8-②
*****
「奥様。本当に宜しかったのですか?」
はたきを手に、懐かしい制服に身を包んだリリアが静かに言った。目を丸くしてから、私は笑みをつくる。
「こんな会話、前もしたわね」
「...........」
王弟殿下に嫁ぐためユービィスト王国へ発った日、船で交わした言葉。
意味が伝わったのだろう。
彼女の眉尻がみるみる下がった。
私は、手元の本に視線を落として続けた。
「これでいいのよ。彼には本当に愛する人と幸せになってもらいたいもの」
ーー数日前。
フェンリル様の遠征中に、私はリリアと共に公爵家を出てリーフェント家へ戻ってきた。
記入済みの離婚届と置き手紙。
それからーー
完成した『治療薬』をおいて。
十分育った特別なハーブや薬草を使って、フェンリル様の鼻を治すための薬を調合した。
きっと効果はある。
なんてったって、祖母の薬草ノートの情報も組み合わせてあるのだから。
薬草やハーブの知識に長けた父方の祖母は、すべてをノートに記していた。
祖母の作る薬は異端で、類を見ない独特の組み合わせからできていた。
だが、身内贔屓でもなんでもなく、祖母の薬は効果抜群だ。
彼女は若い頃世界中を旅して、膨大な知識と調合の腕を身につけた。その最中で、ユービィスト王国にも立ち寄っている。
ユービィスト王国は、自然豊かだ。
薬草となる植物も多い。
ノートと本を読み込みながら、貴国に自生する薬草や、輸入されている他国のハーブを組み合わせて、試行錯誤して、薬を作り上げた。
『鼻が利くようになれば、殿下の『記憶』を取り戻す手立てになるかもしれないのですね?』
『私は.....その可能性がある気がしている』
彼が番を失ったと話してくれた日の言葉。
確信がなくても、きっと何かが変わる。状況が動く。私もそう思った。
記憶を取り戻して、彼には幸せになってほしい。
そう。だからこそーー
「これ以上、近づいてはだめだったのに.....」
高台の夜景をともに見た日。
彼への気持ちをとうとう口にしてしまった。
口付けを交わして、抱きしめられたまま眠ってしまった。あろうことか、都合のいい言葉を聞く夢までみてしまった。
翌日、私の起床が遅れて、フェンリル様は家を出るのが早まって、顔を合わせることはなかった。
彼からは「帰ったら話がしたい」と手紙が認められていたけれど。
結局そのまま遠征に出た彼とは、あの夜から一度も会っていない。
それでいい。
彼の幸せのためには、離れなければ。
私が居ては、記憶を取り戻した時、彼が心置きなく番を迎えに行くことができなくなる。
植物たちは庭師のルーファスに今後の世話を頼んだ。
ウィルフォード公爵家の皆には、本当に申し訳ないことをした。
妻として嫁いでおきながら、無責任にも投げ出すのだから。何度も何度も、心の中で謝った。
でもきっと、番と一緒になることがフェンリル様にとって一番の幸せなのだ。
込み上げる寂しさを押し流すように、紅茶を一口含んで、飲み込んだ。
「旦那様が本当に愛しているのは....奥様なのでは?」
リリアが続ける。
「もしそうなら嬉しいけれど。それはないわ。彼は私を愛することはないってはっきりと仰っていたもの」
「そう、でしょうか....。最近の旦那様は幸せそうで....奥様をとても愛おしそうな目で見つめていらっしゃいましたよ?」
「きっと彼が優しい人だから、そう見えたのよ」
チャリ、と小さな鎖の音がこだました。
首元で光るパープルサファイア。
どうしてもこれだけは、置いてこられなかった。
彼が私の瞳みたいだと言ってくれた、大切な宝物。
ーー好き....
とどまるところを知らない気持ちを、心の中でそっと唱えた。
その時、
家の中が騒がしくなった。
自室に居た私とリリアは、互いに顔を見合わせて首を傾げる。
「何でしょう?」
「ええ。様子を見に行ってみましょうか」
「危険です。私が確認して参ります」
「いいえ、私も行くわ」
「....承知しました。けれど、私の後ろに居てくださいね」
「わかったわ」
白いドアを開けて、2階の廊下を進んでいく。
階段の踊り場まで降りた所で、使用人たちがバタバタと玄関扉の前を行き来しているのが見えた。
「誰か、来るのかしら」
「ええ。危険な雰囲気ではなさそうですが。この慌てようは.....」
とても地位のある方がやって来るのかもしれない。リーフェント家は、公爵家だ。
我々より地位の高い方といえば.....
そこまで考えた時、使用人の一人が叫んだ。
「おい!到着なされたぞ!」
ーーフェンリル・ウィルフォード公爵だ!
「「.....え?」」
私とリリアの声が、同時に響く。
出迎えのために開いた扉の隙間から、門をくぐる馬車が見える。
知らせを受けて迎えに出ていたらしい、リーフェント家の馬車だった。
屋敷に迫ったその馬車の窓から
フェンリル様の姿が見えた。
「う、そ....」
私は目を見開いてーー
瞬間、考えるよりも先に身体が勝手に走り出していた。
「お嬢様!!」
リリアの呼ぶ声が、背中に飛んできた。
馬車の停まる音と、扉の開く音も聞いた。
けれど、私は振り返らなかった。
全く予想していなかった事態に、パニックになる。
走って、走って、走って。
広い庭の奥へと駆けていく。
「ジャスミン!」
「.......っ」
フェンリル様が、猛烈な速さで追いかけてきていた。
「なぜ、逃げる!」
「に、逃げてなんて、いませんわっ」
「逃げているではないか!」
「あ......っ」
そんなやりとりに気を取られて、小石に足をとられた。
転ぶ!
そう思った時、ふわりと身体が浮いた。
お腹に回ったフェンリル様の腕が、がっしりと私の身体を支えてくれていたーー。
「やっと、つかまえた」
ーー逃すわけないだろう?
そう言って、安堵したようにぎゅっと....後ろから抱きしめられた。




