第8話:本当の姿
「我々の結論は――」
張り詰めた空気の中、神崎部長は深く息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……今回の提案、白紙撤回は取り下げましょう」
その言葉を聞いた瞬間、星野佳奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
首の皮一枚でつながった。
自分の致命的なミスを、隣にいる健介の驚異的な手腕が完全にカバーしてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます……っ! 本当に、申し訳ありま――」
「ただし」
佳奈の感謝の言葉を、神崎の鋭い声が遮った。
「条件があります。先ほど沢村さんが口頭で説明した『利益率の3%向上』。これを、我が東都リテールの役員会で正式に説明し、彼らを完全に納得させられるレベルの具体的な資料として完成させ、提出してください」
「役員会で、説明できるレベルの資料……」
「ええ。単なる机上の空論ではなく、各店舗のバックヤードの動線から配送コストの相殺まで、すべてを網羅した完璧な裏付けデータが必要です。……期限は『3日以内』。それができなければ、やはりこの話はなかったことにさせていただきます」
神崎の突きつけた条件に、佳奈の頭の中が真っ白になった。
3日以内。
佳奈が元々のプレゼン資料を作るだけでも、1ヶ月近くかかっているのだ。
ましてや、健介が先ほど即興で組み立てたばかりの新しい改善案である。
必要なデータを一から集め直し、役員を納得させる緻密な資料にまで落とし込むとなれば、どんなに優秀な人間が徹夜をしても最低で1週間はかかる作業量だ。
(そんなの、絶対に無理だ……)
喜びから一転、佳奈は再び深い絶望の淵に突き落とされた。
やはり神崎は、佳奈たちの不手際を許してなどいなかったのだ。
ただ体よく断るために、絶対に不可能な『無理難題』を吹っかけてきたに過ぎない。
隣を見ると、健介も困ったように眉をひそめていた。
「……3日、ですか」
健介の口から漏れた、信じられないというような呟き。
その言葉を聞いて、佳奈は完全に悟った。
あの底知れない実力を持つ沢村さんでさえ、3日で作るのは無理だと匙を投げているのだ。
もう、どう足掻いても終わりだ。
佳奈が絶望に項垂れ、謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。
「……3日では、遅くないですか?」
「なに?」
神崎が怪訝そうに眉を寄せた。
佳奈も、健介が何を言っているのか理解できず、隣にいる彼の横顔を見上げた。
健介は、いつもの『冴えないおじさん』の笑顔など微塵もない、冷徹で鋭いビジネスマンの目をしていた。
「ビジネスにおいて、3日間の遅れは命取りです。御社が1日でも早く新しいシステムを導入すれば、それだけ莫大な利益が生まれる。……ならば、明日までにはお持ちしますよ」
「……は?」
神崎が、今日初めて言葉を失い、ポカンと口を開けた。
佳奈に至っては、心臓が完全に止まりそうだった。
(あ、明日ぁっ!? 沢村さん、何言ってるの!?)
絶対に不可能な3日という期限を、自ら『明日』に縮めたのだ。
正気の沙汰ではない。
神崎は数秒間、健介の真意を探るようにじっとその瞳を見つめ返していたが、やがてフッと口元を綻ばせた。
「……無理はしなくていいと言いたいところですが。いいでしょう、分かりました。明日の17時、もう一度この応接室でお待ちしています。沢村さん」
「ええ。ご期待に沿えるものを、必ず」
健介は深く一礼し、石のように固まっている佳奈の背中を押して、応接室を後にした。
◇
「さ、沢村さん! どういうことですか!?」
帰りのタクシーに乗り込むなり、佳奈は取り乱して叫んだ。
「明日なんて、絶対に無理です! いくらなんでもできっこないです……っ! それに、そもそもどうして、私の資料を見ただけで『3%向上する』なんて具体的な数字が分かったんですか!?」
矢継ぎ早に絶望と疑問をぶちまける佳奈に対し、健介はタクシーのシートに深く寄りかかり、いつもの『冴えないおじさん』の顔に戻っていた。
「ああ、あれ? 応接室で君の資料を広げただろう? あれを見てたら、なんとなく長年の勘でね。いけそうな気がしたんだよ」
「長年の勘って……!」
そんな曖昧なもので、あんな大企業の部長を相手にハッタリをかましたというのか。
しかも、明日の17時までに役員レベルの資料を完成させなければならないのだ。
課長も若手エースも出張で不在の中、ポンコツ新人と『窓際のおじさん』の二人だけで。
(終わった……今度こそ、本当に終わった……)
佳奈はタクシーの窓に額を押し付け、半泣きになりながら車窓を流れる街並みを眺めていた。
◇
20時。
営業第三課のオフィスには、佳奈と健介の二人だけが残されていた。
他の先輩たちは、定時を過ぎると「あとは自分たちで何とかしなさいよ」と冷たく言い残し、さっさと帰宅してしまったのだ。
静まり返ったフロア。
佳奈は自分のデスクで、絶望的な量のデータフォルダを開き、どこから手をつけていいのか分からずフリーズしていた。
「……よし。誰もいなくなったね」
不意に、隣の席から低く落ち着いた声が聞こえた。
顔を上げると、健介がネクタイを少し緩め、ワイシャツの袖を腕まくりしているところだった。
「星野さん。君が今日のために集めてくれた生データのファイル、全部俺の共有フォルダに投げてくれるかな。ああ、あと、過去3年分の東都リテールのキャンペーン履歴も一緒に」
「え? あ、はい……」
佳奈が言われるがままにデータを転送した、次の瞬間だった。
タタタタタタタタタタタッ!
静寂のオフィスに、凄まじいタイピング音が響き渡った。
佳奈は思わず息を呑み、健介の手元を凝視した。
信じられない光景だった。
いつも人差し指でゆっくりとキーボードを探していた『冴えないおじさん』の姿は、そこにはなかった。
健介の指は、まるでピアノを奏でるかのようにキーボードの上を滑り、一切の迷いなくショートカットキーを駆使して画面を切り替えていく。
佳奈が送った膨大な生データが、一瞬にしてExcel上でグラフ化され、美しいPowerPointのスライドへと自動的に配置されていく。
「すご、い……」
佳奈は椅子から立ち上がり、引き寄せられるように健介の背後に立った。
画面上に構築されていくのは、先ほど応接室で彼が語った『3%向上』の明確な裏付けとなる、美しく、緻密な戦略データだった。
営業第三課が誇る『データ職人』の藤本雫でさえ、これほど美しく速い処理は絶対にできない。
魔法を見ているようだった。
「沢村、さん……」
「星野さんは、スライドの12ページ目から25ページ目までのテキスト部分をお願い。君が足で稼いできた現場の声が、一番の説得力になる。俺がベースを作るから、そこに肉付けしていって」
健介は画面から一切目を離さず、短く的確な指示を飛ばした。
その声には、有無を言わせぬ強い引力があった。
「は、はいっ!」
佳奈は慌てて自分の席に戻り、キーボードに向かった。
不思議と、先ほどまでの絶望感は完全に消え去っていた。
(この人がいれば、絶対にできる。……これが、沢村さんの『本当の姿』なんだ)
自分の痕跡を完全に消し去り、『窓際のおじさん』を演じている、底知れない実力者。
その彼の圧倒的な実力を、今、自分だけが間近で見つめ、彼の手足となって一緒に戦っている。
その事実に、佳奈の胸の奥で、絶対的な安心感と強い高揚感が渦を巻いた。
もう、誰も信じられなかった冷酷なオフィスは怖くない。
彼さえいれば、どんな不可能でも覆せる。
それから数時間。
二人はほとんど言葉を交わすことなく、ただひたすらに一つの完璧な資料を作り上げるための呼吸を合わせていった。
健介が組み上げた強靭な骨格に、佳奈が現場の血肉を通わせていく。
そして――。
「……よし。完成だ」
健介が最後のエンターキーをターンッ、と力強く叩いた。
窓の外が白み始め、夜明けの淡い光がオフィスに差し込んでいた。
時計の針は、午前5時を回っている。
「終わった……」
佳奈は深く息を吐き出し、椅子の背もたれにぐったりと寄りかかった。
疲労の極致。
しかし、手元の画面に映し出された全50ページに及ぶ資料は、東都リテールの役員たちを唸らせる『傑作』だった。
絶対に無理だと思っていたものが、たった一晩で形になったのだ。
「星野さん、お疲れ様。よく頑張ったね」
健介が椅子を回し、疲れたように笑って佳奈に缶コーヒーを放り投げた。
「あっ、ありがとうございます……!」
佳奈は冷たい缶コーヒーを受け取り、プルタブを開けた。
一口飲むと、徹夜明けの身体に甘さが染み渡る。
朝日に照らされた健介の横顔。
少し無精髭が伸び、ネクタイは外され、ワイシャツの第一ボタンが開いている。
いつもは小ぎれいに隠されている、大人の男の無防備な色気がそこにあった。
「……沢村さん」
「ん?」
「私……沢村さんのこと、もっと知りたいです」
静かなオフィスに、佳奈の素直すぎる本音がポロリとこぼれ落ちた。
健介は缶コーヒーを持ったまま、少しだけ驚いたように目を丸くし、やがて困ったような、けれどとても優しい笑みを浮かべた。




