第2話:一人の食卓
営業第三課に配属されてから、数日が経過した。
健介の社内での扱いは、初日の「異物を睨みつけるような冷ややかなもの」から、急速に「完全な空気」へと移行しつつあった。
無理もない。
健介はあえて、与えられたルーチンワークを『普通の中年社員』のスピードでこなし、会議では当たり障りのない相槌を打つだけに留めている。
女性陣からすれば、足は引っ張らないが何の役にも立たない、まさに『窓際のおじさん』そのものだった。
しかし、健介の脳内は真逆だった。
支給されたノートパソコンに向かい、表向きは鈍臭くタイピングをしているように見せかける。
その裏で、健介は部署内の人間関係と業務フローを鋭くスキャンし続けていた。
(事前のデータ通り……いや、現実はそれ以上に歪だな)
健介は顔を上げないまま、視線だけで忙しなく動く8人の女たちを観察した。
『特攻隊長』の橘咲は、相変わらず圧倒的な行動力で新規のアポを取ってくるが、その後の細やかなフォローアップが壊滅的だ。
結果として、尻拭いのような実務がエースの佐々木澪と中堅の中川留美の二人に集中している。
『データ職人』の藤本雫は極めて優秀だが、自分の世界に没入しすぎており、他者との情報共有をシャットアウトしている。
事務担当の柚木結衣は、周囲の張り詰めた雰囲気に気を遣いながら、自分の仕事を黙々とこなしている。
そして新人の星野佳奈は、そんな殺伐とした連携不足の空気の中で誰にも質問できず、今日も見当違いの資料を作り続けては、留美や澪から冷たいため息をつかれていた。
課長の霧島玲奈は全体を俯瞰しているものの、彼女のマネジメントスタイルは『結果至上主義』であり、個人の業務プロセスには干渉しない。
大橋雅子は『裏ボス』らしく余裕の笑みを浮かべているが、自ら火中の栗を拾う気はないようだ。
(能力の問題じゃない。互いの領分に踏み込まないルールが、穴を穴のまま放置している。……さて、誰から手をつけたものか)
健介はすでに、手元のローカル環境に、第三課の全顧客データを一元管理し、ワンクリックで必要な資料が自動生成されるマクロプログラムを構築し終えていた。
あとは、最適なタイミングでそれを『誰か』に差し出すだけだ。
「……お先に失礼します」
18時、定時。
皆が残業に向けて動き始め、オフィスの空気が張り詰める中、健介は一人、そそくさとカバンを手にして立ち上がった。
澪が舌打ちをする音が聞こえたが、健介は人の良さそうな愛想笑いを浮かべて会釈し、そっとオフィスを後にした。
◇
「ただいま」
都内の閑静な住宅街にある、10階建てのマンション。
健介が7階にある3LDKの自宅のドアを開けても、出迎える声はない。
玄関には、健介の革靴だけがぽつんと置かれている。
スーツのジャケットをハンガーに掛けながら、健介は静まり返ったリビングを見渡した。
かつては、家族3人の笑い声が響いていた空間だ。
妻の麻由美は現在、アパレル関係の仕事で大阪へ単身赴任している。
表向きは「キャリアアップのための栄転」ということになっている。
健介も笑顔で送り出した。
だが、夫婦の間にできた溝の原因が、それだけではないことを健介は知っていた。
健介が社内の派閥争いから距離を置き、出世コースから外れたこと。
上昇志向の強い麻由美にとって、それは夫への失望を決定づける出来事だった。
そしてもう一つ。
二人にしか分からない、長い結婚生活の中で積み重なってしまった問題がある。
健介はそれを誰にも話したことがない。
麻由美もまた、口にしようとはしなかった。
だから大阪への異動を希望した妻を、健介は引き止めなかった。
健介は妻を愛しているがゆえに、彼女の選択を静かに受け入れた。
さらに、義娘である結愛も今年、都内の私立大学に入学したのを機に一人暮らしを始めた。
そのため現在の健介は、完全に一人きりの生活を送っている。
「……よし。腹ごしらえといくか」
過去の感傷を振り払うように、健介はワイシャツの袖を捲り上げ、キッチンへと向かった。
冷蔵庫を開け、残っている食材を瞬時にスキャンする。
豚肉、玉ねぎ、少し萎びたほうれん草、卵。
健介はスマートフォンをシンクの脇に立てかけ、動画アプリを立ち上げた。
検索窓に『豚肉 玉ねぎ プロの味』と打ち込み、再生回数の多い料理動画を選ぶ。
健介はもともと料理など一切したことがなかった。
だが、一人暮らしを始めるにあたり、「動画を見てその通りに手を動かす」というプロセスを試したところ、驚くべき事実が判明した。
動画内で解説される火加減、包丁の角度、調味料の黄金比。
健介の極めて高い情報処理能力と分析力は、画面越しの『プロの技術』を、寸分違わず自身の身体でトレースすることを可能にしていたのだ。
トントントントン、と軽快で正確なリズムで玉ねぎが薄切りにされていく。
フライパンの上に手をかざして温度を確認し、絶妙なタイミングで肉を投入。
動画のシェフが語る「ここが美味しくなるポイントです」という言葉に合わせて、健介は手首を返し、フライパンを見事に煽る。
わずか20分後。
食卓には、街の人気定食屋で出されてもおかしくない、見事な照りと香りを放つ豚の生姜焼きと、ほうれん草のお浸し、そして出汁の効いた味噌汁が並んでいた。
「いただきます」
一人の食卓で、健介は箸を進める。
自分の作った料理ながら、申し分のない味付けだった。
ふと、リビングの端にある扉に視線を向ける。
今は誰も使っていない、結愛の部屋だ。
結愛は妻・麻由美の連れ子で、健介と血の繋がりはない。
だが健介は、幼い頃から実の娘のように可愛がってきた。
小学生の頃は「お父さん!」と無邪気に懐いてくれていた。
だが年頃になった今は、たまに連絡を取っても意図的に健介と距離を置こうとする『ツンデレ』な態度が目立つようになっている。
「おじさん臭い」「ウザいんだけど」といった、娘が父親に向けるテンプレのような言葉を浴びせられることも多い。
だが、健介は知っている。
数日前、忘れ物を取りに結愛がマンションに立ち寄った際、帰り際に何も言わずに健介の革靴をピカピカに磨いておいてくれたことを。
彼女なりに、一人きりで生活している義父を不器用ながら気遣ってくれているのだろう。
(今度、あいつの好物でも送ってやるか)
健介は洗い物を手早く済ませると、静かなリビングで一人、コーヒーを淹れた。
頭の中に浮かぶのは、営業第三課で働く8人の女たちの顔だ。
データの整理はすでに終わっている。
問題は、そのプライドを傷つけず、『冴えないおじさん』のまま、いかにして信頼を得るかだ。
「さて……明日は少しだけ、動いてみるか」
温かいマグカップを両手で包み込みながら、健介は誰に見せるでもない、静かで余裕のある笑みを浮かべた。




