第7話:星野佳奈の窮地
あの喫茶店での出来事から、2週間が経過した。
営業第三課のオフィスには、相変わらず張り詰めた空気が漂っている。
しかし、新人の星野佳奈のデスク周りだけは、以前のような悲壮感がすっかり消え去っていた。
「星野さん、この前の一新フードサービスの提案資料、なかなか良かったわよ。次の三葉フーズの案件もこのフォーマットでお願いできる?」
「はいっ! ありがとうございます、中川先輩!」
中堅の中川留美からの珍しい労いの言葉に、佳奈は嬉しそうに声を弾ませた。
佳奈の仕事ぶりは、ここ最近で見違えるように向上していた。
もちろん、要領の悪さが劇的に直ったわけではない。
しかし、健介からこっそり渡された『作成者不明の魔法のフォーマット』を、佳奈はただ使うだけではなく、自分なりに必死に分析し、アレンジを加えていた。
クライアントの業種に合わせてグラフの配色を変えたり、説得力を持たせるための補足データを自分の足で集めて組み込んだり。
その頑張りが功を奏し、佳奈の営業成績は少しずつ、だが確実に上がり始めていた。
(よしっ、この調子で今日のプレゼンも頑張ろう!)
佳奈はノートパソコンの画面を見つめながら、小さくガッツポーズをした。
隣の席に視線をやると、今日も健介が猫背で、いかにも暇そうに支給品の安いボールペンをカチカチと鳴らしている。
最近は仕事が楽しくて、少しだけ自信もついてきた。
(この三葉フーズの案件が無事に終わったら……今度こそ、私からちゃんとお礼のご飯に誘おう)
佳奈は胸の奥で小さく決意を固め、口元を綻ばせた。
だが――。
自分はもうポンコツじゃないと、少しだけ気が緩んでいたのかもしれない。
その『落とし穴』は、佳奈が全く予期せぬ方向から、突然口を開けた。
ジリリリリッ!
静かなオフィスに、佳奈のデスクの固定電話がけたたましく鳴り響いた。
画面に表示された着信元を見て、佳奈の心臓がドクンと跳ねた。
『東都リテールグループ』。
現在、佳奈がメイン担当として進めている超大型案件のクライアントであり、今日の15時から最終プレゼンを予定している相手だった。
「はい、営業第三課の星野です! いつもお世話になっており――」
「星野さん。一体どういうことですか。ふざけているんですか?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、担当者である神崎部長の、氷のように冷たく、静かな怒りを孕んだ声だった。
「え……? あの、神崎部長……?」
「今日の15時に予定していた最終プレゼンですがね。我々は、その前日である昨日の17時までに、御社からの最終見積もりと企画書の事前データを送ってもらう約束をしていましたよね?」
「――っ!」
佳奈の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
手元のスケジュール帳を慌てて確認する。
そこには確かに『月曜17時:事前データ送付』と書かれている。
しかし佳奈は、それをすっかり『今日の17時』だと勘違いしてしまっていたのだ。
「も、申し訳ありません! 私の完全な失念で……っ! 今すぐに、データを――」
「結構です」
神崎の声は、もはや怒りを通り越して呆れ果てていた。
「我々は遊びで仕事をしているわけではない。たった1日の遅れが、全国の店舗でどれほどの損失を生むか分かっていないようだ。……約束の期日すら守れないような杜撰な担当者、そしてそんな新人を平気で寄越す御社とは、到底信頼関係は築けません」
「ま、待ってください! 神崎部長、本当に申し訳ありません、どうか……!」
「せっかく良い提案だと思っていたのに、非常に残念です。今回の契約は白紙とさせていただきます。今日のプレゼンも来なくて結構です。失礼します」
ツーツー、という無機質な電子音が、佳奈の耳元で虚しく響いた。
「嘘……」
受話器を握りしめたまま、佳奈はガタガタと震え出した。
東都リテールグループの案件は、営業第三課の今期の目標達成を左右するほどの超大型契約だ。
それを、自分の『たった1日の期日勘違い』という初歩的なミスのせいで、完全に潰してしまったのだ。
佳奈は血の気を失った顔で、周囲の先輩たちを見渡した。
「ど、どうしよう……! 橘先輩、中川先輩! 私、東都リテールへの事前データ送付の期日を間違えてしまって……契約を白紙にするって……!」
泣き叫ぶような佳奈の報告に、オフィスにいた数人の先輩たちの顔色が一斉に変わった。
「はぁっ!? あんた、何やってんのよ!」
『特攻隊長』の橘咲が、バンッと机を叩いて立ち上がる。
「あそこは神崎部長の鶴の一声で全部決まる、超ワンマンで気難しい会社なのよ!? 期日厳守なんて営業の基本中の基本じゃない!」
「すみません、すみません……っ! あの、どなたか一緒に謝罪に……!」
佳奈が藁にもすがる思いで懇願するが、留美は冷酷な目で首を横に振った。
「無理よ。私と咲はこれから別の大口クライアントの接待があるの。それに、本来こういうトラブルは課長か、エースが対応すべき案件でしょ」
最悪なことに、今日に限って課長の霧島玲奈とエースの佐々木澪は、揃って大阪出張に出ており、オフィスには不在だった。
「そんな……私、一人じゃ……」
「自分のミスは自分でケツを拭きなさい。そもそも、私たちが行ったところで神崎部長の怒りが収まるわけないでしょ。完全なあなたのミスなんだから」
先輩たちは、完全に佳奈を見捨てて背を向けた。
『連帯責任』という概念のないこの部署では、他人の致命的なミスに巻き込まれて自分の評価を下げることなど、絶対に避けるべき行為なのだ。
佳奈は絶望で視界が歪み、ポロポロと涙をこぼしながら、震える手で謝罪用の資料をカバンに詰め込み始めた。
一人で、あの恐ろしい神崎部長の元へ行き、土下座をしてこなければならない。
契約は絶対に取れない。
クビになるかもしれない。
恐怖と混乱で息が浅くなっていた、その時。
「星野さん。東都リテールに行くなら、俺も一緒に行くよ」
不意に、優しく、けれど絶対に揺らぐことのない芯を持った声が降ってきた。
振り返ると、スーツのジャケットを羽織った健介が、静かな瞳で佳奈を見ていた。
「沢村、さん……。でも……」
「ちょうど、あっちの方面で買わなきゃいけない備品があってね。おじさんが隣で深く頭を下げれば、少しは相手の気も紛れるかもしれない。ただの『置物』だと思って使ってよ」
健介はいつものように人の良さそうな笑みを浮かべたが、その言葉には、先輩たちにはない絶対的な『温かさ』と『安心感』があった。
「沢村さん……っ!」
佳奈は涙を拭い、健介と共にタクシーに飛び乗った。
◇
30分後。
東都リテールグループ本社の、冷ややかな空気が漂う応接室。
「……何の用ですか。契約は白紙だと言ったはずですが」
腕を組み、ソファに深く腰掛けた神崎部長が、凍てついた視線を突き刺してきた。
佳奈は健介と共に、膝に額がつくほど深く頭を下げた。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした! 私の不手際で、多大なるご迷惑をおかけして……!」
佳奈が必死に謝罪の言葉を並べるが、神崎は鼻で笑うだけだった。
「謝罪など求めていません。私が求めているのは『結果』と『信頼』です。たかがデータの送付一つ守れない人間に、我が社の全国100店舗のプロモーションを任せられるわけがない。お引き取りを」
冷酷な通告。
終わった。
もう、何を言っても無駄だ。
取り付く島もない。
佳奈が絶望で目を閉じかけた、その瞬間だった。
「――神崎部長の仰る通りです。ビジネスにおいて期日を守れないなど、三流以下のやること。御社が激怒されるのは当然であり、弁解の余地もございません」
それまで佳奈の隣で黙って頭を下げていた健介が、ゆっくりと顔を上げた。
その声を聞いた瞬間、佳奈は思わず息を呑んだ。
声のトーン、響き、そして纏っている空気が、普段の『冴えないおじさん』とは全く違ったのだ。
低く、落ち着き払い、そして相手の心の奥底までスッと入り込んでいくような、不思議な引力を持った声。
神崎も、健介の異様な気迫に押されたように、わずかに眉を動かした。
「星野と同じ営業第三課の、沢村と申します」
健介は名刺入れから名刺を取り出し、流れるような美しい所作で神崎の前に差し出した。
「神崎部長。今回の致命的な遅れは、すべて星野の未熟さゆえです。しかし――彼女がなぜ、提出期限を取り違えるほど企画書の改善に没頭していたのか。その『裏側の事情』だけは、どうか耳に入れていただけないでしょうか」
「……事情、ですか」
健介の言葉の絶妙な『間』に、神崎が訝しげに目を細めた。
「はい。実は星野は、昨日の午前中の段階で、御社に提出する予定だった企画書をすべて破棄し、ゼロから組み直しておりました」
「なっ……」
佳奈は驚いて健介の横顔を見た。
そんな事実はない。
佳奈はただ単純に期日を間違えていただけだ。
だが健介は、佳奈に目配せすらせず、堂々と、そして確信に満ちた表情で言葉を紡ぎ始めた。
「星野は、御社の各店舗の在庫回転率を独自に分析した結果、従来の私たちの提案を少し組み替えるだけで、御社の利益率を『さらに3%向上させられる』という事実に気づいてしまったのです」
「利益率が、3%向上……?」
神崎の目の色が、怒りから『ビジネスマンとしての強い関心』へと一瞬で変わった。
健介はすかさず、佳奈が今日持参していたカバンから、彼女自身がアレンジを加えた最新のフォーマット資料をスッと抜き出し、神崎の前に広げた。
「たとえば、この主力商品の配送ルートです。従来のAパターンではなく、こちらのBパターンとロット数を連動させて納品をかけます。そうすれば、各店舗のバックヤードの在庫滞留日数が平均で2日短縮される。これだけでも――」
健介は資料の数値を的確に指さしながら、立て板に水のごとく具体的な改善案を提示し始めた。
それは神崎も全く気づいていなかった盲点であり、極めて論理的で完璧なビジネス戦略だった。
佳奈は隣で、雷に打たれたように硬直していた。
(最初は出まかせの嘘で丸め込もうとしてるのかと思ったけど……違う。沢村さんは今、私が作ってきた資料の数値をその場で見て、一瞬で完璧な改善プランを組み立ててるんだ……!)
もちろん、佳奈自身もそんな改善案には全く気づいていなかった。
健介は、佳奈が用意した素材を瞬時に脳内で再構築し、神崎という気難しい相手を完全に納得させるだけの『完璧な解答』を、即興で作り上げているのだ。
「星野は、御社に少しでも大きな利益をもたらすため、このブラッシュアップ案を形にしようと、新人ながら無謀にも社内の供給ラインと徹底的に交渉しました。その結果、原価調整に時間がかかり、あろうことか期日の連絡すら忘れるほどに没頭してしまった。……プロとしては失格の、あまりにも愚かな行為です」
健介はそこで言葉を区切り、神崎の目を真っ直ぐに射抜いた。
「しかし、神崎部長。彼女の『期日を守れなかった愚かさ』と、彼女が御社のために身を削ってブラッシュアップしてきた『利益率3%の大幅な向上』。……ビジネスとして、どちらを取るのが正解か。神崎部長であれば、すでにお分かりのはずです」
静まり返る応接室。
玲奈が見せる、理詰めの冷たい交渉術とも違う。
澪が見せる、押しと愛嬌の営業とも違う。
相手の怒りを完全に受け止め、それを肯定した上で、一瞬にして『怒り』を『強烈なメリット』へとすり替える。
嘘を真実に変え、相手の心理を掌握していく。
(すごい……。これが、沢村さんの……『本当の姿』……)
今まで見てきたどの先輩よりも、どの人間よりも。
次元が違う。
神崎部長は、腕を組んだまま目を閉じ、深い沈黙に落ちた。
数秒が、永遠のように長かった。
やがて、神崎はゆっくりと目を開け、健介と佳奈を交互に見据えた。
「……沢村さん、と言いましたね」
「はい」
神崎は深く息を吐き出し、静かに口を開いた。
「我々の結論は――」




