴い、本件に関する顛末書ならびに始末書の提出は、必要ありません」


玲奈は、短く、ただそれだけを言った。


こうなることは、昨日の時点で健介から聞いて知ってはいた。


けれど、大企業の論理の中で、最後に何が起きるかは本当に分からない。


どんでん返しがあるかもしれないと、咲の心のどこかには常に不安があった。


それが今、直属の課長の口から正式に告げられ、最高の形で報われたのだ。


「あ、ありが……とうございます……っ」


咲は、立ったまま、ボロボロと大粒の涙をこぼした。


その姿を見て、留美が「よかったね、咲!」と駆け寄り、雫や結衣たちも立ち上がって歓声を上げた。


第三課のオフィスが、この数週間で初めて、明るい喜びに包まれた瞬間だった。


ただ。


その直後、咲が取った行動は、さらに第三課のメンバーたちを驚愕させるものだった。


「沢村さ〜んっ!!」


咲は、自席にいる健介のもとへ猛ダッシュで駆け寄ると、周りの目など一切気にせず、彼の胸にドンッ! と勢いよく飛び込み、ギュッと強く抱きついたのだ。


「ええっ!?」


「ちょっと、咲さん!?」


「咲ちゃん!」


留美たちが慌てて止めようとするが、咲は全く気にする素振りを見せない。


健介の広い胸に顔を埋め、スーツをギュッと掴みながら、わんわんと子供のように嬉し涙を流している。


「沢村さん……っ、本当に、本当にありがとうございました……っ! 私、明日から……もっともっと頑張りますから……っ!」



◇



咲は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、健介を真っ直ぐに見つめた。


その潤んだ瞳は、もう単なる「先輩」を見るものではなかった。


自分を絶望から救い出してくれた、絶対的なヒーロー。


……完全に「好きな男を見る目」になっていた。


健介は、突き刺さるような視線を感じた。


佳奈は、唇を引き結んだまま健介を見ていた。


澪も無言だった。


雅子も、じっとこちらを見つめている。


誰も、一言も発しない。


歓喜に沸くオフィスの中で、3人からの視線だけが氷のように冷たかった。


(や、やれやれ……本当に、とんだ受難の日になりそうだ……)


健介は、咲の肩を優しくポンポンと叩きながらも、背筋に滝のような冷や汗が流れるのを感じていた。


結局、健介が女性陣からの疑いを解き、3人からの猛烈な追及のLINEが終わったのは、もう日付が金曜日に変わろうとしている頃だった。



◇



深夜。


健介は、自宅マンションのベッドルームで、シャワーを浴びた後の火照った身体を休めながら、スマートフォンのメールボックスを開いた。


未読メールが2通、届いている。


1通目は、先日健介に第一課のミスの内部文書をリークしてくれた、第一課時代の元部下からのメールだった。


『今日の人事で正式に内示が出ました。第一課の安西課長、西日本営業部配下の大阪支店への異動が決まったそうです。事実上の左遷ですね。広域の榊原部長も、本部長から大目玉を食らったとか』


(なるほど。サンライズマートの件の引責というわけか)


健介はふむ、と頷き、もう1通のメールを開いた。


それは、サンライズマートのトップ、丸山社長からのものだった。


『御厨君に言ったこと、どうやらすぐに効果があったようだね。……それにしても、君は相変わらず切れるな』


丸山社長からのメールには、どこか呆れたような、しかし感嘆するような言葉が並んでいた。


『まさか、年間取引見込額50億円以上なら原則第一課へ移管するという基準を、こんなふうに使うとはな。月間の発注・出荷上限を4億円に抑えて、まずは小さく始める。恐れ入ったよ』


健介はフッと口角を上げ、ベッドに寝転がりながらその文面を眺めた。


どれほど大企業のエリート集団であろうと、第一課も会社の規程に従って動く組織だ。


案件の移管基準になるのは、相手企業の大きさそのものではなく、年間の取引見込額。


そして、その見込額を考える土台になるのは、両社で合意した取引条件だった。


今回の取引では、当面の月間発注・出荷上限を4億円とした。


青葉飲料の社内規程では、年間取引見込額が50億円以上になった案件は、原則として広域営業部の第一課へ移管する。


第三課がどれほど大きな企業を新規開拓しても、その見込額が50億円未満である間は、第三課で担当を続けられる。


健介は一昨日、丸山社長へアポイントを取るために連絡した際、あらかじめこう提案していた。


『最初は小さく始めて、様子を見るのが得策です。当面の月間発注・出荷上限を4億円とする取引条件はいかがでしょうか』と。


丸山社長はその意図を汲み、営業本部長の御厨隆史へ、月間発注・出荷上限を4億円とする条件を伝えた。


届いたメールで、健介はそのことを確認していた。


この取引条件で始める以上、月ごとの上限は4億円だ。


青葉飲料は、この条件のもとでは、月に4億円を超える商品をサンライズマートへ出荷できない。


毎月上限いっぱいの4億円を12ヶ月続けても、年間で最大48億円だ。


第一課が年間100億円を見込んでいたとしても、今回合意した条件での上限は48億円。


移管基準の50億円を下回る。


当面は、50億円未満の新規開拓案件として扱える。


サンライズマートが求める担当を、第三課の咲に戻すことは、会社の規程にも沿っているのだ。


もちろん、健介は取引をいつまでも小さく抑えるつもりなどなかった。


最初は利益率の高いイベント企画や限定商品だけを優先して卸し、確実に実績と信頼を積み上げていく。


そこから50億円を超える規模へ育てるには、少なくとも1年以上はかかると健介は見ていた。


その間に、咲は担当として実績を積み上げられる。


サンライズマートを開拓し、大型クライアントへ育てたのは橘咲。


その成果は、咲自身のものになる。


将来、年間取引見込額が50億円以上となり、規程に従って第一課へ移管されるなら、それで構わない。


その時には、咲が担当として築いた実績まで奪われることはない。


健介が守りたかったのは、咲が自分の成果を積み上げるための時間と機会だった。


(これは会社のルール通りだからね)


健介は心の中で第一課の連中へ向けて呟き、丸山社長のメールの最後の一文に目を落とした。


『やはり、私は君と仕事がしたい。青葉飲料を辞めてうちに来ないか。役員、いや、専務の椅子を用意して待っているよ』


売上数千億円の巨大チェーンの専務。


サラリーマンからすれば、喉から手が出るほど欲しい超破格のオファーだ。


しかし、健介は迷うことなく返信を打った。


『ありがたいお話ですが、この会社で、もう少しだけ営業をしていたいので』と。


送信ボタンを押し、健介はスマートフォンをサイドテーブルに置いた。


丸山社長からそれ以上の返信が来ないことを確認し、健介は静かに目を閉じた。


そして小さく苦笑し、一人の女性のことを考えながら、深い眠りへと落ちていった。

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