第3話:絶望のコンペティション
東京のオフィス街にそびえ立つ本社ビル。
その高層階に位置する営業第三課のオフィスは、夜の帳が下りてもなお、張り詰めた空気に包まれていた。
「また、数字が合わない……」
新人の星野佳奈は、照明の落とされたオフィスで、モニターを前に1人、泣きそうな顔で呟いた。
23歳。
小動物のように愛らしい顔からは、連日の残業と極度のプレッシャーで完全に生気が失われていた。
時刻は午後8時を回ろうとしていた。
明日の午後一番には、佳奈がメイン担当として初めて挑む、大手外食チェーンとの重要な新規チャネル開拓コンペが控えている。
しかし、手元にあるプレゼン資料は、お世辞にも「完成」とは程遠い状態だった。
「ちょっと星野さん。明日の資料、まだ出来てないの?」
帰り支度をしながら、中堅の中川留美が冷ややかな声を投げかけた。
佳奈はビクッと肩を震わせ、慌てて立ち上がる。
「す、すみません! 各店舗の売上データと、うちの商品の相関グラフがうまく作れなくて……。フォーマットも崩れちゃって……」
「はぁ……」
留美は無駄肉のない引き締まった腕を組んだ。
「あのさ、私、明日も朝イチで別のアポ入ってるから、あなたの尻拭いしてる暇ないんだけど。だいたい、そのデータ集計のやり方、先週教えたよね?」
「はい……申し訳ありません……」
「謝らなくていいから、手を動かして。明日のコンペ、絶対に落とせない案件なんだからね。……お疲れ様」
留美はヒールの音を響かせてオフィスを出て行った。
佳奈は助けを求めるように周囲を見渡したが、エースの佐々木澪も自席で膨大な案件処理に追われており、新人に構う余裕など微塵もなかった。
『特攻隊長』の橘咲はすでに外回りから直帰していた。
課長の霧島玲奈も会議で不在で、ほかの面々もすでに退勤していた。
(どうしよう……このままじゃ、明日のコンペ、大失敗しちゃう)
誰も頼る相手がいない。
自分の要領が悪いのは分かっている。
だが、先輩たちは皆、自分の成績と仕事で手一杯だった。
連携や教育という概念は、この部署には存在しない。
孤独と絶望感で、佳奈の目にじわりと涙が滲んだ。
必死に涙を堪え、震える手でマウスを握り直した、その時だった。
「星野さん、まだ残るの?」
のんびりとした、緊張感の一切ない声。
振り向くと、そこには先日配属されてきたばかりの『冴えないおじさん』こと、沢村健介が立っていた。
普段なら18時の定時でさっさと帰る健介も、今日は珍しくオフィスに残っていた。
スーツ姿こそ整っているが、少し出た下腹と人の良さそうな丸い笑顔は、この殺伐とした『花形部署』には全く似つかわしくない。
事実、彼が配属されてからの数日間、女性陣は皆、彼を何の役にも立たない『窓際のおじさん』と見なし、いないものとして扱っていた。
佳奈自身も、先輩たちの空気に飲まれ、彼とはほとんど口を利いていなかった。
「あ、沢村さん。はい……明日のコンペの資料が、どうしてもまとまらなくて……。グラフも思ったように出てこなくて……」
佳奈が鼻をすすりながら答えると、健介は困ったように眉を下げ、頭を掻いた。
「大変だねぇ。若いからって無理しちゃダメだよ。あ、そうだ……これ、もしよかったら使ってみてくれないかな」
健介はスーツの内ポケットから、シンプルな黒いUSBメモリを取り出し、そっと佳奈のデスクの上に置いた。
「え……? これは?」
「昔、僕がいた部署の、すごく優秀な同僚が作った『企画書のテンプレート』なんだ。なんか、数字とかを入れるだけで、それっぽい資料になるマクロ?ってやつが組んであるらしいんだけど」
健介は恥ずかしそうに笑いながら、視線を泳がせた。
「おじさんにはPCが難しすぎてね。結局、使いこなせなくて。ずっと引き出しの奥で眠ってたんだけど、星野さんなら、もしかしたら参考になるかもしれないと思って」
「いいんですか?」
「うん。少しでも足しになれば。じゃあ、僕は今日はスーパーの特売日に寄ってから帰るから、お先に失礼するよ。あんまり夜更かししちゃダメだよ」
健介は手をヒラヒラと振りながら、ゆっくりとした足取りでオフィスを後にした。
残された佳奈は、ポツンと置かれたUSBメモリを見つめた。
(沢村さんの、優秀な同僚のテンプレート……)
正直に言えば、期待はしていなかった。
どうせ一昔前の、古臭いデザインのフォーマットだろう。
それでも、今の佳奈にとっては藁にもすがる思いだった。
佳奈はUSBメモリをノートパソコンに挿し込み、中に入っていた1つのExcelファイルを開いた。
「え……?」
ファイルが開かれた瞬間、佳奈は息を呑んだ。
画面に展開されたのは、単なる『古臭いテンプレート』などでは断じてなかった。
現在進行形で佳奈が苦戦していたクライアントの最新市場データ、競合他社の動向、そして第三課の過去の取引実績。
明日のコンペで必要となる情報の大半が、すでに整理された状態でシートに格納されていたのだ。
「これ……どういうこと?」
震える手で、指示通りに入力セルへ今日集めた数値を打ち込んでみる。
『実行』ボタンをクリックした瞬間、画面が目まぐるしく切り替わった。
パパパパッ、と魔法のように、入力した数値が美しい円グラフや棒グラフへ変換されていく。
さらにクライアントの課題に対する最適なソリューションが、説得力のあるコピーと共に次々と自動生成された。
デザインも洗練の極みだった。
第三課のエースである澪が作る資料よりも、はるかに見やすく、美しく、そして『勝てる』資料だった。
これなら、明日のコンペは絶対に成功する。
そう確信できるほどの、圧倒的なクオリティ。
(こんな凄いシステム、沢村さんの「昔の同僚」って、一体どんな人なの……?)
佳奈は信じられない思いで画面を見つめた。
ただの汎用的なテンプレートのはずなのに、不思議なほど『今、自分が直面している課題』にぴったりと合致した作りになっている気がする。
「おじさんにはPCが難しすぎてね。結局、使いこなせなくて。ずっと引き出しの奥で眠ってたんだけど」
先ほどの健介の人の良さそうな笑顔と言葉を思い出す。
ただの偶然だろうか。
それとも……。
背筋を撫でるような違和感が脳裏をよぎったが、今はそれよりも、明日のコンペに完璧な状態で挑めるという事実が何よりも嬉しかった。
(沢村さん、本当に、ありがとう……ございます!)
完璧に仕上がったプレゼン資料を見つめながら、佳奈はこれまでの絶望感から一転して、明日への希望と大きな安堵感に包まれていた。
誰にも頼れなかった自分に、不器用ながらも救いの手を差し伸べてくれた優しいおじさん。
佳奈はその背中に、深い感謝を抱くのだった。




