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「....さま。.....じょうさま。.....お嬢様?」
「.......ん」
「お嬢様。お目覚めですか?」
「.....あら....?ごめんなさい....私、いつのまに眠って?」
優しく身体を揺さぶられて、とろとろと意識が浮上する。いつの間にか眠っていたようだ。
「お疲れだったのでしょう」
「ええ....」
無事ユービィスト王国の港に到着すると、王弟殿下が手配してくれた馬車が待っていた。
座席にはふわふわのクッションが敷かれ、軽食とドリンク、寒くないようブランケットまで準備されていた馬車は居心地がよく、長旅で消耗していた身体にとても優しいものだった。
港から街道へ出るとずっと向こうにユービィスト王城が望めた。まだ小さなその城を眺めながらこの半年間を思い返していたら、段々馬車の心地よい揺れに瞼が重くなった。
「.....もうすぐ着きますわ」
「もうそんな所まで?」
リリアの言葉に、ぽうっとしていた頭が一気に覚醒する。
カタリと、もたれ掛かっていた座席の背から身体を起こし窓をのぞくと、ユービィスト王城とは違う場所にさしかかっていた。
「ここは.....王城ではないのね」
「王弟殿下は、現在王城にはお住まいではないようです。臣籍降下のこともあるでしょうが......」
「.....私との結婚生活のためにご準備下さったのかもしれないわね」
ちらりと馬車の車内に目配せしたリリアに、私は頷いて答えた。
車内はとても快適に整えられていた。
長旅に対する身体への気遣いに溢れている。
例え必要に駆られて娶る政略結婚の相手でも、思い遣りを持っているという気持ちが伝わってくる。
リリアも同じように感じたのか、船では沈んでいた表情が少しだけ明るさを取り戻していた。
会話しているうちに、立派なお屋敷が立ち並ぶ通りの角を曲がり、馬車は奥へと進んでいく。
そこにはとても広い庭、深緑色の屋根と白い壁の一際立派な屋敷が建っていた。
白くおしゃれな鉄の門をくぐると、屋敷の前にたくさんの使用人らしき人影が見える。
「お嬢様.....歓迎して下さっておりますわ」
「ええ、そうね。嬉しいわ」
皆、穏やかな表情で、私たちを温かく迎えてくれているのがすぐにわかった。
と、使用人たちの間から、スッと大きな影が進み出た。最前列まで来ると動きをぴたりと止めて、じっと馬車を見据える。
遠くからでもはっきりわかる、美しい耳と尻尾。凛々しい佇まい。
「....フェンリル様」
その姿はあの日のまま。
胸の内から込み上げる気持ちのままに....気づけば唇が彼の名を紡いでいた。
瞬間、ピクリと三角耳が揺れて。窓越しに、銀の瞳と視線がぶつかった気がした。
馬車の中でつぶやいた声など、聞こえているはずもないのにーー。
絡んだ視線も。ほんのわずかに彼が目を見開いた気配も。きっと私の気のせいだろう。
◇
ーーカタリ。馬車が到着する。
御者が扉を開けると、ステップの横に彼が歩み寄った。
「長旅、ご苦労だった。.....遠い所をありがとう」
一言目がそんな言葉で、再会を前に緊張していた身体が柔らかく解れていった。
「.....こちらこそ。お忙しい所、お出迎え感謝いたします.....殿下」
フェンリル様とは呼べない。
私はいま人間の姿で、彼と私は初対面なのだ。
視線が無意識に滑っていく。
静かな水面の様な表情と連動する様に、旅の間はいつも揺れていた尻尾が、今はスンとしていて動きを見せない。
彼は私がミーナだとは知らない。
それでいい。本能のまま一夜を過ごした相手など気まずさを覚えるだけ。
いや、もしかすると半年も前のことだ。
彼の中ではとっくに忘れ去られているかもしれない。
番を失った悲しみの方がずっとずっと.....鮮明だろうから。
地面に降り立った私を、フェンリル様はじっと見つめた。
「...........?」
二人の間にしばし沈黙が落ちる。
私が首を傾げた頃、漸く彼が口を開いた。
「ああ、何でもないんだ。.....改めて。フェンリル・ユービィストだ。今回の結婚の申し出、受けてくれて助かった。知っての通り、私には事情がある。本来ならすぐにでも婚姻を、と言いたい所なのだが....妻となる君に、先に説明しておきたいことがある」
「...........?」
「一旦、中へ。ここは冷える。部屋で話そう。荷物は君の部屋へと運んでおくから」
「はい」
そうして、私たちは屋敷の中へ入っていった。
◇
執務室に通され、ソファに向かい合って腰掛けた。
リリアは荷物の整理のため離れ、人払いされた室内は私と殿下の二人きりだ。
使用人が離れる前に用意してくれた紅茶から、静かに湯気がたちのぼっている。
「座ってくれ。私のことはフェンリルと。君のことは....」
「自己紹介が遅くなり申し訳ありません。ジャスミン・リーフェントと申します。ジャスミンで大丈夫ですわ」
「ジャスミン嬢、よろしく。早速なんだが....」
フェンリル様は、真っ直ぐに私を見つめた。
その顔には迷いの色はない。
「私には番がいる」
「......はい、聞き及んでおります」
「......そうか。だが、きちんと説明しておきたい。番はいるが.....理由あってその番を失ってしまった」
「............」
瞬間、表情は暗く沈んで、煮詰めたような辛さが感じられた。重い口をゆるゆると開いて、再び続ける。
「私の記憶は一部欠けている」
「記憶が?」
「ああ。薬を嗅がされてな。おそらく....魔法薬の類だ。幸いすぐ対処して大事には至らなかったのだが.....それから大切なことが思い出せない。.....番を失ったのもそのせいだ」
「記憶が、欠けたせいで.....」
大切な思い出の記憶が欠けてしまった。そして、そのことに失望した番の方は、フェンリル様の元から去ってしまった。そんな想像が、私の頭の中を駆け抜けていった。
「どうすれば記憶を取り戻せるのかもわからない。
もし魔法で解けるならと他国の上級魔法使いと呼ばれる者に解毒を頼んだが、ダメだった。
魔法で封じられた記憶を取り戻すには『鍵』がいると言われてな。でもその『鍵』が何なのかもわからない。お手上げ状態だ。
せめて鼻が利けばいいのだが.....その日から鼻までおかしくなって.....においがわからないんだ。医師には診てもらっているが、変わらない」
「鼻が.....」
「ああ」
「あの.....鼻が利くようになれば、殿下の『記憶』を取り戻す手立てになるかもしれないのですね?」
「はっきりとは言い切れない。でも私は.....その可能性がある気がしている」
「なるほど....」
室内は、また静けさを取り戻す。
俯いているフェンリル様の顔をじっと見つめる。
確かにその姿はあの日のまま。だが、近くで見ればよくわかる。目の下に浮かぶ隈やこけた頬。あまり優れない顔色。
悲しみに暮れているという噂が、脳裏を掠める。私は思考の海に沈んでいった。
どのくらい経っただろうか。
下を向いていた顔をあげ、フェンリル様は沈痛な面持ちで告げた。
「単刀直入に言おう。.....私はこれからも番への気持ちを持ち続ける」
「.....はい」
「私には、婚姻を急ぎたい事情がある。だから、君には本当に感謝している。しかし....人間の君が思い描く様な普通の夫婦にはなれないだろう。.....私は」
ーー君を愛することはできない。
彼が一番伝えておきたかったことはこれだった。けれど、私の中でそれは覚悟してきたことだ。
「.....それでも、結婚してくれるだろうか?」
遠慮がちに尋ねたフェンリル様に、私は深く頷いた。
「....ええ、殿下。いえ、フェンリル様。よろしくお願いします」
「ありがとう....」
そして。その一週間後、私たちは夫婦となった。
フェンリル様の事情と式は二人きりの小さなものがいいという私の希望から、ステンドグラスの綺麗な教会でひっそりと誓いを立てた。
婚姻をすませると、フェンリル様はすぐさま臣下にくだった。公爵の位を賜り、フェンリル・ウィルフォードと名を改めた。




