第1話:女性だけの営業第三課
東京のオフィス街にそびえ立つ、大手飲料メーカー・青葉飲料の本社ビル。
その高層階にある、陽光が降り注ぐ明るいフロアを、沢村健介は静かに歩いていた。
仕立ての良いネイビーのスーツにはシワ一つなく、靴の先も丁寧に磨き上げられている。
身だしなみには一切の隙がないが、少しだけ出た下腹と、どこにでもいる平凡な中年男の顔立ちが、彼をどうしても『普通のおじさん』に見せていた。
46歳。
それが健介の年齢だ。
(営業第三課、ね……)
ガラス扉に掲げられた真新しいプレートを見上げ、健介は小さく息を吐いた。
健介が配属されたこの部署は、営業部におけるまさに『花形』だ。
東京を含む首都圏全域の新規チャネル開拓や、新しいプロモーション企画の実行を担っている。
優秀な女性社員を戦略的に集め、洗練されたアプローチで業績を伸ばしている期待の部署である。
健介は本来、営業の第一線において圧倒的な実績を誇るエースだった。
話術、折衝能力、そしてデータ分析のスキル。
どれをとっても社内で右に出る者はいない。
しかし、彼は社内に蔓延るドロドロとした派閥争いを心底嫌っていた。
権力闘争には一切加担せず、ただひたすらに己の仕事だけを完遂する。
その独立独歩の姿勢が、結果として社内の有力な派閥から『目の上のたんこぶ』として疎まれる原因となった。
「あいつは空気が読めない。営業三課のサポートにでも回してやれ」
表向きは「花形部署への栄転」や「女性チームへのベテランの配置」である。
だが、洗練された若い女性ばかりの最前線に、46歳の中年男を放り込むなど、実態は『体のいい左遷』でしかない。
社内の一部では「沢村は凄腕だ」という噂が流れている。
だが、第三課の人間は彼の一見冴えない風貌を見て、「ただの噂」「花形部署に似合わないお荷物が来た」と厄介者扱いしてくるはずだ。
健介自身、誤解を解く気など毛頭ない。
むしろこの状況を利用し、あえて自らの爪を完全に隠して『冴えないおじさん』を演じ切ることに決めていた。
◇
コンコン、と控えめにノックをしてから、健介は重い扉を開けた。
「失礼します。本日付けで配属されました、沢村です」
部屋に入った瞬間、7つの視線が一斉に健介に突き刺さった。
正確には8人。
ただ一人だけ、画面から顔を上げない女がいた。
むせ返るような女の匂い。
高級な香水、フローラルなシャンプー、洗練された化粧品。
男の汗臭さやタバコの匂いなど微塵も存在しない、完全に隔離された『最前線の花園』の空気がそこにあった。
だが、その花園の温度は、シベリアの永久凍土よりも低かった。
「……お待ちしていました。沢村さんですね」
縦に長く伸びたアイランド型のデスク配置。
その一番奥、窓際の全体を見渡せる課長席から立ち上がったのは、霧島玲奈だった。
38歳という若さで課長に抜擢されたエリート。
タイトスカートに包まれた下半身は驚くほどスレンダーだが、ブラウスを押し上げる胸の膨らみは圧倒的なほどに豊満だ。
彼女の冷徹な切れ長の目は、健介を「美しいチームの景観を乱す異物」でも見るかのように値踏みしている。
「営業第三課、課長の霧島です。ご存じの通り、ここは首都圏の新規チャネルを開拓する最前線の部署です。これまでの泥臭い営業とは勝手もスピード感も違うと思いますが、ここでは私たちのやり方に従っていただきます」
「はい。至らぬ点も多いかと思いますが、よろしくお願いいたします」
「挨拶は結構です。皆、分刻みで動いていますので。あなたの席は、あそこです」
玲奈はピシャリと言い放つと、顎で入口寄りの席を示した。
健介は「すみません」と人の良さそうな、いかにも頼りない笑みを浮かべて頭を下げ、指定された席へと歩を進めた。
その間、健介は視線を伏せながらも、これから共に働く課長以外の7人の女たちを静かに観察していた。
事前に人事ファイルや社内の噂を徹底的に洗い出してきた健介の脳内で、目の前の人物とデータが次々に照合されていく。
窓際の最前列、その左側。
むっちりとした太ももを組み替えながら、面白そうに健介を流し見している肉感的な女性が、チームの『裏ボス』と囁かれる大橋雅子だろう。
43歳とは思えない色気を放っている。
その向かい側で凄まじい速度でキーを叩いているのが、『データ職人』の異名を持つ藤本雫。
35歳の彼女は、健介が入室しても一度も手を止めなかった。
2列目。
左側に座るマシュマロボディの女性が事務担当の柚木結衣だ。
28歳の彼女だけは気まずそうに小さく会釈をしてくれたが、周囲の張り詰めた空気に耐えきれずすぐに目を逸らした。
その向かい側で腕を組み、「なんでうちの課にこんなおじさんが来るのよ」と言いたげな明らかな敵意を向けているモデル体型の長身美女。
彼女が新規開拓の『特攻隊長』こと橘咲、29歳。
そして3列目。
健介に与えられた席は、四面楚歌の包囲網のど真ん中だった。
デスクを挟んで真正面には、若手エースの佐々木澪が座っていた。
25歳。
すらりとした今どきのスタイルの彼女は、健介が向かいの席に座るや否や、わざとらしく「はぁ……」と大きなため息をついた。
「あの、沢村さん。デスク、それ以上こっちにはみ出さないでくださいね。私の作業の邪魔なので」
「あ、ああ。ごめんね、気を付けるよ」
澪のトゲのある冷たいトーンに、健介は再び愛想笑いを浮かべた。
澪はそれを見てさらに苛立ったように舌打ちをし、モニターの裏に隠れるように姿勢を低くした。
直後、健介のすぐ右隣――4列目からドサッという派手な音が響いた。
「ひゃあっ! す、すみませんっ、企画書が……!」
星野佳奈が刷り上がったばかりのプレゼン資料の山を床にぶちまけていた。
23歳、小動物系の彼女はオロオロと這いつくばり、涙目で書類を集めている。
人事ファイルによれば、彼女は最近配属されたばかりの新人だ。
「ちょっと星野さん。沢村さんが来た途端にミスしないで。だいたい、その資料は今日の午後のコンペで使うって言ったはずだけど?」
デスクを挟んだ向かい側からドライな声で叱責したのは、中堅の中川留美。
32歳、無駄肉のない引き締まった体型の彼女は、散らばった資料を拾おうともせず、冷ややかに佳奈を見下ろしている。
◇
(なるほど。見事なまでの包囲網、というわけか)
健介は自身のデスクに置かれた支給品のノートパソコンを開きながら、ぐるりと室内を見渡した。
見渡す限り、女、女、女。
しかも、ほぼ全員が『花形部署』のプライドを持っており、健介に対して「お荷物のおじさんが来た」という明確な嫌悪感と警戒心を抱いている。
噂の凄腕営業マンという人物像は、健介の冴えない風貌と態度の前に完全に消え去っていた。
普通の中年男なら、このエリート集団の冷酷なアウェーの空気に耐えきれず、数日で胃に穴が開き、休職するだろう。
だが、健介の脳内は極めて冷静だった。
パソコンを立ち上げ、社内の共有フォルダにアクセスした瞬間、健介の目は鋭く細められた。
(個々の能力は高いが、連携と情報共有が最悪だな……)
席へ向かう途中、チラリと目に入った雫の画面。
彼女は手動で膨大なリストを処理しているが、本来ならマクロを組めば一瞬の作業だ。
隣の佳奈がぶちまけたのは、無駄に装飾ばかり凝った非効率な企画書。
エースである澪のデスクには、各所から集まった未整理のチャネルデータが山積みになっている。
健介は、その極めて高い営業スキルとデータ処理能力によって、着席してわずか数分でこの『花形部署』の華やかさゆえの『致命的な非効率さ』を見抜いていた。
そして、彼女たちが抱える業務上の問題も、すべて。
(まずは『冴えないおじさん』として大人しくしておくさ。ゆっくりと、一人ずつ……この部署の壁を取り払っていくとしよう)
健介は分厚い業務マニュアルを開き、それを読むふりをしながら、誰にも気づかれないよう静かに業務の最適化に着手した。
第2章(第26話)まで書き上げてあります。
しばらくのあいだ、毎日お届けします。




