7 あふれた想い①
◇
フェンリル様の手が突然頬に触れて、緊張でとっさに身をかたくしてしまった。
平静を装わねばと思うのに、彼の体温を感じた身体は素直に反応する。
脳の思考とは裏腹に、全身をカァと熱さが包み込んで、赤くなるのを止められない。
「ジャスミン....」
謝罪の言葉と、その一瞬あとに届いた、私を呼ぶ声が妙に熱を帯びているように感じて、更に血が勢いを増して巡っていく。
だめ、気づかないでーー。
純粋に番を想う彼に負担をかけるのが目に見えている、こんな浅ましい気持ちは隠しきらなければ。そう思って、心の中で必死に願った。
「ジャスミンお嬢様」
その時、後ろから聞き覚えのある声が響いた。
「ルーファス」
振り返ると、数日前ハーブのことで相談にのってもらった屋敷の庭師が立っていた。
私やフェンリル様より年上で、だが、まだ三十代後半くらいだろうか。
笑うとうっすら目尻に刻まれる皺が優しげな、物静かなリス獣人男性だった。
「ルーファス....?」
神の助けとばかりに、ルーファスに目を向けていた私はフェンリル様が呆然と呟いた声が耳に入っていなかった。
スッと立ち上がって彼の元に駆け寄る。
「申し訳ありません。旦那様とご一緒だったのですね。これはお邪魔を....」
申し訳なさげに眉をさげて、ルーファスは小さく頭を下げる。立ち去る素振りを見せたので、慌てて言った。
気まずい思いが残る私は、彼に少しでもこの場に踏みとどまってほしかった。
もちろん長く引き止めるつもりはない。
仕事中のルーファスにも、一人になっているフェンリル様にも、申し訳が立たないから。
ただちょっぴりでも、動揺する心を落ち着ける時間が欲しかっただけなのだ。
「いいえ、いいのよ。ルーファス、先日は助かったわ。色々とアドバイスをもらえて、とても心強かったです」
「そんな....もったいないお言葉です。それにしても、お嬢様はとても植物にお詳しくていらっしゃる。私のアドバイスなんて、必要なかったのでは」
私の言葉を受けて足を止めたルーファスは、にこやかに続けた。
「そんなことないわよ」
「ハーブは、元気になったのですね」
「ええ、お陰様で何とか」
ふふふ、と笑った時だ。
少しだけ平静を取り戻しつつあった私の視界に、逞しくしなやかな腕が伸びてきたのが映った。
「ジャスミン」
「.....え?」
かけられた声と共に後ろから伸びた腕は、私の鎖骨を通って肩を掴んだ。
決して無理やりではないが、有無を言わせぬ力強さで後ろへ引き寄せられて、トンと弾力のある大きな壁に受け止められる。
状況が掴めず、間の抜けた声をあげてゆっくりと上を見れば、切なげな瞳とかち合った。
「どうして離れる....?」
ぽそっとこぼれ落ちた言葉。ゆるゆると目を見開いた。
だが、すぐに絡み合った視線は解けて、私を抱き寄せたままのフェンリル様はルーファスを見遣った。
「........っ」
その瞳はどんよりと仄暗く光っていてーー。
一瞬、今まで彼に感じたことのない恐怖のようなものが襲った。思わず肩が揺れる。
そんな私にチラリと視線を戻してから、またルーファスを見たフェンリル様は、低く地を這う声で言った。
「ジャスミンは今、忙しい。すまないが、遠慮してくれるか。.....それから、お嬢様ではない」
ーー奥様、だ。彼女は私の妻なのだから。
「....っ、は、はい。申し訳、ありません」
「もうひとつ。....ジャスミンはつけなくていい。この屋敷で、奥様と呼ばれる存在は彼女だけだ。それだけで伝わる。.....わかったな」
「は、はい」
顔を青くして、身体を半分に折る勢いで頭を下げるルーファスは、周囲を取り巻くあまりの圧迫感にカタカタと小さく震えている。
「もう仕事に戻れ」
「はい....失礼致します」
二人のやりとりをただ立ち尽くして見ていた私は、ルーファスの立ち去る足音で、自分を取り戻した。
「あ、あの....申し訳ありません」
フェンリル様が居るのに二人で話し込んでいて、いい気持ちがするわけがない。例えほんの少しの時間だったとしても、失礼なことをしてしまった。
顔をあげられず、視線は俯けたまま彼に謝罪した。
「君が、謝ることじゃない。ただ....」
「.........?」
「いや....。ああ、そろそろ俺も仕事に戻らねば」
「は、はい」
「行ってくる。....今日は仕事が立て込んでいる。夕食は先に食べていてくれ」
「.......はい」
最近は、ずっと共にしていた食事。
やはり怒っているのかもしれない。
胸の奥が軋む音がした。
結局、視線を上げた時にはフェンリル様の背中は遠くなっていて、彼の表情をうかがい知ることはできなかった。




