第53話:三人の食卓
サンライズマートの一件が奇跡的な大逆転で決着した翌週。
営業第三課のオフィスは、いつにも増して熱気と活気に満ちた空気に包まれていた。
東都リテールで10億、帝王フーズで20億、そしてサンライズマートという最大48億円規模の超巨大案件。
これまで突出した実績を残してこなかった第三課は、次々と大きな案件を獲得し、その取引を広げようとしていた。
営業本部の『花形部署』という呼び名にも、ようやく見合う働きができた。
橘咲には、そんな手応えがあった。
周りのメンバーたちの表情も、以前より明るく見える。
巨大な第一課の連中は、廊下ですれ違う際、バツの悪そうな顔で視線を逸らす。
それを見るたびに、これまで泥水をすすってきた苦労が報われたような、心地よい優越感に浸ることができた。
他のメンバーたちも、さらに業績を広げようと、精力的に動き回っていた。
そして、心に「数字の余裕」が生まれた。
オフィスでの普段の会話からも、以前のような張り詰めた悲壮感は消え、明るい活気が戻ってきていた。
その最たるものが、第三課の『特攻隊長』、咲だった。
心を折られ、スウェット姿で絶望していた先週までの姿が嘘のように、彼女は以前にも増して精力的に、そして真っ直ぐに前へ突き進んでいた。
大きな企業を開拓し、育てれば、いずれ移管の基準に達するかもしれない。
それでも、挑まずにはいられなかった。
その圧倒的な行動力と熱量こそが、彼女が良くも悪くも『特攻隊長』と呼ばれる所以だった。
◇
昼休み。
佐々木澪がお弁当を食べていると、隣の咲が食事を終え、急いでビジネスバッグから分厚い1冊の本を取り出した。
「……咲、どうしたの? 珍しいね、本なんて読んで」
咲から二つ先の席で食後のコーヒーを飲んでいた中川留美が、不思議そうに声をかけた。
咲が普段読んでいるものといえば、業界紙や小売店のチラシ、あるいは企画書の束くらいのものだ。
活字の詰まったハードカバーの本を読んでいる姿など、澪も見たことがなかった。
咲は、留美に「よくぞ聞いてくれました!」と言わんばかりにパァッと顔を輝かせ、嬉しそうにその本の表紙を見せた。
「これ、『孫子の兵法』の要約版なんです! 中川さん、わかります? 孫子!」
「はぁ? 孫子って……あの、戦争の?」
「そうです! 敵を知り己を知れば、百戦危うからず、ですよ!」
留美は「聞いたことはあるけど……どうしたの、急にそんな渋い本」と、ますます怪訝な顔をした。
すると、咲は周囲の目を気にする様子もなく、むしろ誇らしげに、高らかに宣言したのだ。
「沢村さんが、『営業として読むといいよ』って教えてくれたので、週末に本屋で買っちゃいました!」
「――っ」
その瞬間。
第三課の女性陣のデスク周辺で、空気がピシッと凍りついた。
藤本雫や柚木結衣たちは外にランチに出ており、オフィスには不在だった。
留美は「また沢村さん、か」と呆れたようにため息をついた。
仕事の腕は認めても、健介の人柄や恋愛対象としての魅力までは、まだ分からないらしい。
サンライズマートの一件以降、咲の口から「沢村さん」という単語が出る頻度は異常なほどに増えていたのだ。
「どこがいいのか私にはサッパリわかんないけど……咲、もうそんなに好きなら、付き合っちゃえば?」
留美が、からかうように冗談めかして言った、次の瞬間だった。
バキッ!!
「……あ」
咲と留美の間の席でお弁当を食べていた澪の手元で、プラスチックのマイ箸が真っ二つに折れた。
「あはは……力入れすぎちゃった」と笑って取り繕うが、顔が引きつる。
折れた箸の先端は、小刻みに震えていた。
「ゲホッ!! ゴホッ、ゴホッ!!」
さらに、留美の正面の席では、星野佳奈がスマートフォンを見ながらのんびりとおにぎりを食べていた。
留美の言葉を聞いた瞬間、佳奈は米粒を喉に詰まらせ、涙目で激しく咳き込みながら慌ててお茶を流し込んだ。
そして、島の奥。
自分のデスクで知らんぷりをしてサンドウィッチをかじり、コーヒーを飲んでいるように見えた大橋雅子。
彼女の美しい横顔には、こめかみにピクピクと青筋が浮き上がり、コーヒーカップを持つ指の力が明らかに普段の3倍増しになっていた。
「も、もう! やだな〜、中川さん! そんなんじゃないですよぉ!」
周囲の剣呑な空気にも気づかないように、咲は両手で頬を押さえ、完全に「恋する乙女」の顔になって身をよじった。
「私、沢村さんのことは、営業の大先輩として、心の底から尊敬しているだけですからっ!」
佳奈はお茶を置き、咲の方へ顔を向けた。
雅子も、コーヒーカップを持ったまま黙っている。
澪は折れた箸へと視線を落とした。
(……嘘つけ)
口に出せない悪態が、胸の中に渦巻いていた。
わかってはいるけど、なんでこんなにイライラするんだろう。
澪は、自分自身の嫉妬深さにため息をついた。
悪びれることもなく、照れ隠しもせず、ただ真っ直ぐに健介への想いとリスペクトを周囲に隠そうとしない咲の真っ白な姿に。
ほんの少しだけ、「羨ましい」とも思ってしまうのだから。
◇
ただ、当の健介は、そんなオフィスでの女性陣の静かな修羅場など何も知らない。
一人、会社から少し離れた牛丼チェーンのカウンター席で、並盛りの牛丼と味噌汁をかっ込んでいる最中だった。
紅生姜をたっぷりと乗せ、七味を振って肉を口に運んだ、その時。
ピロンッ。
スーツのポケットに入れたスマートフォンが、LINEの着信を知らせた。
(……ビクッ)
健介は箸を持つ手を止め、背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
第三課の女性からの誘いであれば、激しく警戒しなければならない。
いや、警戒というより、もはや恐怖に近かった。
(今度は誰なんだ)
恐る恐るポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
『お父さん、今日帰り何時?』
「……ふぅ」
画面に表示された送り主が『結愛』であることを確認し、健介は心底ホッとして、大きく安堵の息を吐き出した。
義理の娘である彼女なら、変な気遣いやドロドロとした色恋沙汰を気にする必要はない。
最も安全で、心が休まる相手だった。
『いつも通り、18時には会社を出るよ』
そう返信すると、すぐに結愛から返事が来た。
『明日は家に帰るつもりだったけど……お父さん、今日は早く帰れるんでしょ? だったら、一緒に夕飯食べて、そのまま今日帰ろうかな』
また入り浸る気か、と健介は苦笑した。
だが、一人暮らしの寂しい食卓よりも、生意気な娘と食べるご飯の方がずっと美味しく感じるのも事実だ。
『いいよ。何が食べたい?』
『お肉かな!』
『わかった。会社の近くで、うまい店を探しておくよ』
健介がそう返信すると、結愛からは嬉しそうに肉にかじりつくウサギのスタンプだけが返ってきた。
健介はスマートフォンをしまい、再び牛丼をかっ込みながら、残りの休憩時間で会社の近くにある評判の良いステーキハウスを検索し、スマートに予約を済ませた。
◇
そして、18時。
いつも通り定時きっかりに「お先に失礼します」とオフィスを出た健介は、会社の最寄り駅の近くで結愛と待ち合わせをした。
「お父さん、お疲れー」
「ああ、お疲れ。大学はどうだった?」
「まあ普通。それより、今日何食べるの?」
「ステーキはどうだ? 近くにいい店を見つけたんだ」
健介が言うと、結愛は「それそれ!」とパッと顔を輝かせて喜んだ。
「一人暮らしの仕送りじゃ、ステーキなんて高くて食べに行けないからねー」と、父親の財布をちゃっかり当てにするようなセリフを吐く。
「ははっ、しっかり食べて栄養つけなさい」
そんな平和な親子の会話を楽しんでいるうちに、目当てのステーキハウスの看板が見えてきた。
レンガ造りのお洒落な外観で、ビジネスマンやOLたちに人気の店だ。
「結愛、あそこだよ」
健介が店を指差して言おうとした、その瞬間だった。
「――沢村さんッ!!」
背後から、ひどく鋭く、そして感情的な声で呼び止められた。
思わず振り向くと、そこにはビジネスバッグを肩にかけ、スーツ姿の咲が立っていた。
外回りから帰る途中だったのか。
だが、その顔は驚きというより、明らかに怒りと焦りで真っ赤に染まっていた。
「やあ、橘さん。お疲れ様、こんなところで偶然……」
健介が挨拶をしようとしたが、咲はそれを遮るように猛烈な勢いで詰め寄ってきた。
そして、健介の隣に立つ、私服姿の若い女性――結愛を、まるで親の仇のように鋭く睨みつけたのだ。
「沢村さん! この人、誰なんですか!!」
「えっ」
あまりの剣幕に、結愛が驚いて「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、健介の腕をギュッと掴んで身を隠した。
その「若い女が、健介の腕に親密そうに触れた」という事実が、さらに咲の感情に火をつけたらしい。
咲はギリッと歯を食いしばり、今にも結愛に飛びかかりそうなほど激昂した表情を見せた。
(やばい、完全に浮気現場に遭遇した妻か彼女のテンションだ……!)
健介は事態の厄介さを瞬時に悟り、最小限の言葉で、最大の効果を発揮する「魔法の言葉」を放った。
「娘! 娘だから!! 俺の娘!!」
「……むす?」
咲の動きが、ピタリと止まった。
そして、健介の腕を掴んで怯えている結愛の顔と、健介の顔を交互に見比べた。
「……あ」
数秒後。
事態を正しく理解した咲の顔が、怒りの赤から、極度の羞恥によるゆでダコのような真っ赤へと変わっていった。
「あっ、えっと! す、失礼しました!! そ、そうですよね、沢村さんご結婚されてるし、大きな娘さんがいてもおかしくないですよねっ!!」
咲は両手で顔を覆い、今すぐこの場の地面に穴を掘って埋まりたいとばかりに身を縮めた。
誤解が解けたと思った健介は、ホッと息を吐き出して、ゆっくりと事情を話した。
「大学に行っている娘が、今日は自宅、つまり俺のマンションに帰ってくるって言うから。だったら待ち合わせして、たまには外で一緒にご飯でも食べようってことになったんだよ。ほら、そこのステーキハウスでね」
「そうでしたか! ス、ステーキいいですね! そこ、有名で美味しいお店ですもんね!」
咲は顔を真っ赤にしたまま、必死に取り繕うように早口で言った。
そして、これ以上ここにいては恥で死んでしまうと思ったのか、ペコペコと頭を下げて後ずさりした。
「そ、それでは私はこれで! 親子水入らずの時間、楽しんでくださいね!!」
咲が逃げるように反対方向へ駆け出そうとした。
――その時だった。
健介にも予想できなかった、恐るべき事態が起きた。
「あの、お父さんの会社の人ですよね?」
健介の腕に隠れていた結愛が、スッと前に出て、咲に向かって声をかけたのだ。
そして、天使のように無邪気な、しかしどこか底知れない笑顔を浮かべて、とんでもないことを言い出した。
「もしよかったら……一緒に、ステーキ食べませんか?」
「はぁ!?」
健介は思わず素っ頓狂な声を上げた。
何を言っているんだこの娘は。
父親の会社の後輩を、プライベートな親子の食事に誘うなんて、気まずくなるに決まっているだろう。
健介が止めようとする間もなく、結愛はさらに言葉を重ねた。
「せっかくお会いできたんだし、私、会社で働く女の人の話を色々と聞いてみたいんです。就活の参考にもなりますし……ダメですか?」
上目遣いでお願いする女子大生の無敵のコンボ。
咲は「えっ……でも、ご家族の邪魔に……」と困惑した顔をしたが。
娘本人が誘っているのに、親である健介が「やっぱりダメだ」と無下に断るわけにもいかない。
「……橘さんさえよければ、だけど」
健介が渋々そう言うと、咲は一瞬迷った表情を見せた。
しかし。
咲はちらりと健介を見て、何かを考えるように唇を結んだ。
やがてその顔に、好奇心を抑えきれないような表情が浮かんだ。
「……あ、あの、それじゃあ。お言葉に甘えて……ご一緒させていただきます!」
かくして、中年の『窓際のおじさん』と、女子大生の義娘、そしてバリバリの若手女性営業担当という、地獄のように気まずい、謎の食事会が幕を開けた。
◇
だが、ステーキハウスでの食事会が始まってみると、健介はある意味で「助かった」と思っていた。
娘と二人きりで何を話そうか、父親として少し頭を悩ませていたからだ。
「ええーっ! 咲さん、すごい! 大企業の社長さんに直接プレゼンしたんですか!?」
「ふふっ、まあね。でも、あれは私一人の力じゃなくて、沢村さんが事前に色々と準備してくれたおかげなんだけどね」
美味しい厚切りステーキを前に、結愛と咲は、すっかり女同士で意気投合し、大いに盛り上がっていた。
年の差は少しあるものの、同性ということもあり、仕事の苦労話やオフィスの人間関係の話で、健介が口を挟む隙もないほどキャッキャと話し込んでいる。
咲は、具体的な名前は伏せていた。
健介はワインを飲みながら、その様子をのんびりと眺めていた。
ただ、話の流れで高崎での出張の話題になった時は、さすがの健介も冷や汗を流した。
「へえ! じゃあ、その商談の帰りに、高崎で美味しい『もつ煮込み』を食べたんですね!」
「そうなの! すっごく美味しくて、ご飯おかわりしちゃったくらい!」
さすがの咲も、その後に大雨で電車が止まり、ラブホテルに二人で泊まったことまでは言わなかった。
しかし、結愛がフォークを置き、ふふっと首を傾げて、何気ない一言を放った。
「でも、大変ですよね。お父さんみたいなおじさんと、咲さんみたいな綺麗な人が、一緒に遠くまで出張なんて。気も使うだろうし」
結愛の言葉に、咲は慌ててブンブンと手を振った。
「全然! 全然そんなことないですよ! むしろ、沢村さんと一緒に行けて、すっごく嬉しかったです!」
「へえ……」
結愛の目が、スッと細められた。
そして、純真無垢な顔のまま、ストレートな剛速球を投げ込んだ。
「咲さんって、もしかしてお父さんのこと、好きですか?」
「ブフォッ!!」
健介は、飲んでいた赤ワインを盛大に吹き出しそうになり、むせて咳き込んだ。
「ゲホッ! ゴホッ!」と胸を叩く父親を完全に無視して、結愛は咲の顔をじっと見つめている。
「ななな、ななななっ、何を言ってるのかな結愛ちゃんっ!?」
咲の顔は、熟れたトマトのように一瞬で真っ赤に爆発した。
「す、好きって、そういうんじゃなくて! 営業の大先輩として、心の底から尊敬しているだけであって、他意は全くなく! ですから、そういう不純な感情は一切……っ!!」
早口で、しどろもどろになって全否定する咲。
その必死すぎる様子を見て、結愛は「あははっ、冗談ですよー」とケラケラと笑った。
「ですよねー。お父さん、家だとだらしないし、最近お腹も出てきてるし。あんなおじさん、咲さんみたいな人が好きになるわけないですよね」
「そ、そうそう! あはは……!」
和やかな笑いに包まれ、その場の空気は無事に収まったように見えた。
◇
結愛は笑顔を崩さず、咲の反応を思い返していた。
(この人……絶対に、お父さんのこと好きじゃん)
そんなヒリヒリとした食事会も終わり、父がスマートに3人分の会計を済ませていた時のことだった。
レジの横で待っていた咲の背後に、結愛がスッと近づいた。
「あ、咲さん。髪の毛に何か付いてますよ」
「あっ、えっ? なに?」
咲が驚いて振り返ろうとした瞬間、結愛は咲の首元のすぐ近くまで顔を寄せた。
クンッ、と。
結愛の鼻が、小さく空気を吸い込む音がした。
「……あ、ごめんなさい。光の加減でゴミに見えただけみたいです。違ってました」
「もう、びっくりしたぁ」
結愛はニッコリと笑い、咲から離れた。
その後、店の前で「ごちそうさまでした!」「仕事頑張ってくださいね!」と挨拶を交わし、咲とはそこで別れた。
結愛は父と並んで駅へと歩き、自宅マンションへと向かう電車に乗り込んだ。
「いやぁ、美味しかったけど、あそこのステーキはやっぱり少し高かったなー。来月のお小遣いがピンチだよ」
父は、隣に座る結愛へ、のん気な声で話しかけてくる。
しかし、結愛は父の言葉には適当に相槌を打ちながら、電車の窓に映る自分の顔をじっと見つめ、心の中で呟いていた。
(……違った。あの日曜日に、お父さんのスーツからした香水の匂い。あれは、咲さんの匂いじゃなかった)
結愛は、獲物を狙うハンターのように目を細めた。
(じゃあ、お父さんにあの匂いをつけた女の人は……会社の中に、まだ他にいるってことだよね)
父は、自分が匂いの主を探していることには、まだ気づいていないらしい。
結愛は窓に映る父の顔へ、そっと目を向けた。
◇
ただ、健介がのん気なことを言い、第三課の女性たちが恋のさや当てを繰り広げている裏で。
営業本部長の御厨隆史は、怒りを抑えられずにいた。




