第6話:レトロな喫茶店
会社から電車で数駅離れた、閑静な住宅街。
その路地裏にひっそりと佇む、煉瓦造りの小さな喫茶店。
カランコロン、と年季の入った真鍮のドアベルを鳴らして中に入ると、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、真空管アンプから控えめに流れる温かなジャズの音色が二人を包み込んだ。
「へえ、すごくいいお店だね。こんな隠れ家みたいな落ち着く場所、よく知ってたね」
アンティーク調のステンドグラスランプが優しく照らすテーブル席に腰を下ろしながら、健介が感心したように店内を見渡す。
少し使い込まれたベルベットのソファが、二人の体を柔らかく受け止めた。
「はい。たまに、一人でホッとしたい時に来るんです。マスターがサイフォンで淹れてくれるブレンドが、本当に美味しくて……」
佳奈は緊張で上擦りそうになる声を必死に抑えながら、メニューを開いた。
会社では絶対に交わるはずのない『窓際のおじさん』と新入社員。
そんな二人が、終業後にこうして遠く離れた街で向かい合って座っている。
会社の人間に見られる心配がないという安心感と、まるで秘密の逢瀬のような非日常感に、佳奈の鼓動はさっきから落ち着かないままだった。
やがて、蝶ネクタイを締めた白髪のマスターが、湯気を立てるブレンドコーヒーを二つのカップに注いで去っていく。
健介はゆっくりとカップを持ち上げ、一口飲むと、「ああ、これは本当に美味しいね」と目を細めて微笑んだ。
その飾らない、心底リラックスしたような笑顔を見ると、佳奈の肩に入っていた余計な力も不思議と抜けていくのを感じた。
「あの……沢村さん。この間は本当に、ありがとうございました。おかげでコンペ、クライアントの役員の方からも大絶賛で……無事に大成功だったんです」
改めて居住まいを正し、深々と頭を下げる佳奈に、健介は「だから僕じゃないってば」と苦笑しながらカップをソーサーに置いた。
「星野さんが、自分で集めたデータをちゃんとプレゼンで伝え切ったからだよ。僕はただ、昔の同僚の引き出しに眠っていた忘れ物を渡しただけだからね」
「でも……」
佳奈は俯き、温かいカップの縁を指でなぞった。
健介はあくまで「自分が作った」とは認めない。
しかし、佳奈の中には確信めいた感情があった。
そして、その得体の知れない彼の能力よりも何よりも、今こうして佳奈の話を真っ直ぐに聞いてくれる彼の存在そのものが、たまらなく心地よかった。
「私、本当に要領が悪くて。毎日、中川先輩や佐々木先輩に怒られてばっかりで、この仕事向いてないのかなって、入社してからずっと落ち込んでたんです。先輩たちみたいにテキパキできないし、いつもみんなの足手まといで……」
ポツリポツリと、心の奥底に溜まっていた泥のような本音がこぼれ落ちる。
優秀で気の強い女性陣に囲まれ、常に張り詰めた空気の営業第三課で、佳奈はずっと息が詰まっていた。
同期にも、親にも言えなかった情けない弱音を、なぜか目の前の健介には、せきを切ったように素直に打ち明けることができた。
健介は決して言葉を遮らず、静かに佳奈の言葉に耳を傾けていた。
やがて、フッと柔らかく、すべてを包み込むような笑みを浮かべた。
「星野さんは真面目で、すごく一生懸命だね。でも、最初から完璧に仕事ができる人間なんて、この世にいないよ。僕だって、若い頃は失敗ばっかりで、毎日上司に怒鳴られてたんだから」
「沢村さんが、ですか?」
佳奈が驚いて顔を上げると、健介は「そうそう」と懐かしそうに目を細めた。
「初めて任された大きなプレゼンで、緊張しすぎてカバンごと違う会社の資料を持っていっちゃってね。その場で頭の中が真っ白になって、ひたすら土下座して謝ったよ。あと、大事な接待の日に電車を乗り間違えて、先方の社長を雨の中で1時間も待たせたこともあったなぁ。あの時は本気でクビになるかと思って、胃に穴が空きそうだった」
あっけらかんと笑いながら語る健介の失敗談に、佳奈は思わず目を丸くした。
「そ、そんなこと、あったんですか……?」
「僕にも新人だった頃はあったんだよ。最初は誰だって手探りなんだ。だから、星野さんも今は焦らなくていいんじゃないかな。不器用でもちゃんと前を向いて頑張ってるんだから、絶対に大丈夫。自分のやってることに、もっと自信持っていいんだよ」
穏やかな、それでいて芯のある優しい声。
それは、魔法のデータをもらった時よりも、佳奈の心に深く、優しく染み渡った。
どんな失敗も、どんな弱音も、決して否定せずに包み込んでくれる大人の余裕。
冷たいオフィスでは絶対に感じることのできなかった確かな温もりに、佳奈は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「ありがとうございます……。なんだか、すごく元気が出ました」
「それは良かった。せっかくの美味しいコーヒーなんだから、しかめっ面じゃなくて、笑って飲まないとね」
それから、二人の会話は仕事の悩みから離れ、自然とプライベートな話題へと移っていった。
「沢村さんは、普段お休みの日は何されてるんですか?」
「んー? そうだなぁ、最近は完全に一人だからね。適当に自分でご飯作って、あとはテレビ見たり、本を読んだりしてゴロゴロしてるよ」
「え、お一人なんですか?」
「うん。妻は仕事で大阪に単身赴任しててね。娘も今年から大学に入って一人暮らしを始めたから、今は気楽な一人暮らしってやつだよ」
(奥さんと、別居中……!)
その事実に、佳奈の心臓がトクンと大きく跳ねた。
もちろん、彼が結婚していることは知っていた。
左手の薬指にシンプルな指輪があることには、以前から気づいていたからだ。
だが、まさか家族と離れて一人暮らしをしているとは思わなかった。
「そうなんですね……。でも、広いお家に一人だと、寂しくないですか?」
「まあ、最初は少し広すぎる気がしたけどね。……星野さんこそ、僕みたいな歳の離れた男とお茶なんかしてて大丈夫なの? 彼氏が心配するんじゃない?」
健介がからかうように、少し意地悪な笑みを浮かべて首を傾げた。
その瞬間、佳奈は顔を真っ赤にして勢いよく身を乗り出した。
「いっ、いませんっ! 私、今まで誰ともお付き合いしたことなんてないです!」
「えっ、そうなの? 星野さんみたいに素直で可愛い子なら、すぐにでも相手が見つかりそうなのに」
「か、可愛いだなんて……! 私なんて全然そんな……!」
動揺と照れのあまり、佳奈がぶんぶんと両手を振った――その時だった。
ガチャンッ!
「あっ!」
佳奈の手が、テーブルの上のグラスにぶつかり、派手な音を立てて倒れた。
溢れ出した水と氷はテーブルを勢いよく滑り落ち、向かいに座る健介のスーツのパンツ、しかも太ももの内側あたりにバシャッと豪快にかかってしまった。
「うおっ」
「ひゃあっ! ご、ごめんなさい! 沢村さん、今拭きます……!」
佳奈は頭が真っ白になり、慌ててテーブルの上の布おしぼりを手に掴むと、健介のズボンを拭こうと手を伸ばした。
だが、水がかかった場所が場所だ。
健介の脚の付け根あたりに無防備に手を伸ばしかけて、佳奈はハッと気づき、顔から火が出るほど赤くなってピタリと動きを止めた。
「あっ、あのっ、そのっ……!」
「だ、大丈夫だよ、星野さん。ただの水だし、すぐに乾くから」
健介は苦笑いしながら佳奈の手からそっとおしぼりを受け取り、自分で軽く水気を拭き取った。
しかし、仕立ての良いネイビーのスラックスには、くっきりと大きな染みができている。
濡れた布地が肌に張り付いていた。
「そんな、私のせいで……。でも、そのままだと……電車、乗れませんよね! あ、あの、実は私のマンション、ここから歩いてすぐなんです! だから、あの、乾かす間だけでも寄って……! なにか代わりに着られるスウェットとか出しますから……!」
焦りと申し訳なさ。
そして、無意識下にあった『もっとこの人と一緒にいたい』という微かな衝動。
それらが入り混じり、佳奈は反射的にそう提案していた。
だが、言い終わってから数秒後。
佳奈は自分の発言の『軽薄さ』に気づき、サァッと顔から血の気を引かせた。
(ち、違う……! 私、なんてことを……っ!)
軽薄な女だと思われたかもしれない。
手当たり次第に男を部屋に連れ込むような、だらしない女だと誤解されたらどうしよう。
激しい後悔と羞恥心で、佳奈の顔は今度は爆発しそうなほど真っ赤に染まった。
俯き、ギュッと両手を握りしめる。
少しの沈黙が落ちた。
店内に流れるジャズの音色だけが響く中、恐る恐る顔を上げると、健介の目が、すべてを見透かしたように和らいでいた。
やがて、彼は困ったように眉を下げ、優しく微笑んだ。
「お気遣いありがとう。でも、大丈夫だよ」
「え……」
健介はテーブル越しに手を伸ばし、佳奈の頭を軽くポンポンと、まるで幼い子供をあやすように撫でた。
「若い女の子が、僕みたいな男を簡単に部屋に入れちゃダメだ。それに、娘と同じくらいの子の部屋に一人で上がるなんて、少し気が引けるからね。ほら、気にしないで。今日はご馳走様。コーヒー、本当に美味しかったよ。教えてくれてありがとう」
健介は「じゃあ、また明日会社でね」と優しく微笑むと、佳奈が引き止める間もなくあっさりと会計を済ませて、夜の街へと帰っていってしまった。
◇
歩いて数分の距離にある自宅マンションへ、佳奈は一人で帰路についた。
夜風に吹かれながら、撫でられた自分の頭にそっと触れた。
胸の奥が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。
パニックが収まったことへの安堵や、彼の優しさに対する感謝だけではない。
「あっさりと断られてしまった」ことへの、ほんの少しの悔しさと惨めさ。
しかし、その感情はすぐに別のものへと塗り替えられていった。
(あっ……そういえば、お会計……)
佳奈はハッと足を止めた。
今日はコンペのお礼として、自分がご馳走する約束だったはずだ。
それなのに、あのパニックの中で、いつの間にか彼がすべて支払ってくれていたのだ。
ふがいない自分に苦笑する。
(また、助けられちゃった……)
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
(次こそは、絶対に私がご馳走しなきゃ。……これなら、またご飯に誘っても、おかしくないよね)
佳奈の胸の奥で、どうしようもないほどの嬉しさと期待がふわりと膨らみ、鼓動が早鐘のように鳴り始めた。
(沢村さん……)
ただの『冴えないおじさん』。
そう思っていたはずの彼に対する感情が、佳奈の中で決定的に、そして後戻りできない形へと変わろうとしていた。




