第5話:約束のコーヒー
あの大成功を収めた新規チャネル開拓コンペから、数日が経過した。
営業第三課のフロアには、相変わらず殺伐とした空気が流れている。
新人の星野佳奈は自席でノートパソコンの画面を見つめながら、ふと隣の席に視線を送った。
そこには、少し出た下腹を丸め、猫背でキーボードを叩く沢村健介の姿がある。
給湯室の安っぽいインスタントコーヒーを啜り、「いやぁ、肩が凝るねぇ」と独りごちる姿は、どこからどう見ても『花形部署』に迷い込んだ『冴えないおじさん』だ。
(沢村さん……)
コンペの翌日。
佳奈は誰もいない給湯室で健介を捕まえ、深々と頭を下げてお礼を伝えた。
「私、なんとお礼を言ったらいいか……。今度、絶対にお食事をご馳走させてください」
必死に食い下がる佳奈に対し、健介は困ったように頭を掻いていた。
「だから、僕が作ったんじゃないってば。……でも、そんなに言うなら、じゃあ今度、美味いコーヒーでもご馳走してよ。僕、缶コーヒーばっかりで飽きちゃってさ」
そう言って、のんきに笑って去っていったのだ。
あの完璧で、作成者の痕跡すら残さない魔法のようなデータを渡しておきながら、見返りに求めるのが「美味いコーヒー一杯」だけ。
ますます彼のことが分からなくなった。
「星野さん、手が止まってるわよ。明日の定例会議の資料、まだ終わってないの?」
「あっ、すみません! いまやります!」
中堅の中川留美から鋭い声が飛び、佳奈は慌てて意識を画面に戻した。
コンペで少し褒められたとはいえ、佳奈の要領の悪さが劇的に改善したわけではない。
今日も今日とて、膨大な顧客データのリスト化という地道で面倒な作業に追われていた。
各店舗の売上推移と競合他社のキャンペーン時期を照らし合わせ、手作業でExcelに入力していく。
このままでは確実に終電コースだ。
(どうしよう、全然終わらない……)
泣きそうになりながらマウスを動かしていると、不意に、佳奈のデスクの端にスッと一枚の裏紙が置かれた。
「んしょっと。……いやぁ、ゴミ箱がいっぱいでね。星野さん、ついでにこれ、捨てといてくれないかな」
健介だった。
彼は佳奈と目を合わせることもなく、ただの通りすがりのような足取りで、そのまま給湯室の方へと歩いていってしまった。
「え……?」
佳奈は置かれた裏紙を手に取った。
それは、何かのマニュアルを印刷した際のミスコピーのようだった。
しかし、その裏面の隅に、青いボールペンで走り書きのようなメモが残されていた。
「共有フォルダ>営業ツール>過去ログ>【旧式】データ統合マクロ.xlsm これ使うと早いかも。お疲れ様」
佳奈は息を呑んだ。
周囲の先輩たちに見えないよう、そっとメモを裏返し、指示された共有フォルダの奥深くへとアクセスする。
そこには、誰にも使われず放置されているような古いファイルがあった。
佳奈がそれを開き、自分が今手作業で打ち込んでいるデータを放り込んで『実行』ボタンを押すと――。
パパパパッ、と画面が切り替わり、佳奈が3時間かけても終わらなかった照合リストが、わずか数秒で完璧なフォーマットに仕上がってしまった。
「うそ……」
思わず声が漏れた。
佳奈は信じられない思いで、給湯室から戻ってきた健介の姿を見つめた。
健介は相変わらず気の抜けた顔で、あくびを噛み殺しながら自分の席に座っている。
偶然だろうか。
いや、違う。
彼は通りすがりに画面を一瞥しただけで、佳奈が何に苦戦しているのかを瞬時に見抜き、この『放置されたマクロ』の存在を的確に教えてくれたのだ。
またしても、彼に救われた。
それからというもの、佳奈の周囲で『不思議なこと』が何度か続くようになった。
例えば、会議室のセッティングを任された時のこと。
プロジェクターの接続がうまくいかず、先輩たちが来る時間が迫る中、佳奈はパニックになっていた。
先に会議室に入ってきた健介が「あれ、ケーブル抜けかかってるねぇ」と何気なく触れた瞬間、パッと画面が映し出された。
またある時は、エースの佐々木澪が不在の際、気難しい大口のクライアントから電話がかかってきた。
「佐々木さんが前に言ってた企画の数字、今すぐ教えてくれないか」
そう急かされ、佳奈が資料のどこを見ればいいか分からず言葉に詰まっていると――。
「……ファイルBの、14ページだよ」
背後を通り過ぎる足音と共に、ボソッと、佳奈にしか聞こえないほどの低い声が耳に届いた。
佳奈が慌ててそのページを開くと、まさに先方が求めていた数字がそこにあった。
おかげで、無事に対応することができたのだ。
その度に、佳奈が驚いて隣の席を見ると、健介はいつでも「自分は何も知りませんよ」という顔で、のんびりと別の作業をしているのだった。
(沢村さん……一体、何者なの……?)
佳奈は胸の中で、彼に対する疑問と意識が日に日に大きく膨らんでいくのを感じていた。
営業第三課のフロアでは、健介への風当たりが強いままだ。
「ちょっと沢村さん。その段ボール、そこに置かれると動線の邪魔なんですけど」
「ああ、ごめんごめん。いま片付けるよ」
澪が冷ややかな声を投げかけると、健介は人の良さそうな笑みを浮かべ、ペコペコと頭を下げながら重そうな段ボール箱を持ち上げている。
「まったく、気が利かないんだから……」
『特攻隊長』の橘咲が、呆れたように口を挟んだ。
「いいじゃない、澪。どうせあの人、『窓際のおじさん』なんだから放っておきなさいよ」
先輩たちが忍び笑いを漏らす。
これまでの佳奈なら、先輩たちに同調して彼を軽視していただろう。
だが、今の佳奈には、全く別の景色が見えていた。
(みんな、気づいてないだけだ。あの人は、ただの『冴えないおじさん』なんかじゃない)
自分がピンチの時、誰よりも早く、誰にも気づかれないように助け舟を出してくれる。
その的確さとスピードは、澪や課長の霧島玲奈すらも凌駕しているように思えた。
なぜこれほどの能力を持ちながら、あえて無能なふりをして、先輩たちから冷たくあしらわれているのか。
その真意は全く分からない。
けれど、確実に言えることが一つだけあった。
誰も本当の彼を見ていない中で、自分だけが秘密の欠片に触れている。
その事実が、深海を覗き込むような底知れない謎に対する『強烈な好奇心』と『親近感』を生んでいた。
冷たい『花形部署』の中で、健介の存在だけが、佳奈にとって唯一の安全地帯になりつつあった。
◇
金曜日の夕方。
18時の定時を迎え、週末に向けて少しだけオフィスが緩んだ空気に包まれていた。
定時ぴったりに帰り支度を始めた健介を、佳奈は意を決して追いかけた。
「あ、あの……沢村さん!」
エレベーターホールで、佳奈は少し上擦った声で彼を呼び止めた。
振り返った健介は、少し驚いたように丸い目を瞬かせる。
「ん? どうしたの、星野さん。忘れ物?」
「いえ、あの……」
佳奈は周囲に人がいないことを確認し、胸の前で両手をギュッと握りしめた。
部署の誰も相手にしていない、23歳も年上の男性を、自分からプライベートで誘おうとしている。
その事実に、心臓がトクトクと早く脈打つ。
「この前……コンペの次の日、おっしゃってましたよね。『美味いコーヒーでもご馳走してよ』って」
「え? ああ、うん。言ったかもしれないねぇ」
「私、会社の近くだと、誰かに見られちゃうかもしれないので……。会社から少し離れているんですけど、すごく美味しいコーヒーを淹れてくれるレトロな喫茶店を見つけたんです。豆から挽いてくれる本格的なところで……。だから、もしよければ……!」
佳奈は一つ深呼吸をして、勇気を出して言葉を紡いだ。
「今日の帰り、お礼に……そのお店で、ご馳走させていただけませんか?」
静かなエレベーターホールに、佳奈の真っ直ぐな声が響く。
健介は少しの間、ポカンとした顔で佳奈を見つめていた。
しかしすぐに、フッと柔らかく、どこか余裕のある笑みを浮かべた。
「……そっか。美味しいコーヒー、いいねぇ。僕、今日はちょうどまっすぐ帰るだけだったから、お言葉に甘えちゃおうかな」
「っ……はい! ありがとうございます!」
「いやいや、お礼を言うのはこっちだよ。星野さんが見つけたお店、楽しみにしてるね」
チーン、という音と共にエレベーターの扉が開く。
「お先に失礼するよ。下で待ってるね」
先に乗り込んでいく健介の後ろ姿を見送りながら、佳奈は自分の頬が熱くなっているのを感じていた。
ただのお礼だ。
仕事の恩返し。
そう自分に言い聞かせる。
しかし、本当は違った。
佳奈は、沢村健介という男の隠された『謎』と、時折見せるさりげない『優しさ』に、どうしようもなく惹きつけられ始めていたのだった。




