白銀の目覚め
魔導帝国の最高中枢、大樹の軍議の間。
虚ろな目をした高位森霊族の幹部たちが機械のように書類へ署名を続ける中、円卓の上座に腰掛けるブライスの前に、一つきの巨大な水晶玉が恭しく献上された。
「我が主様。この森霊族どもが遺した『遠見の水晶』にて、世界の果てを監視しておりましたが……一つ、特筆すべき異常な魔力波長を観測いたしました」
元大将軍の血肉を喰らい、その姿を模して受肉した上位悪魔――新シルヴィスが、燕尾服の胸に手を当てて深く一礼する。
「異常な波長、だと?」
ブライスが退屈そうに水晶玉へ視線を落とす。そこに映し出されたのは、人間界からも魔導帝国からも遥か遠く離れた、生命の息吹すら存在しない荒涼たる絶対零度の氷土であった。
その地下深くから、微弱ではあるが、世界そのものを震わせるほどに純度の高い『白銀の魔力』が脈打つように溢れ出しているのが見て取れる。
その光景を見た瞬間。常に深淵のように静かだったブライスの瞳の色が、僅かに、しかしはっきりと変わった。
それは、神話の時代から彼が唯一「対等」と認める存在――もう一人の厄災たる『白銀の姫』アイリスの目覚めの兆候に他ならなかった。
「……あの寝坊助が、ようやく目を覚ましたか」
ブライスの口元に、凶悪でありながらも、どこか懐かしむような弧が描かれる。
彼がこれほどまでに感情の揺らぎを見せるのは、永き眠りから目覚めて以来、初めてのことであった。
「案内しろ、シルヴィス。その波長の元へ、僕たちで直接迎えに行くぞ」
世界の最果て、生命の息吹すら凍りつく絶対零度の氷土。
その地下深くに隠された忘れ去られた古代遺跡の最奥には、神殿のように広大な空間が広がっていた。
空間の中心に鎮座する、冷気を放つ巨大な氷の棺。
ブライスと四柱の悪魔、そして悪魔シルヴィスがその空間に足を踏み入れた瞬間、棺を覆っていた数千年分の氷が、まるで内側から弾けるように粉々に砕け散った。
氷の霧が晴れた後。
そこに立っていたのは、月光を編み込んだような白銀の長髪と、透き通るような純白の肌を持つ一人の少女――神話の時代よりブライスと唯一対等に並び立つ存在、『白銀の姫』アイリスであった。
永き眠りから覚めたアイリスは、ゆっくりと琥珀色の瞳を開き、目の前に立つ深闇の覇王を真っ直ぐに見つめた。
「……相変わらず、可愛げのない顔をしているわね、ブライス」
「お前の寝起きが悪いのは神話の時代から知っている。随分と長く微睡んでいたものだ」
二人の間に交わされたのは、数千年の空白など存在しなかったかのような、あまりにも自然な会話だった。
ふと、アイリスの視線がブライスの足元に平伏している燕尾服の悪魔――新シルヴィスへと向けられる。
「……ゼルゴス、で合っているかしら? いや、今のその魔力の波長……名前が変わっているわね。久しいわね、私の可愛い従者」
アイリスがかつての名前を口にした瞬間、悪魔シルヴィスの肩が大きく跳ねた。
彼はアイリスが眠りにつく前、彼女の末席に仕えていた忠実なる悪魔であったのだ。
「お、おお……アイリス様。我が真なる光よ……ッ」
シルヴィスは血の涙を流しながらも、顔を上げることはしなかった。
アイリスは静かに歩み寄り、冷たい石の床に這いつくばる悪魔を見下ろした。
「私が眠っている間に、貴方との主従契約はとうに切れてしまっていたようね。そして……ブライスの召喚に応じ、新たな名と契約を得たと見える」
「……はい。アイリス様が眠りにつかれた後、私の魂は空洞となりました。そして時を経て、偉大なる原初の王の召喚に応じ、新たに『シルヴィス』という名を賜りました」
アイリスは微かに微笑み、彼に残酷な、しかし極めて重要な問いを投げかけた。
「そう。ならばシルヴィス、貴方は今、どちらに付くのかしら? かつての主である私か……それとも、今の主であるブライスか」
その場にいたヴァイスたち四柱の悪魔が、僅かに殺気を漂わせる。
だが、悪魔シルヴィスは一切の迷いを見せることなく、床に額を擦り付けたまま、誇り高く宣言した。
「我々悪魔は、何よりも『契約』を重んじる生き物でございます。私の魂も、命も、すでに偉大なる王ブライス様に捧げたもの……。故に私は、ブライス様の御剣として生きる道を選びます」
かつての主に背を向け、現在の契約を全うする。
その悪魔としての完璧な矜持と忠誠心を見たブライスは、満足げに目を細め、静かに口を開いた。
「見事な答えだ。……シルヴィスよ。その忠誠と覚悟に対する褒美として、我が直属たる十の配下、その七番目……『七指』の座を貴様に与えよう」
「ッ! ありがたき幸せ……!! このシルヴィス、七指の誇りに懸けて、王の覇道を盤石なものといたしましょう!」
新たな『七指』が誕生した瞬間であった。
アイリスは悲しむどころか、嬉しそうにパチンと手を叩いた。
「立派になったじゃない、ゼルゴス……いいえ、シルヴィス。それじゃあ、私もこれからブライスの居城に居候させてもらうとするわね」
アイリスが氷の棺の祭壇から階段を降り、ブライスの横に並び立った――その時である。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
遺跡のさらに奥深く、あるいは地上周辺から、地鳴りのような魔物たちの咆哮が一斉に響き渡った。
アイリスが棺のあった中心部から離れたことで、数千年間この遺跡を外界の脅威から守っていた『白銀の魔力』の結界が完全に消失してしまったのだ。
警戒して身を潜めていた凶悪な魔物たちが、縄張りを奪い返そうと一斉に活動を再開したのである。
「あら、困ったわね。私が離れたら、この遺跡が魔物や盗掘者どもに荒らされてしまうわ」
アイリスはわざとらしく頬に手を当てると、隣に立つブライスを見上げて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ皆、少しばかりこの王様を借りていくわね〜」
「……おい、貴様。一体何を企んでいる」
ブライスが嫌そうな顔をする間もなく、アイリスは強引に彼の腕を掴み、遺跡の空間から一瞬にして跳躍(転移)した。
二人が姿を現したのは、天を貫くほどの険しい岩山――神をも焼き尽くす炎を吐くと言われる、古竜たちが支配する『竜の巣(竜の霊峰)』であった。
突如として不可侵の聖域に現れた二人の人間(の姿をした者)に、山を覆い尽くすほどの巨大な竜たちが一斉に敵意を剥き出しにする。
『グルルル……何者だ、貴様ら。矮小な人間の分際で、我ら古竜の聖域に足を踏み入れるとは』
霊峰の頂から、山そのもののように巨大な竜の長が、見下すような傲慢な声を響かせた。
『ここがどこか分かっておらぬようだな。小娘とひ弱な男よ、我らの怒りに触れる前に、灰となって消え失せよ!』
四方八方から向けられる、人間ならば一瞬で発狂するほどの強烈な竜の殺気。
だが、アイリスは全く動じることなく、背伸びをしてブライスの耳元に顔を寄せた。
「ねえブライス。あのトカゲたち、随分と偉そうよ? 貴方の『本当の姿』を見せて、少し躾をしてあげたら?」
「……チッ。貴様は本当に、昔から人使いが荒い女だ」
ブライスは深く舌打ちをすると、竜たちを見据えたまま、ゆっくりと一歩前に出た。
「羽虫どもが、随分と高く飛んでいるじゃないか」
次の瞬間。
ブライスの人間の姿という『皮』が弾け飛び、世界を漆黒に染め上げるほどの絶望的な魔力が霊峰を包み込んだ。
天地が鳴動し、空の雲が吹き飛ぶ。
そこに顕現したのは、人間などではなく、古の神々すらも恐怖した理外の存在――星を喰らうほどの巨体を誇る、真なる『覇王の古竜』の姿であった。
深淵を煮詰めたような漆黒の鱗、天を覆う巨大な翼、そして絶対的な死を象徴する瞳。
先ほどまで「小娘」と吐き捨てていた竜たちの時間が、完全に凍りついた。
『な……ッ!?』
『あ、あああ……! こ、この圧倒的な魔力と、絶対なる竜の覇気……! そ、祖の竜すら凌駕する、真の……ッ!?』
傲慢に振る舞っていた巨大な竜の長が、自らの巨体を震わせながら、無惨なほどに地に這いつくばった。周囲の竜たちも一斉に翼を折りたたみ、恐怖と畏敬のあまり、頭を岩肌に擦り付ける。
『も、申し訳ございませぬ! 力強い魔力を感じてはおったのですが、ま、まさか、これほどまでに偉大なる古竜様であらせられましたか! 我らの無礼、どうか、どうか海容を……ッ!』
先ほどの威勢など微塵もない、完全なる180度の態度変化であった。
アイリスはクスクスと笑いながら、平伏する竜の長に指を差した。
「分かればいいのよ。それで、貴方たちの群れの中で一番強くて素早い子を一人、私に貸してちょうだい。それと……帰りまでの足もね」
アイリスの絶対的な命令(その後ろに控える漆黒の古竜の無言の圧力)に逆らえる者などいるはずもなく、霊峰で最も武力に秀でた精鋭の竜が、震えながら進み出た。
アイリスと、再び人間の姿に戻った不機嫌なブライスは、その精鋭竜の背に乗ると、空を裂いて遺跡へと帰還した。
数時間後、一行は再び遺跡の最奥、広大な棺の間に降り立った。
アイリスは、怯えたように傅く精鋭竜の鼻先に立ち、威厳に満ちた声で絶対の命令を下した。
「お前には、今日からこの棺の間と、遺跡全域の管理を任せるわ。ここから溢れ出す下等な魔物を制圧し、遺跡の周辺を嗅ぎ回る人間や探索者、いかなる敵対勢力も決して近づけないこと。……分かったわね?」
『グォォォ……!(御意のままに、白銀の姫君と、偉大なる古竜様!)』
竜が深く首を垂れ、その命を魂に刻み込んだことを確認すると、アイリスは満足げに頷いた。
遺跡の防衛という目的を果たし、ようやく彼女はブライスへと振り返る。
「さて、これで私の寝室の警備は完璧ね。それじゃあ、貴方のお屋敷に案内してちょうだい」
ブライスは呆れたようにため息をつきながらも、背後に展開された巨大な転移魔法陣へと歩みを進めた。
かくして、数千年ぶりの再会と、竜の霊峰でのちょっとした寄り道を終えた一行は、数日ぶりにブライスの支配する覇王の居城へと帰還を果たしたのであった。




