第4話:作成者不明
翌日の13時。
都内の一等地にある大手外食チェーン本社の広大な会議室は、水を打ったような静けさに包まれていた。
長テーブルの奥には、クライアントの役員と決裁権を持つ部長陣がズラリと並んでいる。
彼らの鋭い視線の先に立っていたのは、入社1年目の星野佳奈だった。
「以上が、御社の新規ターゲット層に対する、弊社の最適なアプローチプランとなります」
佳奈は震えそうになる声を必死に抑え、プレゼンを締めくくった。
数秒の静寂。
それは佳奈にとって、生きた心地のしない永遠のような時間だった。
しかし次の瞬間、中央に座っていた専務が、深く、そして大きく頷いた。
「素晴らしい。市場データの分析が完璧だ。我々が漠然と抱えていた若年層へのリーチ不足という課題を、ここまで的確な数値で指摘し、ソリューションの根拠を明確に提示してきたのは御社が初めてだよ」
「えっ……」
「特に、あのスライド12枚目のクロス分析。あれは非常に説得力があった。ぜひ、この方向で具体的な契約の話を進めさせてほしい」
大絶賛だった。
会議室の空気が一気に好意的なものへと変わる。
同席していた営業第三課の『特攻隊長』こと橘咲と、中堅の中川留美は、目を丸くして佳奈を凝視していた。
昨日まで泣きべそをかき、的外れな企画書を作っては叱責されていたポンコツ新人が、一晩で完璧な資料を組み上げ、堂々とプレゼンを成功させたのだ。
おまけに、コンペの途中ではクライアントから意地悪な質問も飛んできた。
だが資料には想定Q&Aの補足スライドまで用意されており、それを読み上げるだけで相手を納得させてしまった。
咲と留美が絶句するのも当然だった。
何より佳奈自身が、この状況に驚いているのだから。
◇
「星野さん、あんた……やればできるじゃない! あの補足資料、いつの間に用意してたの!?」
帰りのタクシーの中で、咲が興奮気味に佳奈の肩をバシバシと叩く。
「そうね。私、あんな高度な分析手法やマクロの組み方、あなたに教えた覚えはないんだけど……。昨日、1人で徹夜でもしたわけ?」
助手席から振り返った留美が、鋭い視線を送ってくる。
同意の言葉の裏に、明確な疑問と探りが混じっていた。
「あ、えっと……! 大学時代の知人に少しアドバイスをもらって、その、昔の資料とかを必死に参考にして……」
佳奈は引き攣った愛想笑いを浮かべ、必死に誤魔化すことしかできなかった。
先輩たちからこんなに褒められるのは初めてだ。
本来なら天にも昇る気持ちのはずなのに、佳奈の心臓は別の意味で激しく鳴っていた。
(私が凄いんじゃない。全部、沢村さんからもらったあのUSBのデータのおかげだ……)
タクシーの窓の外を流れる景色を見つめながら、佳奈は鞄の中で、黒いUSBメモリを強く握りしめた。
◇
オフィスに戻った佳奈は、自分のデスクに座るなり、周囲の目を盗んで急いでノートパソコンを開いた。
昨日、健介から渡された黒いUSBメモリ。
あの魔法のようなファイルの正体を、もう一度確かめなければならない。
(コンペの資料だけじゃない。先方の役員が気にしていたピンポイントな懸念材料まで、まるで予知していたみたいに網羅されてた。あんなに完璧なマクロとフォーマット、普通の営業マンが作れるはずがない。絶対に沢村さんが私のために作ったんだ)
佳奈はExcelファイルを右クリックし、『プロパティ』から詳細情報を開いた。
しかし、画面に表示された文字を見て、佳奈は息を呑んだ。
作成者:――
最終更新者:――
作成日時:――
更新日時:――
コンピュータ名:――
「え……?」
思わず声が漏れた。
昨日開いた時は、焦っていて細部まで見ていなかった。
しかし、今こうして確認してみると、ファイルからは、「誰が、いつ、どのパソコンで作ったか」というデジタルな痕跡が、1つ残らず消去されていたのだ。
まるで、最初からこの世に存在しなかった幽霊のデータのように。
(どういうこと……? わざと履歴を残さない設定にしてるってこと? あんなに完璧なデータを作り上げておきながら、誰が作ったか絶対にバレないように、最初から細工されていたの……?)
背筋にゾクッと冷たいものが走る。
ふと視線を上げると、隣の席で、健介が「ああ、熱いっ」と言いながら、給湯室の安いインスタントコーヒーを啜っていた。
少し出た下腹に、人の良さそうな丸い笑顔。
身だしなみこそきちんと整っているが、どう見てもデジタルツールなど使いこなせそうにない、『冴えないおじさん』だ。
課長の霧島玲奈は、相変わらず健介を『窓際のおじさん』と見なし、完全に無視して業務を進めている。
佳奈は意を決して席を立ち、健介のデスクへと向かった。
「あの、沢村さん……」
「ん? おお、星野さん。お疲れ様。コンペ、うまくいったみたいだねぇ。さっき橘さんがすごく褒めてたよ」
健介はいつもの笑顔を向けた。
佳奈はエースの佐々木澪が席を外しているのを確認し、声を潜める。
「本当に、ありがとうございました。あのデータのおかげで、完璧なプレゼンができました。……でも、沢村さん。あのファイル、本当は誰が作ったんですか?」
佳奈の真っ直ぐな視線を受け止めても、健介の表情は一切崩れなかった。
「誰って……昨日も言っただろう? 僕が前にいた部署の奴だよ」
「嘘です」
佳奈は一歩踏み込んだ。
「あんなプロみたいなこと、ただの営業マンがするとは思えません。本当は、沢村さんが私のために――」
「星野さん」
健介ののんびりとした声が、佳奈の言葉を遮った。
口調はのんびりとしたままだ。
笑顔も、姿勢も、何一つ変わっていない。
けれど、その奥の瞳だけが、一瞬、ひやりとした光を宿したように見えた。
「僕はPCのことはからっきしなんだ。だから、前の部署の優秀な奴が作ってくれたものを、ただ渡しただけ。……それ以上のことは、おじさんにはよく分からないなぁ」
「……」
それ以上、追及することはできなかった。
健介は再びマグカップに口をつけ、「いやぁ、午後も眠くて敵わないね」とのんきに欠伸をしている。
佳奈は自分の席に戻り、USBメモリをそっと握り込んだ。
絶対におかしい。
この人は、ただの『窓際のおじさん』なんかじゃない。
周囲の優秀な先輩たちはほぼ全員、彼を無能だと見下している。
けれど、本当は違う。
あの魔法のようなデータを作り上げ、自らの痕跡を最初から完全に消し去るほどの、規格外の能力を持った人間なのだ。
(沢村さんの本当の顔って、一体……)
得体の知れない恐ろしさが胸に広がる。
だが同時に、誰も知らない彼の秘密の欠片に触れてしまったという、ざわつくような好奇心も芽生え始めていた。




