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ーー翌朝。
「ついに、来てしまったわ」
朝になってしまった。
冷静になって考えてもこの状況はどうもおかしい。
そもそも男性と出かけたことなんて一度もないのに大丈夫なのだろうか。
昨日だって。初めて会った男性に触れられたり、エスコートされたり。その時は目一杯で気づかなかったが、一人になって漸くことの重大さに気づいて悶えたものだ。
自分の正体を隠すことに気を取られていたのもあるが、完全にフェンリル様のペースにのまれていたのだろう。
.....優しかったな。
案内や宿の話をしていた時は強引さに驚いていたのに、帰りに受けた彼のエスコートはひどく優しさに溢れていた。
まるで自分が大切な存在にでもなった気分だ。
考えていると、彼の嬉しそうな笑顔が浮かんだ。パタパタと手を振って霧散させる。
だめだ、フェンリル様といるとペースが乱れる。
ちらりと時計に目を遣る。もうすぐ時間だ。
困ったな.....本当に今から迎えに来るのだろうか。
どんな顔をして会えばいいのかわからなくて、ソワソワと意味もなく部屋の中を歩き回ってしまう。
「...........」
ふと立ち止まって部屋の姿見で自分を映す。
今日は行く場所に合わせてパンツスタイルだ。
シンプルな白シャツを着て、グレーのパンツと底の低い茶色のブーツを履く自分の姿に、苦い気持ちが込み上げる。
.....やっぱり断ればよかった。こんな地味な格好じゃ、フェンリル様も一緒に歩くのが嫌なんじゃないかしら。
殿下に散々地味だと言われたことを思い出して、身を固くした。
コンコン。
と、悩んでいるといつの間にか時間が来ていて、ドアをノックする音がした。
....フェンリル様が嫌がるなら、丁重に案内を辞退してひとりで行けばいいのよね。
そう思ってドアに向かったがーー。
結局、私の心配は杞憂に終わった。
ドアを開けた私を見て「君はどんなスタイルも似合うな」と、彼がやさしく笑ってくれたから。
◇
「本当にここでよかったのか?」
「はい、ここが良かったんです」
「そうか」
私たちは街ではなく、王都から少し離れた場所にある森に来ていた。サクサクと楽しい音を響かせて、土や落ち葉を踏みしめて歩く。
これは私の希望で、今回の旅の目的の一つだった。
武力、工芸品、香水と様々な特色をもつユービィスト王国は緑にもあふれた国だった。
隣国でありながら自然の豊かさでは、モーリャント王国とは比べものにならない。
王都を囲んで東西南北と四つの森があり、それぞれにこの国にしか自生していない植物がたくさんある。
私が来たかったのは、南に位置する森。
本で読んで知ったある植物を探しに来た。
「その本、持とうか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。これは私が持ちたいのです。色々と調べものがしたいので」
「なるほど。わかった」
私が持つ分厚い本を指差して彼が気遣ってくれた。
「それは植物の本?」
「はい」
「何を探してるの?」
「幸福の雫っていう植物なんです。そろそろ種を落とす頃なので、採取したくて」
ユービィスト王国の法では、今のところ採取した植物の他国への持ち出しは禁じられていない。
モーリャント王国も、種子に関しては特に持ち込みに規制はないため、採取して持ち帰りたいと考えていた。
「幸福の雫....聞いたことないな」
「そうですね。一般的に知られていませんし」
「うむ」
「これなのです」
私は歩きながら分厚い本のページを開いて指で示す。
そこに描かれている赤い花を咲かせる細長い木。幹はつるりとしていて、手触りが良さそうだ。
「へえ」
「この木は少ない水でも育ち、成長も早い。土壌も選ばず、比較的生育不良も起こりにくい。生命力にあふれた木なのです。これだけ強い植物は、珍しいのですわ」
モーリャント王国は水不足で南部は砂漠化も進んでいる。太陽の雫が、砂漠化した地域の緑化のヒントにならないかと興味を持った。
緑化すれば土地の保水力も上がる。回り回って水不足の改善にも効果が期待でき、好循環だ。
遠くへ行くなら何がしたいか考えた時、この植物が思い浮かんだ。
両親に迷惑をかける自分を情けないと思うなら、間接的にでも両親のためになることをすればいい。
「...........」
そんなことを考えていたら突然フェンリル様が黙った気配に、ハッとした。
.....こんな話聞いてもつまらないわよね。
「君と話していてもつまらない」と不快に歪む殿下の顔が過った。
反射的に本を握る手に力が入り、視線が俯きかけたときーー。
「ミーナはすごいな」
「え?」
目の前のフェンリル様は目を細め、やわらかに笑っていた。蔑みや嘲笑の色は微塵もない。
ただ純粋に感心して、褒めてくれている。
そう感じる、あたたかで優しい笑みだった。
ふわふわと後ろで振れる尻尾が視界にうつる。
「君は植物に関して博識だ」
「......本で、読んだことがあるだけですわ」
声が微かに震えた。
「うむ。その本もかなり読み込んであるのが一目でわかる。もしかして、いつも持ち歩いているのか?」
私はゆっくり頷いた。
「そうか」
ーー君は本と植物が好きなんだな。
フェンリル様が目尻を垂れて言った言葉が、絡まった糸の隙間にじんわり沁みる。
「.....好きです」
ーー私は本と植物が.....とても好きなのです。
気づけばするりと。素直な気持ちが滑り出ていた。
「そうか」
唇は弧を描いたまま満足そうに頷く彼を見て、なぜだか喉の奥が突っ張った。
心を温かなものが包み込み、そっと傷を撫でていく。
「これはなんていう植物なんだ?」
「あ....こ、これはーー」
その後、私たちは無事、太陽の雫を見つけて種子を採取した。
途中、珍しい植物をたくさん見つけて足を止めても、彼は嫌な顔ひとつしない。一緒に観察し、葉や種子を採取して、時々彼が冗談を口にして笑う。
そんな穏やかな時間が流れた。
◇
森の入り口まで戻ってきた頃にはもう昼はとうに過ぎていて、お茶の時間に近かった。
「この辺で座らないか?喉が渇いただろう。サンドイッチやお菓子も持ってきたからお茶にしよう」
そう言って森の入り口で待たせていた馬に下げていた籠から、色々と取り出す。
ここは広場になっていて、合わせて持ってきていたらしい大きめの敷物を広げてくれる。
風が吹いてサラサラとフェンリル様の髪や尻尾が靡く。
やっぱり綺麗ーー。
陽の光が反射する髪も尻尾も。
穏やかな横顔も。
目が合えば細められる瞳も。
「気持ちいいな。ピクニックみたいだ」
「はい、すごくお天気もいいですね」
今まで枝の隙間から見えていた青空が、私たちのうえいっぱいに広がっていた。
フェンリル様は敷物に座って、ボトルに入れた温かな紅茶をカップに注いで手渡してくれた。
お皿には「どれがいい?」とひとつひとつ尋ねながら、カップケーキやサンドイッチ、フルーツなどを取り分けてくれる。
一口カップケーキを頬張って、紅茶をこくりと飲むとホッとした。
「それにしても、もうこんな時間か。どうりで腹が空くわけだ」
サンドイッチをパクつきながらフェンリル様がしみじみ言った。
「ええ、本当に」
「あっという間だった。君と話すのは楽しいな。時間が足りない」
「.............」
そう言ってふっと笑う。
まただ。この人はどうしてこうも、私を喜ばせる言葉をくれるのだろう。
嬉しくて口の端がむずむずした。
無意識に緩む頬に気づかれないよう、フルーツを口いっぱいに放り込む。
果物の爽やかな酸味に、頬がきゅっと締まった心地がした。
「くっ。くくく。そんなに慌てなくても果物は逃げない」
「..........っ」
フェンリル様には笑われてしまったけれど。
「さて、もういい時間だ。これを食べたら帰ろうか」
「え、ええ」
そして、片付けを済ませてまた王都へ戻った。
翌日も休みをとっているとフェンリル様が言って、少し浮き立つ自分に驚いた。
昨日はあった「ひとりでまわりたい」という気持ちは綺麗に消えていたーー。




